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2007.04.05

寛政重修諸家譜(1)

130_10未刊エッセイ集は年代順に編まれており、5冊目の『作家の四季』(講談社 2003.9.15)は、1983年(昭和58)から池波さんの最晩年のものまでの集である。
この第5集に[鬼平犯科帳・雑記]と題した一文がある。
歿する5年前の1985年(昭和60)の『オール讀物・増刊号』に掲載された。

徳川幕府が十四年の歳月をかけて、諸大名と幕臣の家系譜(かけいふ)を編(あ)んだ「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ) 全九巻を、ようやく手にいれたのは、約三十年ほど前だったろう。

と、書き始めている。
「約30年ほど前」とは、いつなのかを推定するために、書かれた年にこだわった。
1985年から30年前というと、1955年(昭和30)だが、「ようやく」との文言があるから、原稿料が入りはじめたころとみると、直木賞受賞(1960)前後と見たい。

いまは新版がでているが、当時は大正六年発行の栄進舎版の稀覯(きこう)本のみで、値段はたしか二十万円をこえていたとおもう。
そのころ私は芝居の脚本と演出で暮していたが、終戦後の全盛期を迎えた新国劇で、私の一本の脚本・演出料では、この本を買いきれなかった。
それだけに、これを手に入れるまでには二年ほどかかった。

直木賞を受けるまでも、この賞の候補にえばれた短篇を、池波さんは幾篇か書いているが、そのほとんどは〔新鷹会〕の『大衆文芸』誌で、原稿料はなかった。

私ごとで恐縮だが、1960年(昭和35)、ぼくは関西系の家電メーカーの宣伝部を、30歳で中途退職した。月給は4万円にはるかにおよばなかったようにおもう。
いや、私事はどうでもいい。

手にいれて、見ているうちに、私が心をひかれたのは、四百石の旗本・長谷川平蔵宣以(のぶため)の家譜であった。

130_9池波さんに、[長谷川平蔵年譜・基メモ]と題字した大学ノートがある。


最初の見開きページに、『寛政譜』の記述を家系図の形式に書き写している。
Photo_326

これをぼくは長いあいだ、長谷川伸師の書庫にあった栄進舎版『寛政譜』から心せかれて写したために見あやまり、鬼平の父・宣雄を祖父と並べてしまったと憶測してきた。

しかし、池波さんが手に入れた『寛政譜』から[基メモ]をつくったとすると、、せかせかと書き急ぐ必要はない。

とすると、栄進舎版の『寛政譜』が誤植していたのかも知れない---と、憶測の再検討を迫られているが、これはまだ果たしていない。栄進舎版を蔵しているところも、まだあたっていない始末だ。

120_12ぼくが所有しているのは、池波さんが「いまは新版がでているが---」と書いた、1964年(昭和39)2月25日に第1巻が発行された22巻もの、そして索引が4巻の続群書類従完成会版である。
ちなみに、ぼくの完成会版は第4刷、1巻が4,800円で、26巻で計12万5000円弱だった。

池波さんが求め、、いまは台東区の記念文庫に飾られている、表紙が濃い臙脂色の栄進舎版全9巻を、ぼくは仮に「臙脂(エンジ)版」と呼び、ぼくの所有している完成会版が橙色なので「橙(ダイダイ)版」と仮称しているので、以降はこの略称による。

「ダイダイ版」についている索引が、「エンジ版」にもあるのか、これも調べてみたいことの一つである。

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212寛政重修諸家譜 」カテゴリの記事

コメント

鬼平熱愛倶楽部に在籍していなっかたら一生「寛政重修諸家譜」を読むことはなかっただろうと思います。

講座の資料として長谷川平蔵をはじめとして歴代の火盗改の家譜をいただき、読み方を習いました。

お蔭さまで「寛政重修諸家譜」が身近な史料となりました。


投稿: 靖酔 | 2007.04.05 08:40

私も歴史が好きでいろいろな本で寛政重修諸家譜から引用した文章は見たことがありますが、この本自体を目にしたことがありませんでした。

 熱愛倶楽部で要所、要所の資料を先生からいただき自分で探すこともありませんでした。

 たまたま、深川図書館で現代訳を目にしましたが、なかなか読めません。かつ、探すのも大変なことが分かり、失礼ながら先生の偉大さを再認識したしだいです。

投稿: 大島の章 | 2007.04.05 12:15

寛政重修諸家譜栄進舎版、第九輯が総索引のようです。いま、母校のデータベースで調べてみました。

投稿: えむ | 2007.04.05 15:45

>えむ さん
さすが、名門W大学。
ついでに、お暇な折、その索引で長谷川平蔵宣雄をあたってみていただけませんか。

橙色版は、
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/cat5665842/index.html
に出してあります。
赤ドットをはったのが、父親の宣有、そして宣雄に2コ。

これがわかると、池波さんの思い違いが証明てきるかも知れません。もっとも、証明すると、偉大なる目玉商品
としている出版社から刺客がくるすもしれませんが。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.05 16:32

まかしておくんなせえ、大先生。今週中くらいをめどにいたします。(傘徳的口調。)

ところで栄進舎版ですが、「長谷川平蔵宣雄」と人名でひけばよろしいですね。そしてその周辺を一通り複写しておこうと思いますが(自分は資料が読めませんので)、もしかして彼の家は「ナントカ長谷川家」なんて呼び名はあるのでしょうか。「尾張徳川家」とか「京兆細川家」みたいな。中級幕臣だから、それはないですかな。

投稿: えむ | 2007.04.05 17:08

>えむ さん
ご心配なく。
ただ、徳川幕臣の長谷川家は数家ありますし、鬼平の長谷川家も本家、分家とありますから、ご注意くた゜さい。

先祖は、長谷川紀伊守正長です。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.05 18:44

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