水谷(みずのや)家
これまでの記述や【参照】の寸覧で、長谷川家と水谷家のかかわりあいは、おおよそ、のみこめたとして---。
ここで、水谷出羽守(のち伊勢守)勝久が、京都の祇園別当・宝寿院から養子にきた経緯は、なかなか、合点がいきにくい。
まず、勝久・勝政の[個人譜]を見ていただこう。
上段の、先祖が陸奥国猿田から下総国結城(ゆうき)へ移ったいわれなどは、あとでゆっくりと読むとして、とりあえずは勝久の出自。
これを理解するために、10年ごし講じていた江東区文化センターの「鬼平自主クラブ」のメンバーの久保元彦さんのリポート[水谷家一族について」を借りる。
久保さんは、まず、勝久の父・祇園の執行(しぎょう)の行快を『国史大辞典』(吉川弘文館)であたっている。
「生没年不詳。江戸時代中期に出た祇園社執行。小浜藩の支藩鞠山藩の初代藩主酒井忠稠(ただしげ)の子。幼名末麿。宝永ニ年(一七〇五)迎えられて、代々祇園社務執行に任じた宝寿院を継ぎ、祇園社の社務執行となった、以後、酒井家の庇護をうけることも多く、宝暦年間(一七五一から六四)まで社務執行の地位にあったが、のちその子行顕に社務執行職を譲った。祇園社とくに宝寿院には、古文書古記録が多く伝来したので、行快はその保存に努め、またそれらを編集して、「祇園社記」二十五冊、「祇園社記御神南部」十五冊、「祇園社記雑纂」十二冊、「祇園社記続録」十三冊、合わせて六十五冊を享保十一年(一七ニ六)jまでに完成した。
ということで、鞠山藩主・酒井家との強い関係を明らかにする。
養子・勝政が鞠山藩からきたゆえんも、ここに見ることができ、納得である。
出自に、「母は青木甲斐守重矩(しげのり 摂津国麻田藩主 1万石 享年65=享保14)の女とある。
『寛政譜』の青木家をみると、重矩の継嗣・一典(かずつね)の次妹の項に---、
母は某氏。松平(大給)縫殿頭(ぬいのかみ)乗真(のりざね 信濃国田野口(竜岡)藩主 1万2000石 享年33)が室となり、離婚してのち京祇園の宝寿院行快に嫁す
麻田藩主となった兄の室は、冷泉大納言為経(ためつね)のむすめなので、出羽守勝久は、公卿社会とのつながりもないことはないとみる。
さらに久保さんは、水谷家と大奥との濃い関係を見つけた。
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