カテゴリー「092松平左金吾 」の記事

2007.11.21

堀切菖蒲園

『葛飾区の歴史』(名著出版 1979.1,10)を眺めていて、松平左金吾(さきんご)の名前がでてきたので、驚いた。

この松平家は、久松松平だから、家康の実母・於大に関係する。
於大 

尾張国知多郡の豪族・水野忠政のむすめで、徳川広忠に嫁いだが、広忠今川家と和を結んだため離縁、織田方の阿古居城主・久松俊勝と再婚し、3人の男児をもうけた。

今川家が滅亡後、家康織田信長と結び、実母に再会。長男・定勝を伏見城代に任じ、その次男・定行が勢州・桑名藩主(11万石)から伊予・松山藩主(15万石)へ転じ、弟・定継が桑名藩へ入った。
(一時、白河藩へ転封されたときに養子に入ったのが定信)。
定勝の四男・定実は、多病を理由に藩主を嫌ったので2000石の旗本となった。
この旗本となった(久松)松平の子孫に、松平左金吾定寅(さだとら)がいる。
松平左金吾定寅の家系

『葛飾区の歴史』から引用する。

堀切の花菖蒲は、室町時代に時の領主窪寺胤次(たねつぐ)の家臣、宮田将監が奥州安積(あづみ)沼から移植した「花かつみ」の変化したものだと伝えるが、名所として知られるようになったのは江戸中期の寛政三年(1791)堀切村の百姓伊左衛門父子がニ代にわたって花菖蒲に興味をもち、各方面から変わり花の品種を集め、自家の田圃を利用して栽培し、江戸市街へ切り花として売り出したのがはじめである。
中でも出入り先の本所割下水に住む旗本、万年録三郎や麻布桜田町の菖翁(しょうおう)こと松平左金吾という花菖蒲を好んだ五○○○石の旗本屋敷から「十二一重(じゅうにひとえ)」「立田川(たつたがわ)」「羽衣(はごろも)」などの珍しい品種を譲りうけ---。

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(広重 堀切の花菖蒲 『葛飾区史 上巻』

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(小林清親 堀切花菖蒲)

ここに書かれた松平左金吾が、長谷川平蔵宣以(のぶため)のいちぱんの政敵だった当人かどうか、5000石は2000石の誤記としても、時代がいささか合わないでもない。

平凡社『東京都の地名 日本歴史地名体系13 (2002.7.10)は、

当村で花菖蒲の栽培が本格化したのは一九世紀初頭といわれ、百姓伊左衛門(小高園の祖)が花菖蒲の愛好家である旗本松平左金吾(菖翁)から多くの品種をもらい受けて栽培をはかった。

左金吾定寅は、先手・弓の2番手組頭だった長谷川平蔵宣以が病死するや、先手・鉄砲の8番手組頭からすぐに後釜へすわって、平蔵が培った士風を一掃にかかった仁だが、一年後の寛政8年(1796)に逝っている。
ということは、『東京都の地名』のいう19世紀初頭にはおよばないのである。

『葛飾区の歴史』の記述の「寛政3年(1791)」だと、同年4月28日から翌4年5月11日まで火付盗賊改メとして、長谷川平蔵の相役を勤めている。
菖蒲の花期である。職務をおろそかにして、花に凝っていたのだろうか。


【参考】
松平左金吾定寅に言及している[よしの冊子(ぞうし)]
(2)  (3)  (4)  (6)  (8)  (9)  (10)  (11)  (13)  (14)  (15)  (17)  (30)  (32)  (36)


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2007.05.04

寛政重修諸家譜(21)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、寛延元年(1748)閏10月某日に初出仕した西丸には、継嗣・竹千代(のちの第10代将軍・家治)のために、4組書院番が配置されている。

