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2006.12.05

田沼意知、刃傷後。その2

天明7年10月2日 田沼主殿頭意次へ仰せ下されたのは、
(1787)        勤役の中不正のことが追々と判明して
            きたので、どうしたことかと思しめしてい
            る。
            前の将軍が御病気のうちにお耳に達し、
            御沙汰なさっておられたこともある。
            所領の地2万7000石を収納し、引退
            を命ぜられ、下屋敷に蟄居し、きっと慎
            しあるべしと。

            また、嫡孫・竜助意明同じことによる。
            (この箇所、意味のとれない文章)。
            前々代お取立てのことにより、前代に
            も御容恕あれば家をつがしめられ、
            1万石を下されて、遠江国相良の城
            は収められ、御前をとどめられる。

            その家人どもへも同じことを令されて、
            意明はいまだ年少だから家士どもが
            よく後見して諸事つつしんみ、念を入
            れるように。         

    10月12日 上使の旗本。大久保忠兵衛・井上兵
            兵衛が取り締まりのために相良到着。

    11月14日 岸和田藩の先発の永井伊織、久留十
            右衛門が相良入り。
            勘定所役人3名、代官・前沢藤十郎以
            下手代6名も相良入り。

    11月22日 岡部美濃守長備(ながとも)の一行2,
            600人が金谷宿から相良いり。平田寺
            を本陣いとする。

    11月25日 相良城明け渡し。田沼家臣らは、裃姿で
            岡部勢を迎え、無事引き渡しを終えると、
            裏門から礼儀正しく退去。

天明8年1月16日 この日から2月5日まで、人夫1500人
(1788)        を動員して、城はもちろん家臣の邸宅ま
            で根こそぎ破却。
            監督に動員されたのは、浜松、田中、横
            須賀の3藩から各60士であったと。

(ちゅうすけ注) 城の引渡しはともかくとして、このような破却は一体なんのためであったのか。
田沼憎しとはいえ、松平定信の狂気の沙汰としかおもえない。
城や役宅は、次に所領する者へ残しておくのが経済的な見地であろう。        

   

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コメント

 それにつけても、憎っき「田安定信」
 本当に狂気の沙汰とは思えません。
 将軍になれなかったのは「田沼」のせいか?
 「一橋」のせいか?
 白河藩では名君と慕われ、いまでも市民は思っている ようですが。
 「定信」は白河を嫌い桑名へ領地替を行った。

投稿: 大島の章 | 2006.12.08 08:51

>大島の章さん

定信の桑名移転は、もともと、家康から先祖が桑名をもらっていたので、先祖帰りをしたのでしよう。

気候が白河よりも温暖なだけ、実収入もふえたことでしよう。

でも、江東区には、白河町があります。

投稿: ちゅうすけ | 2006.12.08 11:32

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