カテゴリー「019水谷伊勢守勝久 」の記事

2008.12.04

水谷(みずのや)家(2)

小姓組の4番手の番頭・水谷(みずのや)出羽守(のち伊勢守勝久(かつひさ)の周辺に目くばりしている。

勝久の父は、京師祇園の別当宝寿院の執行(しぎょう)であるが、じつは越前国鞠山藩(1万石)の初代目藩主・忠稠(ただしげ)の4男であったこともすでに明かした。

参照】2008年12月3日[水谷(みずのや)家 (1)

水谷家は、勝久の3代前の出羽守勝美(かつよし 享年31=元禄6年)まで、備中国松山藩(5万石)の藩主であったが、継嗣の手続きの不手際から、廃藩となったことは記述ずみである。

勝美の父・勝宗(かつむね 享年67=元禄2年)に後室がいたことは、『寛政重修諸家譜』には採り上げられていないが、江東区文化センターの[鬼平クラス]で共に学んでいた久保元彦さんが、探索してきた。

その女性は、幼名はシゲ、長じて栄子、勝宗と死別後に大奥に入ってからは梅津(うめづ)と局名(つぼねな)を名乗っている。
父は、朝廷に勤務する明正院非蔵人(ひくらんど)職の松尾因幡守相氏(すけうじ)で、栄子は承応3年(1621)に5人妹弟の長女として生まれた。

久保さんは、栄子(のちの梅津)を林英夫氏[京女の見た元禄](『新潮45』1987年11月号を見つけた。以下は、そのリポートの要約である。

松尾家は、その姓がしめすとおり、京都右京区松尾に鎮座する松尾神社の神職家から父・相氏が分家して立てた家で、栄子の妹2人は朝廷に仕え、それぞれ、周防局(すおうのつぼね)、越前局(えちぜんのつぼね)と呼ばれていたという。

栄子は、25,6歳のころ、備中松山藩主・勝宗の後室にはいった。30余りも齢上の勝宗が病死したとき、栄子は36歳であった。
その4年後、継嗣・勝美が病死し、封地召し上げとなったので、栄子は、伝手をたよって元禄8年(1695)に大奥へ入った。そのときの名が梅津である。
久保さんのリポートをそのまま転載する。

当時、5代将軍綱吉の時代、子どもはお伝の方の男女2人のみ、お伝の方の対抗勢力が上臈御年寄(最高の奥女中)右衛門佐、当時「大奥の寵臣右衛門佐、表の寵臣柳沢出羽守」と世評されたほど、上臈としては破格の禄千石を与えられていた。右衛門佐は水無瀬中納言の娘、梅津の大伯父・松尾杜の神主相行の室は水無瀬家の人3また天和3年(1683)京都において中宮立后の時に常磐井(のちの右衛門佐)は上臈として、梅津の妹越前局は下臈として同日に勤任した等で親しい関係。梅津は十才あまり齢上。

宝永5年(1708)に尾張藩主徳川吉通の妹磯姫が将軍綱吉の養女となり、松姫と改名、(梅津は)その松姫付として勤仕、松姫が加賀藩主の子息・幸徳に輿入れとなり、その介添上臈として随従。

ちゅうすけ注】いまの東京大学の赤門は、松姫を迎えときの建築ではなく、120年後、加賀藩・第13代藩主・前田斉泰が第11代将軍・家斉の第21女・溶姫を迎える際に造られたもの。

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(本郷・東大赤門 修学旅行の高校生のあこがれのスポット)

梅津が仕えた松姫は、22歳で急逝、梅津は剃髪して演慈院として本郷の上屋敷を退出、駿河台の屋敷で松姫
の冥福を祈った。

久保さんは、さらにこう追記する。

梅津が48歳の、元禄14年(1701)、弟の娘・務津(むつ)を江戸に下向させて養女に入れ、3500石の幕臣・永見新之丞為位(ためたか)に嫁がせ、さらにその妹・見保(みほ)も養女として、正徳3年(1713)に大番頭・高木九助の息・酒之丞正栄に嫁がせ、没後、さらに養女を継室に配している。

