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2012.05.30

田沼主殿頭意次への追罰

この10数年、いくつかの成人学級で長谷川平蔵――鬼平を冠したクラスを5年から10年つづけ、単発のスピーチはたぶん100ヶ所を超えるほどこなした。

リスナーは当然、鬼平ファンであるが、小説の鬼平と史実の平蔵を混同していたので、そこをはっきりと区別するように――つまり、池波鬼平に副(そ)いながら、当時の江戸という大都市の町並み、人情、犯罪、さらには幕府の職制と習俗について解説した。

もっとも受講者が驚くのは、ちゅうすけ田沼意次は賄賂政治家ではなく、商業資本化していた経済構造にしたがい、日本の税制を農に商を組みこんだ先見性の高い幕閣であったと説明した瞬間であった。

もちろん、ちゅうすけは経済や税制の専門家ではないが、田沼に対して行った松平定信(さだのぶ))のあまりにも幼稚で偏狭な処置にいきどおりさえ覚えているため、つい、いいすぎとみられることもあった。

賄賂政治家説は、定信派が自分たちを良と思わせるるために、田沼を対極の悪の権化のように――日本3大悪人の 一人と当時の人びとに思いこませるように工作していた気味がある。

(余談だが、この国のいまの政府・与党のやり方にもそれは使われている。たとえば、小沢氏に対する金権政治家といった印象を貼りつけるためのマスコミ操作。あるいは原発をめぐっての世論操作など)

謀略で政権を手にした定信が、ご三家、一橋治済(はるさだ)と組んで、天明7年(1787)10月からおこなった相良城の取りこわしと田沼の封地の2万7000石の追徴召し上げも、政権交代の反動にしては酷すぎる。

家重(いえしげ)、家治(いえはる)が与えた5万7000石のうち、病気による辞表提出すぐの2万石没収、そして1ヶ月たらずおいての2万7000石追徴であった。
理由が、賄賂の悪習を煽り私服をこやしたというのである。
賄賂と贈与の境界づけはむつかしい。
こちらが要求していなければ贈与とみるぺきであろう。

とくに、幕府上層部のばあいはこの区別がはっきりしない。
というのは、封建的領主(藩主)とはいい条、幕府は絶対的権力をもって各藩に、藩外の築堤や修理などの巨額のご用を申しつけることができた。
各藩としては、幕府権力者へ1000両の贈与をしても、2万両のご用お手伝いを逃がれられれば、藩は1万9000両近く助かったことになる。

倫理感の問題ではなく、算術の引き算の問題であった。

もちろん、田沼がそれをやったというのではなく、幕府の制度からきている悪習であった。

そういった根本の問題はおいて、田沼から4万7000石をとりあげるなら、それに値するものを受けとったという証拠をあげて罰するべきである。
封地の4万7000石は、田沼個人のものではなく、300人からの藩士の生活の問題であった。

相良城の取りこわしにいたっては、まったく 田舎(でんでこ)芝居であったといえようか。
いや、もっと悪い。取りこわしを拝命した藩にとってはおもわぬ大金を浪費させられた。

参照】2007年11月27日[一橋治済

4年半前の上の文章を読んでいて、突然、相良城を徹底的に取りこわしたわけが閃いた。
そうか、それでは、跡形もなくこわさないとなるまい。

これまで、そのことに推理をおよぼした人は誰もいなかった。

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