組衆は各組50名ずつ。各組には1000石格の(与)(くみがしら)がそれぞれ1名。
3番手の組(与)頭は、久松松平新次郎定為(さだため)。組(与)頭の地位について6年目。63歳。家禄1000石。屋敷は麻布一本松町(ただし、幕末の切絵図にはないから屋敷替えがあったか)。

指導番の氏名は記録されていないが、組内はもとより、ほかの3組への挨拶まわりに付き添ってくれたのは、組の中でも先輩格の指導番であった。
なにしろ、この日と翌日は、書院番・小姓組番など、17人が初出仕の挨拶まわりをするものだから、西丸の廊下は行きかいで混雑した。
挨拶まわりが数日間にわたるのは、書院番士も小姓組番士も1直(宿直つき)勤務だからである。
このとき、番入りの古い順の者から先に挨拶をするのがしきたり。順序を間違えるとあとでいじめられる。もちろん、そこは指導番がうまく手引きしてくれる。

さて、宣雄の組(与)頭となった松平新次郎定為。この家の一統の『寛政譜』を示す。

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当主の印である黒丸を、やや大きめにした3名が、長谷川家と縁(えにし)がある。
2列目の右は、権十郎宣尹(のぶただ)の番頭(ばんがしら)だった長門守定蔵(さだもち)。
同じ列の左は、火盗改メ時代の平蔵宣以とことごとに対抗した因縁の、左金吾定寅(さだとら)。
5列目は、初代・信濃守の3男が立てた分家で、3代目・新次郎定為

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一覧用のA3判の『寛政譜』で見わたすまで、久松松平12家の中で、祖・定勝(さだかつ)の4男・定実(さだざね)が立てた1家のみと長谷川家が縁が深かったとは、想像もしていなかった。というのも、こちらの目が左金吾定寅に固定していたからだ。

新次郎定為にしても、40年もあとに、本家の従弟・左金吾定寅が、配下・宣雄の息・平蔵宣以と職務上の政敵(ライヴァル)になろうとは予想もしなかったろう。そもそも、当時、次男・定寅家督相続の目はなかったのだから。

穏健で、むしろ無能とおもえるほど人のよい組頭・新次郎定為だったが、すべてに折り目正しく、のみ込みは早いのに控えめで、発言はいつも最後に行い、それでいて人の気をそらすことのない穏和なまなざしをした宣雄には、ひそかに目をつけていた。
同輩たちからの敬意がたまったころをみはからって、指導番に推挙するつもりでいた。

120_15ついでだから、稲垣史生編『三田村鳶魚 武家事典』(青蛙房 1959.6.10 四版)から、[書院番(補)]を写す。笹間良彦『江戸幕府役職集成』(雄山閣)も、ほとんどこれの引き写しだから。

「戦時には小姓組と共に将軍(継嗣)を守るのが役目だが、平時は殿中(西丸)の要所を固め、儀式に際して小姓組と交替で将軍(継嗣)の給仕に当たった。
また将軍(継嗣)が外出する時は前後を護衛するので、重代の旗本中から先任するのがならわしである。
はじめ四組であったが、中頃から十組(うち4組が西丸詰)に増加し、各組とも(番頭と)組頭の下、番衆五十人が属していた。
その他各組に与力十騎、同心二十人が配された」

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2007.04.28

久松松平家と長谷川平蔵家の因縁

2007年4月21日[寛政譜(17)]に、辰蔵宣義(のぶのり)が幕府に上呈した[先祖書]の6代当主・権十郎宣尹(のぶただ)が病気から再起して、

延享四丁卯年(1747) 再御奉公 奉願同年
五月十二日 西丸小姓組 松平長門守え御番入
被命

と書き出していることを報告した。

この、西丸小姓の第1組の番頭の松平長門守定蔵(さだもち)については、2006年5月6日[脇ばし、2つ]にある程度のことを記している。

その後の、久松松平家と長谷川平蔵宣以(のぶため)との陰の確執を理解するためにも、久松系の松平定実(さだざね)から発する[寛政譜]を掲げる。

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青○=長門守定蔵、緑○=左金吾定寅(さだとら)