この梅津がどこまで、改易後の水谷家にかかわったかは未詳である。
ただ、一軒の家に虫眼鏡をあてると、いろんな人生模様が歴史のはざまに見えてくる不思議を味わっている。


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2008.12.03

水谷(みずのや)家

これまでの記述や【参照】の寸覧で、長谷川家水谷家のかかわりあいは、おおよそ、のみこめたとして---。

ここで、水谷出羽守(のち伊勢守勝久が、京都の祇園別当・宝寿院から養子にきた経緯は、なかなか、合点がいきにくい。

まず、勝久勝政の[個人譜]を見ていただこう。
上段の、先祖が陸奥国猿田から下総国結城(ゆうき)へ移ったいわれなどは、あとでゆっくりと読むとして、とりあえずは勝久の出自。

これを理解するために、10年ごし講じていた江東区文化センターの「鬼平自主クラブ」のメンバーの久保元彦さんのリポート[水谷家一族について」を借りる。

久保さんは、まず、勝久の父・祇園の執行(しぎょう)の行快を『国史大辞典』(吉川弘文館)であたっている。

「生没年不詳。江戸時代中期に出た祇園社執行。小浜藩の支藩鞠山藩の初代藩主酒井忠稠(ただしげ)の子。幼名末麿。宝永ニ年(一七〇五)迎えられて、代々祇園社務執行に任じた宝寿院を継ぎ、祇園社の社務執行となった、以後、酒井家の庇護をうけることも多く、宝暦年間(一七五一から六四)まで社務執行の地位にあったが、のちその子行顕に社務執行職を譲った。祇園社とくに宝寿院には、古文書古記録が多く伝来したので、行快はその保存に努め、またそれらを編集して、「祇園社記」二十五冊、「祇園社記御神南部」十五冊、「祇園社記雑纂」十二冊、「祇園社記続録」十三冊、合わせて六十五冊を享保十一年(一七ニ六)jまでに完成した。

ということで、鞠山藩主・酒井家との強い関係を明らかにする。
養子・勝政が鞠山藩からきたゆえんも、ここに見ることができ、納得である。

出自に、「母は青木甲斐守重矩(しげのり 摂津国麻田藩主 1万石 享年65=享保14)の女とある。
寛政譜』の青木家をみると、重矩の継嗣・一典(かずつね)の次妹の項に---、

母は某氏。松平(大給)縫殿頭(ぬいのかみ)乗真(のりざね 信濃国田野口(竜岡)藩主 1万2000石 享年33)が室となり、離婚してのち京祇園の宝寿院行快に嫁す

麻田藩主となった兄の室は、冷泉大納言為経(ためつね)のむすめなので、出羽守勝久は、公卿社会とのつながりもないことはないとみる。

さらに久保さんは、水谷家と大奥との濃い関係を見つけた。


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2006.09.28

水谷伊勢守と長谷川平蔵

「人間に尻尾がなくなったのは、ふりすぎてちぎれてしまったのです」

長谷川平蔵の機知による幕府の先手組頭の詰め所――江戸城内のツツジの間におきた爆笑とはうらはらに、63歳の水谷(みずのや)伊勢守勝久は、複雑な気持ちをかみしめていた。
(ふりすぎために、人間の尻尾はちぎれたって?)

時は天明6年(1786)の中秋。賄賂取りとして世評がのこる田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)は、この初秋に老中職を辞任、三卿のひとり、一橋治済(はるさだ)を中心として旧守家柄派が新内閣を組織すべく暗躍していた。

(あのときの平蔵のあれこそ、尻尾ちぎれの行為そのものではなかったのか)
平蔵の後ろ楯をもって任じてきた伊勢守だが、1年半前に平蔵がとった田沼意次へのご機嫌とりを、いまでも行きすぎと思っている。

150_1天明4年末、平蔵はその月の初めに西丸徒頭(かちかしら)へ登用されたばかりだった。
26日夜9時、八重洲河岸(現・東京駅近く)から出た火の手は、おりからのはげしい西北の風にあおられて広がっていた。

