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2008.12.01

銕三郎、初お目見(みえ)

(てつ)。かねてお願い:上げをしていた、お上(家治)への初見(しょけん 初お目見)の日取りの内示があった」
下城してきた父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)が、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)呼んで伝えた。
「いつでございますか?」
「12月5日だ」
「あと、1ヶ月と少々ですね。先月も、予見がありましたから、まもなくとはおもっておりましたが---」

予見とは、若年寄の内意を受けた剣の達人と儒学者による、初お目見の事前接見である。
剣術と馬術は、銕三郎の得意とするところなので、ふだんどおりにやって、相当上位の点数で合格した。
問題は、古籍であった。
面接官は、林図書頭(ずしょのかみ)信愛(のぶよし 25歳)で、家督していなかったのが幸いしたようであった。

「古籍の中から、なにを選びたいかな」
胃病持ちらしい、青白い顔で問うてきた。
「両番の家でございますので、できうれば、『孫子』を---」
「ほう。『武経七書本』をお選びとは、珍しい。して、その、どのあたりを---?」
「『用閒篇』をお願いできますれば---」
「いよいよ、奇なり。その理由(わけ)は?」
「父が先手・弓の組頭を承って3年になります。やがて、火盗改メの加役を申しつけられましょう。継嗣として、父の手助けをいたしますには、密偵を縦横に使いこなさなければなるまいと存じおります」
「みごとな孝心。孔孟もおほめになりましょうぞ」
というわけで、試問はなしですまされた。
信愛が『孫子』を読みこなしていなかったせいもある。
ま、儒学者とすれば、軍学書を講ずるほうが異端であろう。

。12月5日の初見参(はつけんざん)の衆の中に、水谷(みずのや)どののご養子・ 兵庫勝政(かつまさ)さまも入っておられる。ゆえに、近々、ご挨拶に参上いたしたい」
「心得ました、が、お勝政さまは---?」
酒井飛騨守さまのご3男とお伺いしておる」
酒井侯といえば---」
「いや。ご本家の若狭守さま(11万石 小浜藩)のほうではなく、その支藩・鞠山藩(1万石)、飛騨守忠香(ちゅうか 53歳)さまのご子息じゃ」

水谷出羽守勝久(かつひさ 46歳 3500石)は、この明和5年6月26日から、中奥小姓から小姓組3番手の番頭に栄進していた。
宣雄は西丸・書院番士から出仕を始めているから、もちろん、直接にはかかわりがない。
しかし、水谷家は、その3代前の勝美(かつよし)まで、備中・松山(高梁 たかはし)藩5万石の藩主であった。
勝美が31歳で逝ったとき、後継のてつづきが遅れたために、所領はめしあげられ、家臣のところへ養子に出ていた藩主の弟・勝時(かつとき)が幕臣(3000石 のち500石加増)にとりたてられた。

ほとんどが失職した藩士の中に、馬廻役・三原七郎右衛門(100石)もいた。
浪人となった七郎右衛門は妻娘を伴って江戸へきたが、生活苦から、娘・牟弥(むね)が長谷川家に奉公にあがlり、平蔵宣雄を産んだ。

参照】2007年4月11日~[寛政重修諸家譜] (7) (8) (9) <,a href="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/04/10_2a00.html">(10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18)
2007年5月22日~[平蔵宣雄の『論語』学習] (1) (2)
[平蔵宣雄が受けた図形学習] (1)

松山(高梁)藩つながりで平蔵宣雄は水谷出羽守勝久に目をかけられていた---といっても、とりわけのことを勝久がしてくれたわけではない。
勝久長谷川家への肩入れは、むしろ、平蔵宣以(のぶため)に対してのそれが有効であったが、そのことは5年も先のことである。

参照】2006年9月28日[水谷伊勢守と長谷川平蔵] (1)


_360
_360_2
(鞠山藩・酒井家から養子にはいった勝政の個人譜)

参照】[銕三郎、初お目見(みえ)] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

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