久松松平一門の成り立ちの経緯については、2006年5月6日[松平左金吾の家系]にゆずり、重複を避けたい。

さて、青○=長門守定蔵と緑○=左金吾定寅の項をアップ(部分省略)。

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属親をカットして2人は親子関係だけをクロースアップしている。

ここでは、権十郎宣尹と短い縁(えにし)がつながった長門守定蔵の項をさらに取り出して読めるようにしてみよう。

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年譜をつくってみる。

元禄16年(1703)      生
享保 5年(1720)前後 18歳 松平家へ養子に入る
    6年(1721)   19歳 吉宗へ御目見
    7年(1722)   20歳 遺跡相続 寄合
   11年(1726)    24歳 中奥の御小姓として出仕
                   このころ婚儀、
                   内室は平野九左衛門長喜が養女
                   女(夭折)、男(28歳で歿)誕生
   17年(1732)    30歳 従五位下長門守に叙任
寛政 2年(1742)   40歳   定浄(さだもと のち左金吾)誕生
                    母親は杉本氏
延享 3年(1746)    44歳 西丸御小姓組の番頭
宝暦 1年(1751)   49歳 西丸御書院番番頭
    9年(1759)   56歳 大番の頭
    11年(1761)   58歳 致仕
明和  8年(1771)   68歳  歿
  
名家にふさわしい、順当な栄達であり、長谷川平蔵宣雄のあわただしい養子縁組を拒むような遺恨はまったくない。
次には、権十郎宣尹の直截の上司だった、小姓組組頭・牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)を検分してみたい。
    
ご興味のある鬼平ファンは、『鬼平犯科帳』にはその名がでていないが、史実では平蔵宣以の強烈なライヴァルだった松平(久松)左金吾定寅のあれこれを、この画面の右サイドバー[カテゴリー]欄 [092 松平左金吾定寅]をクリックして補習。

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2006.09.22

松平左金吾と連名で

火盗改メ時代の長谷川平蔵の実記録はないものかと、乏しい書架を眺めていて、最上段に『市中取締類集』(東京大学史料編纂所)が8冊あるのに気づいた。
脚立に乗らないと取りだせない高さなので、これまで、横着をきめこんでいた。

写真でご覧のように、1,2の函が赤茶けている。奥付を確かめた。
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    初版        復刻       定価
1.  1959.03.30              1,000
2.   1960.03.30              1,000

3.   1961.03.30    1999.09.30   12,000
4.   1962.03.30    1999.09.30   12,000
5.   1965.03.25    1999.10.20   12,000
6.   1966.03.30     1999.10.20   12,000
7.   1967.03.30    1999.10.20   12,000
8.   1969.03.25    1999.10.20   12,000

わかった。1,2は、卒業して勤めたS電機時代に、H堂のKさん経由で、無理して購入したもの。
2が刊行された時点で転職し、H堂との縁がきれた。

30余年後、収入も、まあ、安定したので、12倍に値上がりしていた復刻本を補充したのだ。
復刻は、もとができているから、1回に4冊ずつ。買うほうは大出費。

手にとって目次を確認していて、3.で長谷川平蔵の名が目に入った。
開くと、なんと、松平左金吾定寅との連名の伺書で、これまで、どの平蔵本でも目にしたことのないもの。
日付は天明8年11月19日---平蔵が火盗改メの本役、左金吾が平蔵の監視役を買って出て助役になって翌月。
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内容は、『よしの冊子(ぞうし)』で、老中・定信方の隠密が、さも、左金吾の提案らしく報告しているもの。
「なんだ、平蔵の発議だったんではないか」

