水谷(みずのや)家(2)
小姓組の4番手の番頭・水谷(みずのや)出羽守(のち伊勢守)勝久(かつひさ)の周辺に目くばりしている。
勝久の父は、京師祇園の別当宝寿院の執行(しぎょう)であるが、じつは越前国鞠山藩(1万石)の初代目藩主・忠稠(ただしげ)の4男であったこともすでに明かした。
【参照】2008年12月3日[水谷(みずのや)家 (1)
水谷家は、勝久の3代前の出羽守勝美(かつよし 享年31=元禄6年)まで、備中国松山藩(5万石)の藩主であったが、継嗣の手続きの不手際から、廃藩となったことは記述ずみである。
勝美の父・勝宗(かつむね 享年67=元禄2年)に後室がいたことは、『寛政重修諸家譜』には採り上げられていないが、江東区文化センターの[鬼平クラス]で共に学んでいた久保元彦さんが、探索してきた。
その女性は、幼名はシゲ、長じて栄子、勝宗と死別後に大奥に入ってからは梅津(うめづ)と局名(つぼねな)を名乗っている。
父は、朝廷に勤務する明正院非蔵人(ひくらんど)職の松尾因幡守相氏(すけうじ)で、栄子は承応3年(1621)に5人妹弟の長女として生まれた。
久保さんは、栄子(のちの梅津)を林英夫氏[京女の見た元禄](『新潮45』1987年11月号を見つけた。以下は、そのリポートの要約である。
松尾家は、その姓がしめすとおり、京都右京区松尾に鎮座する松尾神社の神職家から父・相氏が分家して立てた家で、栄子の妹2人は朝廷に仕え、それぞれ、周防局(すおうのつぼね)、越前局(えちぜんのつぼね)と呼ばれていたという。
栄子は、25,6歳のころ、備中松山藩主・勝宗の後室にはいった。30余りも齢上の勝宗が病死したとき、栄子は36歳であった。
その4年後、継嗣・勝美が病死し、封地召し上げとなったので、栄子は、伝手をたよって元禄8年(1695)に大奥へ入った。そのときの名が梅津である。
久保さんのリポートをそのまま転載する。
当時、5代将軍綱吉の時代、子どもはお伝の方の男女2人のみ、お伝の方の対抗勢力が上臈御年寄(最高の奥女中)右衛門佐、当時「大奥の寵臣右衛門佐、表の寵臣柳沢出羽守」と世評されたほど、上臈としては破格の禄千石を与えられていた。右衛門佐は水無瀬中納言の娘、梅津の大伯父・松尾杜の神主相行の室は水無瀬家の人3また天和3年(1683)京都において中宮立后の時に常磐井(のちの右衛門佐)は上臈として、梅津の妹越前局は下臈として同日に勤任した等で親しい関係。梅津は十才あまり齢上。
宝永5年(1708)に尾張藩主徳川吉通の妹磯姫が将軍綱吉の養女となり、松姫と改名、(梅津は)その松姫付として勤仕、松姫が加賀藩主の子息・幸徳に輿入れとなり、その介添上臈として随従。
【ちゅうすけ注】いまの東京大学の赤門は、松姫を迎えときの建築ではなく、120年後、加賀藩・第13代藩主・前田斉泰が第11代将軍・家斉の第21女・溶姫を迎える際に造られたもの。
(本郷・東大赤門 修学旅行の高校生のあこがれのスポット)
梅津が仕えた松姫は、22歳で急逝、梅津は剃髪して演慈院として本郷の上屋敷を退出、駿河台の屋敷で松姫
の冥福を祈った。
久保さんは、さらにこう追記する。
梅津が48歳の、元禄14年(1701)、弟の娘・務津(むつ)を江戸に下向させて養女に入れ、3500石の幕臣・永見新之丞為位(ためたか)に嫁がせ、さらにその妹・見保(みほ)も養女として、正徳3年(1713)に大番頭・高木九助の息・酒之丞正栄に嫁がせ、没後、さらに養女を継室に配している。
この梅津がどこまで、改易後の水谷家にかかわったかは未詳である。
ただ、一軒の家に虫眼鏡をあてると、いろんな人生模様が歴史のはざまに見えてくる不思議を味わっている。
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