緊急時登城をとりやめと断った平蔵は、菊川(墨田区)の自宅から神田門内の老中・田沼の屋敷へじかに走り、「風の向きがよろしくないから、奥の方々は避難なさったほうがよろしかろう存じます。手前がご案内を……」
浜町の下屋敷までみちびいた。

平蔵は自宅を出るときに家の者へ炊きだしの握り飯を下屋敷へ運ぶようにいいつけ、道すがらに本町 1丁目の菓子舗〔鈴木越後〕方へ寄り、残っていた餅菓子をかきあつめて浜町へ届けよ、と申しつけた。

〔鈴木越後〕はそのころ江戸一番の菓子舗だった。
Photo_213
『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)

この店について、火盗改メとして平蔵の後任者に発令されたライヴァルの森山源五郎が書き残している。
彼が徒頭へ昇進したときの先任の同役全員を招いてのふるまい終日宴会のあと、持たせた手みやげはこの菓子舗のもので、1人前1両近くもしたと。

〔鈴木越後〕の折りにしなかったらあとで悪口をいわれ、いじめられるとも。

1両を、池波正太郎さんは『鬼平犯科帳』執筆の終わりごろには今の20万円に換算している。

さて、平蔵の誘導で無事に浜町の下屋敷へ避難した女性たちは、〔鈴木越後〕の高価な甘味で心を落ちつけた。
 平蔵の前例のない処置を、田沼老中が「気がきいている」と感じたらしいとの記録がある。

この1年半後に平蔵は、番方(武官)としては最高位に近い先手組頭へ異例の抜擢されたのだから、効果があったことは確かだ。

火付盗賊改メとして縦横に腕をふるうには、なにをさておいても、先手組頭の席の入手が先決なのだ。火盗改メは先手組頭の中から選ばれるのだから。

前例にしばられた考え方をするほかの幕臣たちの多くは、平蔵の後ろ楯の水谷伊勢守のように「見え見えの売り込み」とした。それは彼らの平蔵評――「山師」にもなった。

注:この文章は、先般絶版となった拙著『江戸の中間管理職--長谷川平蔵』(文春ネスコ刊 2000.4.28 )の[まえがきに代えて]の一部である。

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2006.04.29

水谷(みずのや)家

祖:
陸奥国猿田の御所、故ありて同国岩城(いわき)の水谷(みずのや)にうつり住す。
このとき、下総国結城(ゆうき)の城主嗣なきにより、猿田が子孫を養ふ。
この故に結城にいたり五、六年を経、その後結城実子を設けるにより、館を結城の内に建、猿田をして居住せしめ、長沼十二郷、伊佐三十三郷を与ふ。
これにより、旧号を改めずして水谷と称し、三代居住す。
のち結城と水谷と一代相替りて称号とす。
その案にいわく、結城朝光は秀郷の後胤なり。
家伝にいわゆる猿田、その姓氏を詳にせず。しかりといへども、結城氏が養子となるといふにより、秀郷流に載す。
             以上、『寛政重修諸家譜』より。
のち。
正村・勝俊の兄弟が家康に通じ、その子の勝隆のとき、備中国松山城と5万石を賜る。

所領公収:
正村から4代後の勝美(かつよし)が31歳で若死したとき、他家へ養子していた勝時による後継の手当が遅れ、5万石は公収された。
しかし祖先の勲功を配慮、備中国川上郡に3000石を賜る。
その子・勝英のときに500石加増。

伊勢守勝久:
じつは京都・祇園の別当宝寿院行快の子。行快は、宿老・酒井忠勝(越前国小浜藩。12万3500石)孫・忠隆が弟・忠稠(ただしげ)に分与した毬山藩(1万石)の4男。

享保8年(1723)生。
寛延元年(1748)御目見。26歳。
宝暦2年(1752)養父の死去にともない家督。30歳。
〃 3年(1753)中奥の小姓。31歳。
〃 7年(1757)従5位下出羽守に叙任。35歳。
明和5年(1768)小姓番頭。46歳。
〃 8年(1771)西丸書院番頭。49歳。
安永3年(1774)長谷川平蔵宣以、入組。52歳。
天明7年(1787)2月10日辞職。65歳。
〃       8月3日致仕。

家紋:
三頭左巴

菩提寺:
高輪・泉岳寺

つぶやき:
写真などは無断で公開しないとの約束で、泉岳寺の墓所を見分したが、卒塔婆もなく、ここ4,5年墓参の気配を感じなかった。
ご子孫は、東横沿線で工場を経営されていたらしいが、ご当主の逝去とともにそれも閉鎖されたらしいとは、寺側の説明。

松山城を受領におもむいた大石内蔵助良雄の墓石と、墓域はことなるが同じ寺域にある、運命の不思議を感じた。

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2006.04.28

水谷伊勢守が後ろ楯?