要するに---、

捕らえた盗賊を翌日、火盗改メの役宅に連行すべく、町内の自身番所にとどめておくと、食事をさせたり警備の人数をふやしたりと物入りも多くて難儀だし、万一出火でもあったらあれこれ手続きが大変だから、夜、どんなに遅くなってもかまうことはないから、役宅へ連行するようにしたい。
ただし、真夜中だと町方にとっても難儀ということもあろう、そのときは、その旨を願いでて、翌朝連行してくればいい。

これに関連したことは、この9月19日[平蔵の練達の人あしらい]に書いていたはず。

また、HP[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図絵』]の[現代語訳 よしの冊子]の第6回にも紹介している。

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2006.05.17

松平左金吾の大言壮語癖

冬場の火盗改メ・加役を志願した松平(久松)左金吾定寅に対する、宰相・松平(久松)定信派の隠密たちの追従の報告書はつづく。


一. 長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。左金
  吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。議論
  で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。
   殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口
   もいいかえせることではない。
   まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれ
   でいい納めだろう。
   なんとしてもかなうはずはない。長谷川平蔵が左金吾どのへ
  伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。

隠密たちは、もっぱら、左金吾派のところへ行って取材している。そのほうが、定信の配下で隠密たちを束ねている水野為永が喜ぶからである。

水野為永は、先手組与力の息子で、定信より7歳年長だが、学問ができるというので、定信の勉学の友として伺候した。
そして、保守・家柄派、アンチ田沼の輿望をになって定信が老中首座に任じられたその日から、内閣調査室長の役をみずからに課したのである。隠密たちの報告書にすべて目を通した上で、定信へあげた。

一. 左金吾が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人
   もいない。武術者もこれまたいない。
  歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰
  卿のように詠むのがよろしい。
  そのほかの歌は歌ではない。
  拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のよう
  に詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。
  これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものでは
  ない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に
  立たない、といい放ったよし。
  かつまた、絵描も天下に一人もいない。いま栄川(泉)など
  が上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっと
  つけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵では
  ない。
  絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、
  山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。
  法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、
  ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい
  放ったよし。
  その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言し
  なかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。

山本伊予守(茂孫もちざね。38歳。1,000石)Iは、堀帯刀の後任で、先手弓の1番手の組頭(長谷川平蔵は弓の2番手の組頭)。

『鬼平犯科帳』では、京極備前守に命じられて、四谷・坂町の長谷川組の組屋敷の警護をしている。伊予守の組の組屋敷は牛込の山伏町である。そんなところから、わざわざ四谷・坂町まで出向かなくても、坂町のまわりには、先手の数組の組屋敷があった。備前侯は、それらの組に命じればよかったものを、この点では、ぬかった。

先手組頭たちの江戸城の詰め所---ツツジの間での、左金吾の大言壮語を許したのは、彼が宰相・定信と同じ久松松平の一族で、ことあるたびに、「定信どのに申し上げたいことがあったら拙者に申されよ。取り次いで進ぜる」といっていたからである。

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2006.05.16

松平左金吾の暴言と見栄

天明8年(1788)年10月2日に、火盗改メの本役になった長谷川平蔵宣以を追っかける形で、同月6日に、冬場の火盗改メ・助役(すけやく)の肩書きを得た松平左金吾帝寅が、さっそくに放言したことを、宰相・定信派の隠密が『よしの冊子(ぞうし)』に書きとめている。

一. これまで、放火犯または盗賊を吟味するために逮捕している
  のは、はなはだよろしくない。火附盗賊をしない前に逮捕して
  こそ加役の第一の心得といえる。
  将軍のお膝元に火附盗賊がいるなどということははなはだ悪
  いことだから、そのような者をいないように、その前から手をう
  っておくのが加役のご奉公というもの。
  まず、それについては江戸中の無宿がはなはだ悪者である、
  これを残らず召し捕り首を切ってしまえ、とまではいわないが、
  せめて(水替人夫として)佐渡送りにすべきだ。
  田沼以来、とりわけ無宿人がのさばり、丹後縞などを着てい
  る者までいるというではないか。

