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2007.11.26

『田沼意次◎その虚実』(3)

静岡県・相良の郷土史家・故後藤一朗さん『田沼意次◎その虚実』(清水新書 1984.10.10)を紹介している。

第1章「田沼意知の危禍」はこんな書き出しではじまっている。

一七八三年(天明三)一一月、山城守(やましろのかみ)田沼意知(おきとも)は若年寄(わかどしより)を拝命、新たに五○○○石の蔵米(くらまい)を賜ることになった。父田沼意次は十代将軍家治(いえはる)の寵臣(ちょうしん)、すでに十数年間老中の職にあり、四万七○○○石の相良(さがら)城主(一七八五年には五万七○○○石となる)。当時”田沼父子"といわれて幕政の実権を握り、飛ぶ鳥も落とす勢いであった。(略)

そういう得意絶頂の時、一七八四年(天明四)三月ニ四日、意外な大事件が起きたのである。
その日の夕刻近くの退庁時、城中若年寄部屋から、酒井石見守(いわみのかみ)・太田備後(びんご)守・田沼山城守・米倉丹後(たんご)の四人がそろって退出、中(なか)の間を過ぎて桔梗(ききょう)の間へ入ってきた時のことである。すぐその下の新番御番所に控えていた下級武士五人のなかの一人、佐野善左衛門政言(まさこと)はにじり出て、
「山城守、佐野善左衛門にて候(そうろう)、御免(ごめん)!」
と大声でせ叫んで粟田口(あわたぐち)ニ尺一寸の大刀、鞘を払って斬りかかった。

(ちょうすけ注:)「夕刻近く」はなにかのはずみの思いちがいであろう。老中の退出は2時。それを待って若年寄が退(ひ)く。
『徳川実紀』のその日の記述にも、「けふ例のごとく事はて、午(うま)の刻(午後1時から1時間)のをわりに、宿老(老中)の輩はみなまかりでぬ。少老(若年寄)も是にさしつぎて退出(さがら)むとと、打連て中の間より桔梗の間にかかりたるところ---とある。
次の疑問は、城中へ登る時には、大刀は預ける決まりのはずだが、新番番所へ詰める時には所持がゆるされているのだろうか。
も一つ。粟田口といえばかなりの名刀で、『鬼平犯科帳』長谷川平蔵が帯びていることにも疑問が呈されている。家禄500石の佐野がもてるのだろうか。

意知が振り向いた時には、早くも切っ先は目の前に来ていた。防ぐ間も、避くる間もなく、肩先に長さ三寸、深さ七分ほどの一太刀(ひとたち)をうけた。次の間に避けようとした意知の後ろからおろしたニの太刀は、柱へあたって届かなかった。(略)

善左衛門は柱にくいこんだ刀をはずすと、人びとの間をくぐって後を追い、意知の姿を見るとまたも斬りかかった。とどめを刺すつもりで腹をめがけて突いたところ、意知は必死になって鞘のままこれを防ぎ、からくも腹はまぬがれたが、両股(りょうまた)にニ太刀、また深手を負った。(略)

近くにいあわした大目付松平対馬守は、すでに七○歳の老人であったが、血刀を振り廻している佐野に飛びかかって羽交締めにした。続く柳生主膳正(しゅぜんのしょう)は、彼の刀を奪い、ようやく捕りおさえた。善左衛門は、あとニ太刀とも手応え十分だったので、
「目的達成のうえは、手向かいいたしません。」
と神妙に捕えられたが、前後を御徒(おかち)目付にとり囲まれて連れ去られた。

(ちゅうすけ注:)『徳川実紀』のニュアンスは微妙に異なる。「意知殿中をやはばかりけん、差添をさやともにぬき、しばしあひしらひたりしに、その場にありあふ人々は、思ひよらざることなれば、たれ押さへむともせず、あはてさはぎしに、はるかへだてし所より、大目付松平対馬守忠郷(たださと)かけきたりて、善左衛門政言をくみ伏せし処を、目付柳生主膳正久通(ひさみち)打逢て、ともに政言をとらへ獄屋に下しぬ」

この経過は、すでにいろんな形で伝えられているから、目新しいところはない。ただ、後藤さんの発明は、ことの経緯を図にしめしているところである。
それを引用する。

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後藤さんは、この事件を、ある勢力のテロリズムと談じている。その説は改めて詳述する。

2006年12月4日[田沼意知、刃傷後]
2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その1)]
2007年1月4日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(2)]
2007年1月6日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その3)]

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