〔荒神(こうじん)〕の助太郎の死
(これほどまでに公私の別をはっきりなさるご仁だったとは---)
屋敷あてに届いていた京都の禁裏付・建部(たけべ)大和守広殷 (ひろかず 58歳 1000石)からの飛脚便を開披しながらの平蔵(へいぞう 40歳)の感想であった。
上(かみ)の禁裏付として赴任する建部大和守に、京都に本拠をおいていた盗賊の首領・〔荒神(こうじん)〕の助太郎の消息がお耳にはいったらご一報いただければ幸いと依頼しておいた。
【参照】2011年11月17日~[建部甚右衛門、禁裏付に] (1) (2) (3)
2011年12月21日~[建部大和守広殷を(見送る)]
おもいかえすと、〔荒神〕の助太郎という盗賊が平蔵の人生になにかとかかわってくるようになったのは、銕三郎(てつさぶろう)を名のっていた14歳のときからのことであった。
【参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (1) (2)
この旅で銕三郎は、自分の青春でもっとも印象深い体験をした。
40歳で4児の父となっているいまおもい返しても、甘ずっぱい快感が胸と股間をはしる。
男といものの甘っちょろい感傷としかいいようがないが、すべての男が経験できる甘美ではない。
もしかすると、万に一つの幸運を引きあてたのかもしれないと、いまはおもう。
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)
その後、助太郎の姿を見かけたのは、小田原城下のういろうの店の前での1回こっきりだが、かの盗賊の所業は、平蔵の人生にからんできていた。
助太郎の仕事(つとめ)の探索で掛川城下へおもむき、お竜(りょう 30歳=当時)と再会、相良までの短い旅をともにしたが、こころはともかく、躰の結びあいは、その旅が最後となった。
【参照】2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (4)
建部大和守の書簡によると、京都西町奉行所の与力・浦部源六郎(げんろくろう 60がらみ)を一夕、相国寺門前町の上の役宅に招き、平蔵の話に興じ、話のついでに〔荒神〕の助太郎のことを持ちだしてみたところ、役所の記録をしらべてくれ、助太郎の病死によって〔荒神〕一統が解散、その残党をまとめていた近江・大津在生まれの〔穴太(あのう)の幾次(いくじ 55歳)の留め書きの写しがとどけられたという。
写しには、助太郎の連れあい・お賀茂(かも 50代半ば)と独りむすめのお夏は、助太郎の死とともにいずこともなく去ったとあった。
ついでのことに付記しておくと、16歳で父・忠助(ちゅうすけ)を失ったおまさは、いったん〔乙畑(おつばた)〕の源八(げんぱち)の配下にいたが、18歳のころに〔荒神〕の助太郎のところへ移り、名護屋で仕事中に仲間の〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんじろう)にレイプされたことは、平蔵は知らない。
【参照】2005年3月3日[おまさの年譜]
助太郎の死をしらされた平蔵が、生涯のライバル---というか仮想の敵将を失ったような、軽い虚脱感をおぼえたのも事実であった。
(この事実を、知行地の寺崎村で竹節人参づくりをしている太作(たさく 70すぎ)爺ィやにだけは知らせてやらないとな)
そうだ、建部大和守の追って書きも加えておくことで、平蔵の追悼の気持ちを代弁しておこう。
〔穴太の幾次が処刑の前に与力の一人にしみじみとした口調で洩らしたそうな。
「〔荒神〕のお頭は、
一、盗まれて難儀(なんぎ)するものには、手をださぬこと。
一、盗めをするとき、人を殺傷せぬこと。
一、女を手ごめにせぬこと。
金科玉条としてお守りになったよって、畳の上で姐(あね)はんやお夏(なつ)はんに看取られて大往生なさんしたに、わては手下のしめつけを手ぬかったがために打ち首になるいうのんも、頭としてのこころがけの差でおますわなあ」
【参照】『鬼平犯科帳』文庫巻23[炎の色]p74 新装版p
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