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2006.05.07

奇矯の仁・左金吾定寅

めったなことでは、ぼくは、歴史上の人物にニックネームをつけない。
それほど、史実に通じてはいないから。

ところが、松平左金吾定寅ドノには、躊躇することなく、〔寛政のドンキホーテ〕なる綽名をたてまつったのである。
それは、次のエピソードを読んだからだ。

天明6年(1786)5月19日から江戸の町に発生した打ちこわし騒動については、長谷川平蔵の項ですでに2回触れた。
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=11384062&blog_id=75545
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=11366989&blog_id=75545

この年、左金吾46歳。住まいは江戸西北のはずれの麻布桜田町。
この仁、都心で米商を弾劾する暴徒が発生したと知るや、鑓の鞘をはらって自邸の門内を昼夜巡邏したばかりか、近隣の幕臣の屋敷のある街路をも巡視したというのである。

暴徒が襲っているのは、売り惜しみをしている米商や、貧乏人がふだんから不満を抱いている質屋や冨商である。どんな暴徒が大身幕臣や大名屋敷を襲うというのか。
情報不足によるおもいこみの所作を、江戸のドンキホーテに見立てた。46歳の一張前の武士がすることとはとてもおもえなかった。

しかも左金吾どのは、その節のふる舞いを後年、テレもせずに、他人へ吹聴しているのである。だからエピソードが記録となって残った。

こういうトンチンカンな思考に対し、為政の立場にある人たちは、家柄は家柄として、敬して遠ざける策をとった。
一度だけ、火事場見廻りという軽い役をふったが、これも1年半でそうそうにお役ご免とし、あとは無役のまま放っておいた。

ところが、養子とはいえ一族の松平定信が老中首座に就いたから、「わがとき至れり」とばかりに運動開始。
すなわち、「田沼派といえる長谷川平蔵を火盗改メ・本役に据えるのであれば、拙が相役となって、きやつめを看視しよう」と、定信に申し出た。

家柄派の定信一統とすれば、田沼色一掃は役方(やくかた 行政担当)にかぎり、仕置きにかかわりの薄い番方(ばんかた 武官系)は無視することにしていたのだ。

ちょっとやそっとで、他人の言を聞く仁ではないから、定信一統としても、「まあ、仕置き(政治)に深く関係する職務ではなし、好きにやらせておこう」と、異例の発令をした。
すなわち、火盗改メは先手組頭から選ばれるのがしきたりだから、左金吾を火盗改メ・助役(すけやく)に発令するには、まず、先手組頭に据えないといけない。

困ったことに、先手組頭は1500石格、左金吾の家は事情ありの2000石。下手をすると降格視されかねない。

そのことを左金吾へ質すと、「やむをえぬ。お仕置きを正すためには、あえて身を沈めよう」
どこまでも、芝居がかりだ。

つぶやき:
まあ、8000坪の屋敷を擁しているから、火盗改メに任じられても、仮牢や白洲を設けるには困るまい。

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