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2006.12.04

田沼意知、刃傷後

田沼意次の居城---相良城の召し上げにいたるまでの、あれこれの事件を年順に並べてみる。

天明4年3月24日 いつもののごとくに仕事を終え、午(うま)
(1784)  の刻の終わり(午後2時前)ごろに、老中たちは退出。
       つづいて若年寄たちも提出しようとうち揃い、中の間か
       ら桔梗の間へさしかかったとき、新番組の士・佐野
       善左衛門政言
が直所から走り出てきて、刀を抜いて、
       田沼山城守意知に切りかかった。

       意知殿は殿中であることをはばかったのであろうか、
       差添をさやとともにぬき、しばしあしらっている。
       その場にいたほかの若年寄たちは、思いもよらない
       事態に、だれも佐野を取り押さえようともせず、あわ
       て騒ぐのみであった。

       そのとき、はるかへだたった場所から、大目付の
       松平対馬守忠郷がかけよってきて善左衛門
       を組み伏せたところを、目付・柳生主膳正久通
       打ち逢うて、ともに政言を捕らえて、獄舎に下した。

       (この件の『甲子夜話』の記述↓)
       『甲子夜話』巻1-7

       あちこち傷を負った意知を、やってきた番医・峯岸
       春庵と天野良順が治療をほどこし、轎i(たけで編
       んだこし)に乗せて主殿頭意次の邸へ送った。
       (『実紀』。日記 藩翰譜続編)


天明4年4月3日 若年寄・田沼山城守意知
(1784)  が癈(はい)を病んで死んだので、新番士・佐野善左
       衛門
に死を給う。
       善左衛門は、獄屋に下されたのち、有司が鞠問
       したが、けっきょく狂気のせいということにして、
       獄屋で切腹。
       よって、目付・山川下総守貞幹が属吏を率いて
       検視した。(『実紀』。 藩翰譜続編) 

 (天明4年12月8日 西城書院番・長谷川平蔵宣以は同
              徒頭となる(『実紀』))
 (天明4年12月16日 西城徒頭・長谷川平蔵宣以とほか
              19人が布衣の侍に加わる。
              (『実紀』))
天明5年12月1日 松平越中守定信、溜間詰となる。(『寛政譜』)
(1785)

 (天明6年7月26日 西城徒頭・長谷川平蔵先手頭となる。
              (『実紀』))

天明6年8月16日 (将軍家治の病気のため)拝謁をゆるされてい 
(1786)        た市井の医者・日向陶菴某と若林敬順某を、
             田沼主殿頭意次推戴し、にわかに内殿に
             召して御療治のことをあずからしめる。
             (『実紀』)

天明6年8月27日 老中・田沼主殿頭意次、老中を病免、
            雁間詰となる。(『実紀』)

     8月28日 奥医・日向陶菴某と若林敬順某は、さきに賜
            った廩俸を収められ、職を放免される。
            (『実紀』)
 
     9月3日  (将軍家治の)御病が重くなllり、溜詰、雁間
            詰、奏者番はじめ群臣が出仕。(『実紀』)
           *このとき、田沼意次は病体を押して枕頭へお
            もむこうとするが、さえきられたとの説がある。
            家治はすでにして、薨じていたかもと。
        
     9月8日  (将軍家治の)喪を発する

    閏10月5日 田沼主殿頭意次はさきに職を免じられてい
            たが、加恩の2万石を収公され、御前を
            とどめられる。
            大坂の蔵屋敷とこれまでの邸宅を取り上げ
            られ、きょうより3日のうちに立ち去るよう命
            ぜられる。
            また、勘定奉行・松本伊豆守秀持は、御
            旨に違うことがあったと職を奪われ、采地
            500石の半分を収め、小普請入りの逼塞
            をいいつかる。。(『実紀』)

天明7年絵5月20日  夜から騒擾---いわゆる暴徒による
(1787)        打ちこわしがはじまる。
       5月23日  長谷川平蔵宣以ほか先手9組の組頭
            へ暴徒鎮圧の命が下る。

       5月24日 御側申次・本郷大和守が奉行申次を免
              ぜられる。(『実紀』)    

       5月28日 御側申次・田沼能登守意致病免して、
              菊の間詰となる。
              一橋邸より召し連れられていたので、
              特旨により、これまでの足米はそのまま
              給う。(『実紀』)

       6月16日 松平定信老中となる。(『寛政譜』)

(ちゅうすけ注) 田沼罷免後も、松平定信老中就任がすすまなかったのは、ひとつには、側御用取次で田沼派の本郷大和守泰行横田筑後守準松(のりとし)らが大奥へ手をまわして、定信の就任を拒んでいたからという。

天明7年5月某日、老女・大崎が尾張家を訪れ、同職の高岳と滝川が、先代将軍の遺言に「将軍家の縁者は閣僚にはしない」というのを楯にとり、定信の妹・種姫が家治の養女となっていることを理由にしていると話したと、菊池謙二郎さんが『史学雑誌』(第26編 大正4年1月20日刊)[松平定信入閣事情]で報告している。

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コメント

些事ですがちゅうすけさん、「史学雑誌」が「私学雑誌」になってますよ。出典が気になる職業病ですみません。このコメント消して下さい。

投稿: えむ | 2006.12.05 01:14

>えむ さん

ご指摘感謝。
入力と体裁に気が行ってしまってまして。
PCの文章体裁ぞろえをもっと勉強しないといけません。
ワープロ専用機が懐かしい、です。

投稿: ちゅうすけ | 2006.12.05 04:18

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