これは、もう、暴言というべきであろう。

まず、放火犯、盗人を、事前に逮捕するべきだ---といっているが、放火犯や盗賊が、その行為をする以前に、どうして「やる」と見極めるのだ?
そんな見極めができるのは、神さまだけであろう。

また、将軍のお膝元に、そういう犯罪者がいるのはおかしい---というが、仮に、江戸から放出できたとしても、そこはやはり日本国内である。来られた藩は迷惑千万。

左金吾の頭の中には、たぶん、宰相・定信の考え方---無宿人は犯罪予備軍---が染みついていたのであろう。
だから、無宿人を佐渡ヶ島へ鉱夫として送りこめ、という。
犯罪を犯していな者を、金鉱の穴掘り人にしてしまえ---とは、法治国家の上に立つ者のいうことではない。

当時、佐渡金山の水替人夫の死亡率は極端に高くて、送られて半年もしないうちにたいてい病衰弱死したという。
佐渡送りになったのは、掏摸の現行犯が主であった。そこで掏摸は、捕り方に元髪(もとどり)をつかまれても、すぽんと抜けて、逃げおうせるように、元髪をかつらにしていたと。

将軍のお膝もとへ、凶作と飢饉のために、田畑を捨てた農民が無宿人となって集まったのは、大都会なら、なんとか露命がしのげると考えるのが、古今東西の例だからである。

その無宿人対策として、のちに、平蔵が、授産施設である人足寄場を提案し、石川島にそれを建設してもいる。
左金吾の暴論をいいっぱなしとくらべると、月とすっぽんほどの違いといえよう。

丹後縞うんぬんにいたっては、もう、この仁の情報の収集と判断の仕方は、幕臣としては「処置なし」というほかない。
無宿人の痛みがまるでわかっていないし、自分の目で見たものでもないものを、判断の基にしているのだから。

その点、平蔵は、人足寄場を無宿人の更生施設として考えている。

一. 左金吾は麻の上下の小紋、衣類の小紋など、みなおも高(沢
  潟 おもだかの葉を図案化したもの)の小紋のよし。
  目立つほどの大きな小紋のよし。
  これは拙者の替紋だといっているよし。

下々の暮らしぶりには目をつむり、自分の虚栄のみをみたしているだけのことではないか。

注:陣幕、裃、高張提灯などにつける定紋(表紋)に対し、私物などにつける紋を替紋という。

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2006.05.14

松平左金吾のその後

寛保2年(1742)生まれの松平左金吾(当初は金次郎)は、延享3年(1746)に庶子として生まれた長谷川平蔵(当初は銕三郎)より4歳年長である。
したがって、先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのは54歳であった。歿した平蔵は50歳。

着任してきた左金吾は、気ぜわしく、与力・同心に、密偵たちとの縁を絶つように厳達し、密偵のリストを提出するように命じた。
絶てといわれた与力・同心たちは、当初は腹の中で笑っていた。火盗改メの職を免じられれば、密偵たちに密偵仕事をいいつけることはなくなるのだから、あとは単に知友として付き合っていけばいいとおもっていた。

しかし、リストを出せといわれると、ことは面倒になる。密偵たちが旧悪をあばかれて処刑されるかもしれない。
そこで、弓の2番手の与力・同心---『鬼平犯科帳』の佐嶋忠介、小柳安五郎たちは、ひそかに談合して、3,4人連名で1人の密偵の名をあげ、その密偵には、なるべく早く江戸を離れ、時をおいてふただび江戸へもどってくるようにいいふくめ、そうとうな路銀を渡して、対処した。

だから、ほとんどの密偵たちは、公けの場へ現れることなく、闇の世界へ消えた。
もちろん、左金吾グループも幕府の隠密を使って長谷川組の密偵を探したが、徒労に帰したみたいだ。

