寛政重修諸家譜(8)
2007年4月11日の当ブログ[寛政譜(7)]に掲げた史料とコンテンツについて、コメント欄に質問が寄せられた。
質問は、「看病にきていた備中・高梁の松山藩の浪人・三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた」は、どのようにして調査したのか? というもの。
質問者は、〔枯れ木のパルシェ〕さん。さすがに鋭い。
三原七郎兵衛の名は、[寛政譜(7)]でクロースアップした『寛政譜』の宣雄の項に、
母は三原氏の女。
(三原氏のむすめ)の意である。 『寛政譜』では、女性には一切、名前を書かないことに決められている。
(---の女)とあったら、(---のむすめ)と読んでおく。
「三原氏の女」のように父親の姓に「氏」がついていたら武家。
女性の出自がふつうの庶民の場合は「某女」と書かれる。いわゆる「そば妻(め)」の類である。
『寛政譜』は、各家が上呈した「先祖書」を基にして諸事勘合し編まれた。
提出した素稿の多くは、 国立公文書館に蔵されていると聞く。
辰蔵宣義(のぶのり)が寛政11年(1799)12月20日に上呈した長谷川平蔵家の素稿のコピーをとったのは、長谷川本家の末裔・長谷川雅敏さん。
(長谷川平蔵家の上呈素稿の宣雄の項の一部)
活字化(?)させたのは、研究家・釣 洋一さん。
養母 無御座候
実母 元水谷古出羽守 従三原七郎兵衛女
「従」とは、「家臣」のこと。
で、水谷(みずのや)という大名を調べた。
常陸国下館藩(3万2000石)から備中・成羽藩(なりわ 5万石)、さらに同・松山藩(5万石)へ移封。元禄6年(1693)、藩主・出羽守勝美(かつよし)が31歳で卒したとき、嗣子問題で断絶。養子を解消して家を継いだ弟・勝時は3000石の幕臣となる。
(黄○伊勢守勝久は書院番士として出仕した平蔵宣以の番頭)。
この備中・松山藩の水谷家の廃絶で、三原七郎兵衛は浪人となった。
松山城のある岡山県高梁(たかはし)市の教育委員会へ三原七郎兵衛について問い合わせて、家禄100石、馬回り役(藩主の親衛隊)、屋敷は市内の中級家臣団の柿ノ木町と教えられた。
(備中・松山城(左上の山城)と城下町。左辺と上辺が武家屋敷)
三原七郎兵衛。5万石の藩の100石だから、10万石の藩なら200石、20万石の藩だと400石取りだったともいえる。幕臣で400石の長谷川伊兵衛より格式は上だったかもしれない。
ついでだが、長谷川家の当主は代々、伊兵衛を襲名したが、入り婿の宣雄以降、平蔵を襲名することになった。
【つぶやき】辰蔵(じつは遺跡を相続していて平蔵なのだが、まぎらわしいので幼名・辰蔵で)宣義(のぶのり)が上呈した「先祖書」の、自休宣有(のぶあり)---宣雄の父、平蔵宣以の祖父---に項に注してこうある。
右自休義、病身ニ付、厄介ニテ罷在、年齢不知 卒。
菩提寺である戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿を釣 洋一さんが調べた。
宝暦12年(1762)閏4月6日歿 法号・常信院自休日行居士
父・伊兵衛宣就(のぶなり)の没年も、長兄・宣安(のぶやす)のそれも『寛政譜』には記されていない。
ただ、母方の永倉家へ養子に入った次兄・正重(まさしげ)の没年が、永倉家の家譜に載っている。寛保3(1743)年6月5日、65歳。
宣有はそれより19年長生きしている。推定享年80前後。歿地は鉄砲洲・築地の屋敷。一病息災とはよくいったもの。
そのとき、銕三郎は17歳。祖父のこともよく覚えていたろう。
もしかしたら、宣雄の母者も生きていたかもしれないが、戒行寺の霊位簿にはそれらしい仏は載っていないようだ。
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コメント
まあ、手の内をあかしても、こんな、一文にもならない探索をやる人、ぼくしかいませんからねえ。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.12 13:40
「寛政重修諸家譜」にまつわる疑問点、今回の枯れ木のパルシェさんの質問など何時も見事に解決、回答される手腕には毎回驚きです。
このブログの底知れぬ奥の深さが鬼平に関するHPで常にトップの位置にいる理由ですね。
毎日開くのが楽しみです。
先生ありがとうございます。
投稿: 靖酔 | 2007.04.12 18:28
備中松山藩のお城は明治維新の取り壊し令を免れて今でも臥牛山上に威風堂々とそびえています。
一度訪ねてみたい城下町で江戸時代の古地図に町並みを色分けをしてみましたが、先生のお役に立ったようで光栄です。
投稿: みやこのお豊 | 2007.04.12 19:58
さりげなく記載された一文に、そんな調査があったとは! 恐れ入谷の・・・。池波さんが師匠の「日本敵討ち異相」の裏に徹底した調査の存在を看破したのとは大違いです。もっとも、比較する相手が違いすぎますか。
投稿: パルシェの枯木 | 2007.04.12 20:51