相良城の請け取り
川原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)によると、『相良町始之事』に、
「十一月廿二日岡部美濃守様御預り到着、御人数凡千四百六十人程、伊賀士五十騎」
とあると。
『寛政重修諸家譜』の「このときこふて近江国甲賀の士五十人を召具す」が、ますます、おかしくなってきた。
それはともかく、『城下町相良区史』は、岡部美濃守(27歳)が本陣と定めた平田寺(へいでんじ)が、前年、田沼意次の寄進で新築・落慶なったばかりで、それが「幕府方収城使の本陣になったのは皮肉なめぐり合わせ」と記している。いや、まさにその憾が深い。
岸和田藩というか、岡部美濃守長備(ながとも)の田沼意次に対する私憤からかもしれないが、収城方は、12月25日、「朝六ッ、鉄砲五十挺火縄に点火して構え、弓五十張、矢をつがえ」「騎馬隊に前後を守らせた岡部美濃守は、陣笠、陣羽織のいでたち」であったたという。
まるで、戦争気分だ。
しかも、掛川藩主・太田摂津守および駿州田中城主・本多伯耆守が率いる各五十人が周辺の東川崎を、峯田村は遠州横須賀藩主・西尾隠岐守の精鋭が、平川村は三州吉田城主・松平伊豆守の部隊が固めていたのに、である。
出迎えた相良城方は、城代・倉見金太夫、家老・各務久右衛門、中老・潮田由膳以下三百七十一人、麻裃の正装で控えていたという。
城方は、米1000俵、金1万3000両、塩30俵、味噌10樽もすんなりと渡している。
わからないのは、1万3000両である。相良藩士たちの多くは失職するのだから、1両でも多く手にして去りたかろう。
松平定信は、田沼憎しが先にたったのか、そこまで思慮が及んでいない。武士の情けというものが作用しなかったらしい。
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