知人に、組織の長として人の扱い方を学びたいなら『鬼平犯科帳』を読め、とすすめている大メーカーの人事部の長がいる。

たしかに池波正太郎さんが描いた小説『鬼平犯科帳』の中の鬼平……長谷川平蔵の人あしらいはみごとだ。人情の機微を心得、心のひだをくすぐる。まさに人間通。教えられるところが多い。

が、史実の長谷川平蔵はいまの中央官庁――幕府の中堅武官だけに、部下の扱いや上司、同僚やライヴァルとの関係は生々しい。中間管理職としての平蔵の生き方は、ある面では小説以上に教訓を得られる。

父の死によって家禄400石の家を継いだ平蔵は、29歳で西丸書院番士として出仕する。書院番は、番方(武官)の出世街道のスタート台である。
それだけにライヴァルも多い。

書院番は12組。一つの組の番士は50人。ここだけでもライヴァル600人。

だが、平蔵のスタートには幸運がついてまわった。

番頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久が、平蔵の父・宣雄の出生に関係のある備中(岡山県)松山藩主・水谷家の後裔だったので、平蔵へ特別に目をかけてくれた。

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水谷(みずのや)家は、かつてこの備中・松山城(岡山県高梁市)の城主(5万石)であり、平蔵の父・宣雄を産んだのは、松山藩で馬廻役(100石)をしていた藩士の娘だった。

出世コースの第2ステップの進物係へ推薦してくれたのも伊勢守だ。

周囲に明るい雰囲気をもたらす平蔵の性格も幸いした。
ふつうは10年近くつとめる徒頭(かちのかしら)を1年半で終え、41歳で先手の組頭(くみがしら)へ抜擢。この早すぎる出世には同僚のねたみも買った。

役職には実収がともなっているからだ。
徒頭は1000石高格、先手組頭は1500石格。家禄が400石の平蔵が先手組頭となると、長谷川家には差額の足高(たしだか)1100石の増収がもたらされる。

34組ある先手組の、過去50年間(600か月)に火盗改メを経験した月数を試算してみた。ダントツは平蔵が着任した弓組二番手の144か月、つづくのは鉄砲組11番手の109か月、弓組五番手の92か月。あとはぐっとさがる。
50年間で区切ったのは、その期間なら実務経験が与力や同心に伝承されていると推測したため。

じじつこの組は平蔵の1年半前まで、火盗改メとして著名だった横田源太郎松房(1000石)の下にあったし、横田の前もこれも名長官といわれた贄越前守正寿(300石。のち100石加増)が5年半ものあいだ腕をふるっていた。

浅間山の噴火、長雨による洪水、凶作など「なにごとも天命」と天明の年号をもじった江戸庶民のふてくされが社会不安へ発展しそうなおそれは十分に予見できた。

幕府もそれを察して、火盗改メとしてもっともよく訓練されている最強チームの弓・二番手の組頭へ、期待の平蔵をすえたのだ。

組織を活性化するのに、弱いチームに強いリーダーを配して鍛える方法もあるが、天明のような非常時にはそんな悠長なことはしていられない。

平蔵は、経験十分の与力や同心たちに要望した。
「今日よりは町方から心づけをうけてはならない。町々の協力がえられるように振るまってほしい」

つぶやき:
備中・松山藩が世継ぎの不手際で取りつぶされたとき、城受け取りに行ったのが赤穂藩の重役・大石良雄だった。
水谷家は、関ヶ原などで大坂方の情報を家康へ送った功績もあり、5万石は召し上げられたが、藩主は3000石で幕臣となっていた。

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