松平左金吾定寅の家系
永禄3年(1560)、家康(19歳)は、2歳のときに生別した実母で織田方の久松俊勝に再嫁していた於大と、尾張国智多郡阿古居の城で再会した。
異父弟の三郎四郎( 9歳)、源三郎( 9歳)、三郎四郎( 1歳)を紹介され、「自分は兄弟に恵まれなかった。今後はおん身たちを弟として遇する」と約した。
この年の5月、今川義元が桶狭間で信長に討たれ、家康は信長と同盟を結ぶ。
3弟のうちで、もっとも家康の信任を得たのが三郎四郎、のちに伏見城代となった松平定勝で、次男・定行がその領国の桑名藩(11万石)を継いだのち、伊予松山(15万石)へ封じられた。
定行の弟・定継はのちに桑名藩に入り、7代定賢のときに越後・高田から陸奥・白河藩へ移った。
この白河藩のときに、三卿の一、田安家から養子となったのが定信である。この策謀に荷担したのが田沼意次と、定信は終生、意次を敵視することになった。
たしかに、養子に入っていなければ、家斉に代って定信が将軍になる目もなかったとはいえない。
定勝の四男・定実(さだざね)は、伊勢・長嶋(7000石)の命がきたとき、多病のため任に堪えられずと謝辞、2000石の寄合席となった。左金吾定寅はその6代目で、寛保2年(1742)の生まれだから、長谷川平蔵より4歳年長である。
母は杉本氏とあるから、とうぜん正腹ではない。
正室が産んだ嫡男・定栄(さだなが)が宝暦2年(1752)に28歳で歿したために、急遽のお目見となった。24歳であった。
『徳川実紀』巻10 明和2年5月12日
それまでの冷や飯時代の修養のほどは不明だが、その後のいささか奇矯ともいえないこともない言動から推察するに、正しい過程の習得を軽視してすごしたのではなかろうかと危惧する。
46歳のとき、白河藩主の定信が30歳で老中首座となるや、名門・久松松平の一員であることに目覚めたかのように、にわかに政治づいた。
つぶやき:
左金吾定寅の墓は、品川の東海寺の墓域に、久松松平の一員らしく、広い霊地を擁している。
2代目定之から以来の菩提所である。
しかし、近年、墓参が途絶えているのか、寒々としているようにおもった。
久松松平左金吾家の霊域
左金吾の墓石
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コメント
初めまして。「伊予の葵」を立ち上げている“いよかん”です。先日より貴ブログを拝見しております。
松平織部家と長谷川平蔵との関係を興味深く読み進めております。
いやはや織部家の歴代墓が東海寺(定恵院)に現存しているとは、感動しました。
また、いろいろな情報をご教示下さればと思います。
投稿: いよかん | 2011.02.28 15:58
>いよかん さん
ようこそ、お訪ねくださいました。
そうなんです、鬼平こと長谷川平蔵は、松平左金吾定寅と深い因縁があります。『よしの冊子』をお読みになると、確執ぶりがうかがえます。
墓の写真、お使いくださったようてすね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.03.01 09:38