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2006.05.05

たかが十手---の割り切り

テレビの『鬼平犯科帳』は、中村吉右衛門丈を得たことにより、女性視聴者をも引きつける魅力的な番組となった。原作の上質さとともに、知的時代劇の評はとうぜん。

とはいえ、その視聴率は平均して15パーセント前後。関東エリアの視聴率1パーセントは50万人とも100万人相当ともいわれるから、知的ぶってばかりはいられない。

その一つが、与力同心たちが終盤近くに十手を振りかざしての乱闘、血闘の捕物劇。もちろん平蔵の剣さばきもあざやかな殺陣(たて)も見せ場だが。

黄門番組の「これが目に入らぬか!」の葵の紋入り印籠のデモりと似た爽快感を期待してのテレビ、といってしまえばそれまでだが、困ったことに史実の長谷川平蔵は配下の与力同心たちへ、「十手は腰のものと同じとこころえ、みだりに抜くことのないように」と申しわたしていた。

「これから先、十手で人を殺(あや)めたなどと耳にしたら、それなりの処分を申しつける」
とも。

で、長谷川組はよくよく手にあまったときでなければ十手を抜かなくなった。

火盗改メの拷問の激しさには定評があるが、平蔵はこれもしないと宣言した。
「拷問などしなくても、おれが訊けばすらすらと白状するよ」

これも盗人世界への伝播をねらった広言と見る。じっさい、どうせ捕まるなら拷問のない長谷川組に---と、自首同然の形で縛についた者も少なくないのだ。

護送中に縄抜けして逃げた盗人がいた。1か月以内に再逮捕できなかったら、当事者の同心は責任をとらなければというところへ、くだんの盗人が自首してきて、
「いや、もう、この20日間、きょう見つかるか、あす捕らえられかと生きた心地がしませんでした。自首してホッとしています。これが縄抜けしたときのお縄です」
と捕縄をさしだした。

十手の話では、平蔵の監視役の形で火盗改メ・助役(すけやく)をしていた松平左金吾(2000石)の組下与力が十手を盗まれた。左金吾は大いに怒り、「お上へ届けなければ…」と先任の平蔵へ相談。、平蔵は高笑して、

「バカも休みやすみにおっしゃられい。気をつけていても十手以上のもを盗まれることだってある。深傷(ふかで)を負わされたというなら届けずばなるまいが、たかが十手一本ごとき、そう四角四面に考えずとも…」

これを伝え聞いた左金吾組の与力は、できることなら長谷川組へ配転してほしいと思った。もっとも、男を下げた左金吾は一層、平蔵を憎んだが。

つぶやき:
長谷川平蔵の直接の政敵が、この松平左金吾である。松平は松平でも、家康を産んだ於大の方を母に持つ、いわゆる異父兄弟にあたる久松松平だから、格が高い。
平蔵が火盗改メのお頭の頃の老中首座・定信もこの久松松平の白河藩主。で、左金吾とは従兄弟同士。だから、平蔵が火盗改メに任命されると、左金吾はただちに火盗改メ・助役となって平蔵を看視。

Photo_5
近江屋板 松平左金吾邸

松平左金吾は、先祖がゆえあって2000石の幕臣の道を選んだが、屋敷は麻布・桜田に8000坪と、小大名並みの敷地。現在はその一部が中国大使館と麻布消防署となっている。

切絵図は上が西。左金吾邸から右へ100メートル行くと六本木ヒルズ・ビル。

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コメント

松平左金吾の屋敷跡を先日散策しました。
中国大使館は表も裏も厳重な警備でしたが、
左金吾時代2000石の家来で小大名並みの8000坪の
屋敷をどうやって警備したのでしょう。

投稿: みやこのお豊 | 2006.05.05 21:58

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