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2007.05.04

寛政重修諸家譜(21)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、寛延元年(1748)閏10月某日に初出仕した西丸には、継嗣・竹千代(のちの第10代将軍・家治)のために、4組書院番が配置されている。

組衆は各組50名ずつ。各組には1000石格の(与)(くみがしら)がそれぞれ1名。
3番手の組(与)頭は、久松松平新次郎定為(さだため)。組(与)頭の地位について6年目。63歳。家禄1000石。屋敷は麻布一本松町(ただし、幕末の切絵図にはないから屋敷替えがあったか)。

指導番の氏名は記録されていないが、組内はもとより、ほかの3組への挨拶まわりに付き添ってくれたのは、組の中でも先輩格の指導番であった。
なにしろ、この日と翌日は、書院番・小姓組番など、17人が初出仕の挨拶まわりをするものだから、西丸の廊下は行きかいで混雑した。
挨拶まわりが数日間にわたるのは、書院番士も小姓組番士も1直(宿直つき)勤務だからである。
このとき、番入りの古い順の者から先に挨拶をするのがしきたり。順序を間違えるとあとでいじめられる。もちろん、そこは指導番がうまく手引きしてくれる。

さて、宣雄の組(与)頭となった松平新次郎定為。この家の一統の『寛政譜』を示す。

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当主の印である黒丸を、やや大きめにした3名が、長谷川家と縁(えにし)がある。
2列目の右は、権十郎宣尹(のぶただ)の番頭(ばんがしら)だった長門守定蔵(さだもち)。
同じ列の左は、火盗改メ時代の平蔵宣以とことごとに対抗した因縁の、左金吾定寅(さだとら)。
5列目は、初代・信濃守の3男が立てた分家で、3代目・新次郎定為

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一覧用のA3判の『寛政譜』で見わたすまで、久松松平12家の中で、祖・定勝(さだかつ)の4男・定実(さだざね)が立てた1家のみと長谷川家が縁が深かったとは、想像もしていなかった。というのも、こちらの目が左金吾定寅に固定していたからだ。

新次郎定為にしても、40年もあとに、本家の従弟・左金吾定寅が、配下・宣雄の息・平蔵宣以と職務上の政敵(ライヴァル)になろうとは予想もしなかったろう。そもそも、当時、次男・定寅家督相続の目はなかったのだから。

穏健で、むしろ無能とおもえるほど人のよい組頭・新次郎定為だったが、すべてに折り目正しく、のみ込みは早いのに控えめで、発言はいつも最後に行い、それでいて人の気をそらすことのない穏和なまなざしをした宣雄には、ひそかに目をつけていた。
同輩たちからの敬意がたまったころをみはからって、指導番に推挙するつもりでいた。

120_15ついでだから、稲垣史生編『三田村鳶魚 武家事典』(青蛙房 1959.6.10 四版)から、[書院番(補)]を写す。笹間良彦『江戸幕府役職集成』(雄山閣)も、ほとんどこれの引き写しだから。

「戦時には小姓組と共に将軍(継嗣)を守るのが役目だが、平時は殿中(西丸)の要所を固め、儀式に際して小姓組と交替で将軍(継嗣)の給仕に当たった。
また将軍(継嗣)が外出する時は前後を護衛するので、重代の旗本中から先任するのがならわしである。
はじめ四組であったが、中頃から十組(うち4組が西丸詰)に増加し、各組とも(番頭と)組頭の下、番衆五十人が属していた。
その他各組に与力十騎、同心二十人が配された」

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