銕三郎、初お目見(みえ)(2)
「ご老職(老中)、少老衆(若年寄)、三ご奉行衆(寺社、町、勘定奉行)、大目付の方々へのお礼廻りは、初お目見(めみえ)が終わってから---というのがしきたりである」
「水谷(みずのや)さまだけは、格別---というわけでございますね」
父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)の言葉に、銕三郎(てつさぶろう 23歳)が応える。
水谷出羽守勝久(かつひさ 46歳 3500石)は、この初夏から小姓組・3番手の番頭をしている。
「さよう。われにとっては母上、銕(てつ)にとってはお祖母(ばば)の、かつてのご領主だからの」
「拙は、お祖母上のことは、覚えておりませぬ」
「そうであろう。銕が生まれるずっと前に、この家を去られたのだ」
【参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母]
2006年4月28日[水谷伊勢守が後ろ楯?]
「なにか、理由(わけ)でも?」
「牟弥(むね)母上の父上の病気が重くなり、そちらへ看病に行かれ、そのままお帰りにならなかったのは---」
牟弥の父・三原七郎右衛門が、備中・松山藩の浪人であったことはすでいくどもに記した。
その後、ついに再召しかかえはかなわなかった。
貧苦の生活であったろう。
もちろん、長谷川家も、宣雄の岳父ということで、なにがしかの援助は惜しまなかった。
が、それにも限りがあり、七郎右衛門がみまかったころ、五代目当主で、宣雄の父・宣有(のぶあり)の長兄・伊兵衛宣安(のぶやす)も逝った。
宣雄が17歳のときであった。
用人が家政の逼迫を理由に、援助を減らした。
宣有は、養子にも行けない厄介者、宣雄はその子であったから、強くは抗議はできず、牟弥との縁は、それで絶え、行方は知れなかった。
武家にとって、腹は借りものという考えが支配的であったともいえる。
宣有は、その後も病臥がちながら、30数年生きて、ことあるごとに、
「牟弥にはあいすまぬことであった」
とつぶやいていた。
宣有が深く接しえた、ただ一人の女性(にょしょう)であったにちがいない。
「水谷さまに礼をつくすことが、牟弥母上、銕にとってはお祖母に対するせめてもの罪ほろぼしである」
宣雄がいつになく、しんみりとした声で言った。
「牟弥お祖母の行方をお捜ししてみましょうか?」
「いや。そのことは、われが手を尽くすだけ尽くした」
「水谷さまのお屋敷は、いずれでございますか?」
「うむ。芝の三田寺町---三ノ橋から竜翔寺水月観音の前の坂の途中じゃ」
(青〇=水谷家屋敷 芝三田寺町)
近江屋板の切絵図では、1000坪は越えていようかとおもえる屋敷がえがかれている。
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