弓の2番手の与力・同心たちへの面従腹背の態度は、左金吾も気づいてはいたが、どうなるものでもない。何人かの与力や同心を買収しよう試みたが、うくまくいかない。

毎日うっとうしい気分でいたために、左金吾はもともと奇矯なふるまいの人であったのが、気欝が嵩じて、出仕もままならなくなった。

翌寛政8年8月27日の『続徳川実紀』は、
「先手弓の頭松平左金吾定寅病免して寄合となる。」
と記している。

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『続徳川実紀』寛政8年9月27日の項

先手の組頭は34人いる。2人や3人、長く病欠しても、泰平時にはどうってことはない。それなのに病気免職願を出したということは、すでに歿したか、再起不能の病状であったとおもえる。
事実、9月14日には公式に喪を発している(公式に喪を発したということは、寄合の辞席願も受理された後とみていい)。
享年55。

このあと、不思議なことが先手弓の2番手組におきた。

左金吾の後任の組頭は、家禄1500石の加藤玄蕃(げんば)則陳(のりのぶ)であった。着任時56歳。小十人頭からの栄転である。
寛政9年10月9日に、火盗改メ・冬場の助役(すけやく)として、玄番が発令されたのである。

長谷川平蔵の残影の強い弓の2番手には、二度と再び火盗改メをさせないというのが、松平左金吾の方針であった。しかるに、左金吾が歿して1年後に組が火盗改メに従事するとは---。

ぼくは、これをワナと観ずる。
というのは、ひそかに温存していた与力・同心たちと密偵たちとの糸を、それみたことかとあからさまにするワナだったのではないかと。
ワナは2度、しかけられた。

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2006.05.13

平蔵色の一掃とは---

長谷川平蔵がまだ死の床にある寛政7年(1795)5月8日、まるで、早く薨じてしまえといわんばかりの拙速で、平蔵が組頭だった先手弓の2番手の組頭へ横すべりしてきたのが、松平定信とは同族の松平左金吾であった。

左金吾は横すべりした、と書いたのは、7年前、1500石格の先手組頭の座に、2000石の家禄の左金吾が降格の形でついていたからである。彼がいたのは、先手鉄砲(つつ)の10番手の組頭。そこから、弓の2番手へ移った。格は、弓のほうが鉄砲組の上である。

左金吾が、いそいでやろうとした平蔵色の一掃とは、佐嶋忠介や酒井祐助、木村忠吾らと、五郎蔵、おまさ、粂八、彦十といった密偵たちとの接触を絶つことであった。
すなわち、長谷川組の実績に貢献の大きかった五郎蔵やおまさに代表される密偵たちをお払い箱にすることであった。

証拠はある。
松平定信や左金吾と通じていて、平蔵の政敵の一人でもあった森山源五郎孝盛のエッセイ『蛋(あま)の焼藻(たくも)』に、火盗改メとしての自分のやり方は王道、密偵を使って実績をあげた平蔵のやり方は覇道---と京極備前守高久が評したと記している。
つまり、平蔵は、幕府が禁じている密偵を駆使して実績をあげたにすぎない、違法の結果の功績である、と攻撃したわけ。

源五郎は、つねに平蔵をライパル視していて、左金吾が弓の2番手の組頭になった同じ日---5月8日 に、平蔵は二度と立ちあがれまいからと、火盗改メ代行の辞令を受けている。
そして、平蔵が息を引きとるや、予定していたように、たちまち、正式の火盗改メに任じられた。
もちろん、先手の組が違うから、佐嶋忠介や酒井祐助は、当然、任を解かれたのたである。

保守・家柄派による平蔵包囲網は、着々と設営されていった。

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2006.05.12

平蔵の後釜に座る

門閥尊重の保守派のシンボル・松平定信の意を帯した同族の松平左金吾定寅が、能力派の長谷川平蔵を徹底的に看視したなによりの証拠を示すために、一気に、平蔵の死へ飛ぶ(いじめぬいた6年間のことは、おいおい明かす予定)。

