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2007.05.03

寛政重修諸家譜(20)

30歳になっていた宣雄(のぶお)へ跡目相続の許しをいい渡したのが、たまたま月番老中にあたっていた本多伯耆守正珍(まさよし)であった奇縁は、2007年5月1日[宣雄、異例の出世]に記しておいた。
本多伯耆守は、駿州・田中藩4万石の藩主であった。田中城は、長谷川家の祖・紀伊(きの)守正長が今川勢の将として守ってい、武田方の攻撃を受けて退き、徳川方へ縁を求めた歴史がある。

そのことがあって、われにもなく、つい、急ぎすぎた。平蔵宣雄の沈着を学ばねば---。

老中・本多伯耆守との縁(えにし)が生まれた寛延元年(1748)4月3日のことを、辰蔵宣義(のぶのり)が[先祖書]に、こう書きとめている。

 四月三日 養父権十郎宣尹が跡目賜る旨 菊の間で
 本多伯耆守伝える 小普請組柴田七左衛門の支配に。
 同年(延享5年)閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
 組え御番入り命ぜられる。

役に就いていない幕臣で、長谷川本家のように禄高の高い者は寄合に、家禄が1000石にも満たない家は小普請組へ入れられる。
宣雄の場合は、役につくまでの待命の小普請入りであった。
案の定、 『徳川実紀』によるとその年の閏10月9日だが、宣雄は番方(武官系)の家柄らしく、ほかの26人とともに西丸へ番入りしている。

宣雄は、書院番3番手入り。
番頭柴田但馬守(のち丹後守)康完(やすのり)。55歳。5500石。諱(いみな)の「康」からしても武功の家柄らしい。
三河国額田郡(ぬかたこおり)柴田郷の出による姓。
上和田での一向門徒との戦いのとき、祖・七九郎重政が名を刻んだ矢を放ち、敵はそれらの矢と犠牲者数十人の名前を届けてよこしたので、家康が御感の上、一字を与えて康忠と改めさせたという因縁(いわれ)がある。
ただし、丹後守康完松平(五井)志摩守忠明(ただあきら)の三男、柴田家の養子となった人。

Photo_347

宣雄のことで、もちろん、丹後守康完にも好意をもたれた。が、この番頭は在任が短すぎた。2年と6か月の上司だった。
後任は、仙石丹波守久近(ひさちか)。

そのまえに、(与)松平新次郎定為(さだため)に触れておくべきであろう。

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コメント

寛政重修諸家譜を、先に「誰についてだけ調べる」だけというのではなく、「調べた先につながっているのを更に辿って行く」と、ここまで歴史がつながっていくものなのですね。考えたら、寛政譜が一般人はもとより研究者の目にさえ気軽に触れるようになってまだ「たった百年」、それも歴史に詳しい教養人でなくては読み進むにも骨が折れるこの文献、よほどの有名どころ以外は調べられてもいましょうが、その周辺に、まだまだ知られていない人脈があるのでしょうか。

投稿: えむ | 2007.05.03 18:36

>えむ さん
鬼平こと長谷川平蔵がらみで、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『柳営補任』など、手持ちの史料を関連づけているだけなのですが、こんな探索、『長谷川平蔵---その生涯と人足寄場---』(朝日文庫)の滝川政次郎博士とその門下もやっていなかったことなのです。
まあ、江戸期の一人のあまり有名ではない幕臣に目をつければ、ぽく以上の探索ができ、現代と関連づけられるとはおもうのですが。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.03 18:55

この一連の探索は、きっと近世日本史研究者志望の人たちにも、ありがたい見本になるでしょうね。資料がいつかデジタル化されたとしても、やはり人物間の関係性の発見と文脈の推測は、熟練の技が必要であろうと思います。

投稿: えむ | 2007.05.04 20:38

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