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2007.04.06

寛政重修諸家譜(2)

『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』は、老中上座・松平越中守定信の発議で編纂されたと伝わっている。
保守・家柄派の定信とすれば、当然のアイデアであろう。

130_11170余年前に家光の命によって編まれた『寛永諸家系図伝』を手本としている。
『寛永諸家系図伝』も、(株)続群書類従完成会が1980年(昭和55)1月25日に第1巻を発行、1,400余家の大名・旗本を収録した16巻で、たしか、完結---というのは、各巻4,800円、長谷川家が載った第8巻でぼくとしては意を遂げ、第13巻で購買を挫折してしまったためである。

定信が30歳で加判列・老中上座に就いたのは、天明7年(1787)6月19日。
寛政5年(1793)7月23日に、将軍補佐、加判列を罷免された。
この在任期間のいつ、『寛政譜』の編纂を発令したのかは知らない。

定信罷免後は、その遺志を帯した若年寄・堀田摂津守正敦(まさあつ)が成就させたという。
堀田摂津守正敦は、近江国堅田1万石の藩主で、定信と同歳の盟友であった。

大名・お目見以上の格の旗本5,000を越える家々へ先祖書の提出令が発せられ、締め切りは寛政10年前後であったらしい。

池波さんが、『鬼平犯科帳』巻3の[あとがきに代えて]で、

長谷川平蔵は実在の人物である。
平蔵の家は、平安時代の鎮守府(ちんじゅふ)将軍・藤原秀郷(ひでさと)のながれをくんでいるとかで、のちに下川辺を名のり、次郎左衛門政宣(まさのぶ)の代になって、大和の国・長谷川に住し、これにより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長(まさなが)の代になってから、駿河(するが)の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元(よしもと)につかえた。
義元が、織田信長の奇襲をうけ、桶狭間(おけはざま)に戦死し、今川家が没落したので、長谷川正長は徳川家康の家来になった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、
「奮戦して討死す。年三十七」
と、ものの本にある。

さすがに戦国時代の歴史に精通している池波さん、まことに手際よくまとめている。
最尾行の「ものの本」が『寛政譜』であることはいうまでもない。
が、後段、徳川軍団へ加わった正長が戦死したのは、長篠の戦い(1575 天正3)の2年前、1573年(元亀3)12月22日(陰暦)、浜松の北、三方ヶ原での武田信玄軍団との決戦においてである。

『寛永系図』は、

元亀三年十二月二十二日、遠州三方原(みかたがはら)の戦場において討死。三十七歳。法名存法。

『寛政譜』は、

元亀三年十二月二十二日三方原の合戦のとき、奮戦して討死にす。年三十七。法名存法(今の提譜に信香)。駿河国小川(こがわ)村の信香寺に葬る。

と記す。
戦死の状況は、どこにも記録がない。
三方ヶ原での戦死者を記録した諸書のリスト←ここをクリックし、5月7日まで降りる。

多分、他国からの新参者の常として、先陣に配置されて戦ったと推量している。

ある研究家は、首を打ち落とされた正長と弟の遺体を、遠州・三方ヶ原から武田軍の占領地である駿州・焼津在の小川村の信香寺まで運ぶのはなみたいていの苦労ではなかったろう---と推察していたが、遺体だったか遺骨・遺品だったかは、不明である。

信香院(曹洞宗)は、いまなお、長谷川本家の菩提寺。
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〔鬼平〕クラスが信香寺(上・山門)へ墓参(下・正長の墓)・香華。

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コメント

加判列? とは老中のことですか。またまた、勉強になりました。

 信光寺の写真、昨日のように思い出します。あの日は雨でした。

投稿: 大島の章 | 2007.04.06 08:54

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