十如是(じゅうにょぜ)(その4)
「女将(おかみ)どの。この近くに、灯油(ともしあぶら)を商っている店はどこかな?」
本所・緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の女将・福(ふく 38歳)に訊いているのは、火盗改メ・同心の大林源吾(51歳)とともに訪れた銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)である。
福からは、賊のうち、首領株とみえる男からは線香の、〔軍者(ぐんしゃ)〕からは水油(みずあぶら 灯油(ともしあぶら)とも)の匂いがしていたことをおもいださせた。
女中頭で、天童育ちの留(とめ 32歳)からは、小男の〔軍者〕が紅花染めの手拭いをいつも携えていることを訊きだした。
下谷(したや)の日蓮宗の善立寺の日顕師(にっけん 40歳がらみ)から、『法華経』の「十如是」(じゅうにょぜ)を教えられたことがきっかけで、料亭〔古都舞喜楼〕楼の事件を返訊(かえしき)きとりを申しでた成果である。
「うちは、商売がら、灯油(ともしあぶら)の遣いおししみをしませんもので、深川・油堀の中ノ橋ぎわに店のある水油仲買・大和屋さんから届けてもらっていますが、このあたりのしもた屋は、どこで求めているのでしょうねえ。お留さん、ご存じかい?」
「さあ。私は通いではないので、存じません」
「通いは、お松さんだけだった。宵の口にならないと来ないのだよね」
女たちのらちもない話につきあってなんかいられないとばかりに、大林同心が腰をあげる。
「いや、大儀であった。なにかおもいだしたら、役宅のほうへ届けてくれ。存じておろうが、一番町新道の長谷川正直(まさなお)さまのお屋敷だ。こちらは、長谷川さまの甥ごさまだ」
(火盗改メ役宅=一番町新道・長谷川太郎兵衛正直・屋敷)
「これからも、お話をうかがいに寄せていただくので、よろしく」
銕三郎がすかさず、約束をとりかわす。
「火盗のお頭(かしら)の甥ごさまですか。私は、また、ずいぶんとお若いのに、お役目熱心なお役人さまと、感心申しあげておりました。こんごとも、ご贔屓にお願いいたします---あら、ご挨拶をまちがえました。火盗のお役人さまには、もう、ご贔屓にはなりたくはございません。どうぞ、お気兼ねなく、お遊びにいらっしゃってくださいませ」
また、ちろりと舌の先で上唇の端をなめる。商売がら、媚(こび)をふりまくのがくせになっているようだ。
(いずれ、金主(きんしゅ)の男がいるのだろうに、あまり可愛がられていないとみえる。まあ、女性(にょうしょう)もこの齢あたりが、化粧(けわい)で魅(み)せる、ぎりぎりかもな)
若い銕三郎には、女将・福の年齢は、母・妙(たえ)とどっこいどっこいに見える。
若い男の目は、大年増に対して残酷なほどきびしい。
とはいえ、きょうの銕三郎は、「十如是(じゅうにょぜ)」のつづきが頭の中をしめている。
如是力(にょぜりき)---動作としてあらわすための力
如是作(にょぜさ)-----あらわされた動作
如是因(にょぜいん)---そうなるための原因
如是縁(にょぜえん)---因を補う条件
如是果(にょぜか)----そうなった結果
大林源吾同心には、丁寧に礼を言ってから、二ッ目之橋のたもとで別れた。
(被害店〔古都舞喜楼〕から、〔五鉄〕=二之橋北東詰)
銕三郎は、〔五鉄〕へ寄って、このあたりで水油を売っている店を、三次郎(さんじろう)にたしかめてみようかとおもったが、すぐに考えなおした。
もし、盗賊・〔初鹿野(はじかの)〕一味の参謀格〔軍者(ぐんしゃ)〕こと、〔舟形(ふながた)〕の宗平の耳へ、銕三郎が灯油(ともしあぶら)のことを訊きまわっていることが入ったら、かねてからの心配ごと---類が〔五鉄〕へおよばないともかぎらない。
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