寛政7年(1795)4月、平蔵は病床についた。そして、5月10日に薨じたことは、菩提寺の戒行寺の霊位簿に記されている。

『続徳川実紀』が5月16日の項に、
「先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ。久々勤務により金三枚。時ふくニ賞賜あり」
と記しているのは、辞職願を受領されたのがこの日だからである。

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『続徳川実紀』寛政7年5月16日の項

嫡男・辰蔵が呈した「先祖書」は、5月14日に、
「大病に相い成り候につき、同役月番の彦坂九兵衛、岩本石見守をもって、御加役御免願いたてまつり候ところ、同月十六日召されにつき、右石見守登城つかまつり候ところ、願いのとおり御免、且つこれまでの出精相勤め候につき、御褒美として金三枚時服、御祐筆部屋縁頬にて、戸田采女正これを伝う。
同月十九日卒」
とある。

すなわち、10日の死を秘し、公式には辞職願の受領後に喪を発したための『続実記』の記述である。

まあ、そういうことは、公の手続きだから、どうでもいい。

憤慨に堪えないのは、平蔵の息がまだある5月8日、『柳営補任』が、先手弓の2番手の組頭に松平左金吾が発令されたと記していることである。
つまり、平蔵色の一掃を策したわけである。

平蔵が掌握していた先手弓の2番手は、先に記したように、平蔵着任前の50年間に144か月ももっとも長く火盗改メの任をこなした経験豊富な与力・同心たちがいる組で、平蔵の下で、さらに88か月も経験を重ねた、最強の部隊である。

ところが、この組の組頭へ転じてきた左金吾は、弓の2番手に、二度と火盗改メの任をもたらさなかった。私情優先、公益無視のとんでもない処置である。
こういうことを平気でやった松平定信一派を、なんと、呼べばいいのであろう。

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2006.05.11

陣笠か、頭巾か

長谷川平蔵と松平左金吾の最初の鞘当てを、『よしの冊子(ぞうし)』は、こう報告している。

一. 左金吾が加役を仰せつかった当日、殿中で長谷川平蔵がいう
には、
「火事場へ出張るときは陣笠。頭巾はだめ。そのようにお心得あれ」
と。
「それは公儀よりのきまりでござるか」
聞き返す左金吾。
「いや、そうではなく、本役加役の申し合わせでござる」
「それなら、拙者は頭巾をかぶります。公儀よりの掟として文書
になっているのでならば頭巾であれ陣笠であれかぶりましょう。
が、仲間うちの申し合わせということなら、自分の好きでよろしい
ではござらぬか。ことに拙者は馬が苦手なので、落馬しても頭巾
ならば怪我がくない」
これには平蔵も、
「ご勝手に」
というしかなかったよし。

左金吾が「加役を仰せつかった当日」といえば、天明8年(1788)10月6日であろう。
登城して拝命した形をいちおうはとり、ツツジの間へ下がってきて、平蔵のそばへより、
「拙者、加役を仰せつかまつった。ま、ともどもに励もう。ついては、聞き申すが、火事場への出張りには、陣笠か、それとも頭巾かな?」

これは、「ああいえば、こう答えよう、こういえば、ああ返事しよう」と、はなから仕掛けた質問である。
火盗改メのお頭の出張りは、問いただすまでもなく、陣笠にきまっている。火事場も戦場の一種だからである。

それを、先手の組頭たちが聞き耳をたてているところで、ことさらに聞いたのである。
言葉づかいも、先役に対するような控えめないい方ではなかった。

「馬が苦手」とは、いいもいったり---左金吾は、ひどい痔疾で、馬に乗れなかった。なにが、落馬のときにケガが軽くてすむ---だ。

(私事だが、きょう、これから、朝日カルチャーセンター(新宿・住友ビル7F)で、『御宿かわせみ』の第1回を講じなければならないので、この稿は、短くても、ご容赦いただきたい)。

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