カテゴリー「090田中城かかわり」の記事

2008.12.30

田中城ニノ丸(5)

この[田中城ニノ丸]()に、宮城谷昌光さん『新三河物語 中』(新潮社 2008.9.20)から、天正10年(1582)2月、家康が甲州鎮圧にむかったとき、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 48歳)は駿河に残り、3月、田中城で篭城していた依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ 35歳)の開城に立ち会った条を引用した。

ここでは、その前段を、いささか長めに引かせていただく。

大久保勢は、家康に随従して甲州へむかった忠隣(ただちか)に従った兵と留守した忠世に属(つ)いたものとにわかれた。平助(のちの彦左衛門忠教 ただのり 23歳)は忠世の近くにいたので、
「田中へゆく。ついてまいれ」
と、いわれ、あわてて腰をあげた。
すでに田中城の信蕃は穴山梅雪の親書をうけとっている。大井川を越えて田中の城を遠望した忠世は、
「のう、平助、この世には盛者必衰の理かあるとはいえ、いまや、遠江と駿河のなかで武田の城として遺っているのは、あの城のみぞ。恐ろしいことよ」
と、既嘆した。
「いつか、徳川の城も、遣るは二俣城のみ、と天竜川を渉る者にあわれまれる時がくることを危怖なさいますか」
「やや、平助の□は、われの想いより、なおさら恐ろしい。徳川家が滅ぶ時などは、夢にも想わぬ」
と、忠世はゆるやかに首をふった。
「唐土では、殷王の時代が六百年もつづき、周王の時代が八百年もつづきましたが、それでも滅びました。徳川家だけが、盛者必衰の理をまぬかれるのでしょうか」
と、嘆息をした忠世は、徳川の家もいつか衰亡するのであろうな、といった。
 「天下にとって、悪であり害であるがゆえに、滅ぶのです。そのとき天下万民の敵となる者の城が、難攻不落では、万民が難儀をするという考えかたがあります。あえていえば天下を主宰する者は、そういう城を築いてはならぬのです。田中城をごらんになるとよい。こういう事態になって、その城は、守る者と攻める者を同時に苦しめつづけている。この城を最初に築かせた信玄の失徳のあらわれです」
目をみはった忠世は、馬上で感じたおどろきを天にむかって吠笑にかえた。 「ぬかしたな、平助。だが、なんじのいう通りかもしれぬ。われは二俣城の修築をやめ、城下を富ますことにする」

田中城を補強するにあたって、武田方が、周辺の住民に重い苦役を課したことを、宮城谷さんは推察している。
信玄が愛読したといわれる『孫子』[作戦篇]に、智将は務(つと)めて敵を食(は)む」とある。
歴史書は書かないが、信玄も、そうしたろう。

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(本多家時代の田中城図 青〇=ニノ丸 藤枝市郷土博物館刊)

「人は城、人は石垣、人と濠(ほり)、情けは味方、讎(あだ)は敵---は、味方に益したろう。
支配地は、人で城、人で石垣、人で濠掘りでなかったか、と平助はおもっている。

しかし、正珍にそれを言っても甲斐なかろう。

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(本丸跡に建った益津小学校前庭の箱庭の田中城)

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2008.12.29

田中城ニノ丸(4)

田中城ニノ丸(4)
「あれから、もう、10年にもなるか。歳月の足は、いかにも、速い」
本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)は、呟いたあと、なにごとかをおもいだいように、沈黙した。
英明と言われて、天下の仕置きにさっそうと腕ふるった老中現役のころでも反趨したのであろうか。

しばらくして、長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)が言った。
「先刻、お目どおりをお許しいだきました寄合・坂本美濃守直富(なおとみ 37歳 1700石)どのは、六郷家からのご養子でございます」
「なに、六郷家? 出羽・本荘藩の故・六郷伊賀(守 政長 まさなが 2万石 享年49歳)侯とゆかりの?」
「支家とうかがっております」
「ふーむ」
正珍は鈴をふって召使いに、用人を呼ぶように言いつけた。

命じられた用人が、延享3年から5年にかけての手控えを持ってくると、ぱらぱらとめくり、
「あった。延享4年(1747)8月5日、六郷下野守政豊(まさとよ 600石)をはじめ14名の者に遺跡をつぐことを許すと、月番老中であった予が告げておる」
下野どののごニ男が、坂本家へご養子に迎えられた直富どのでございます」
「ますますもって因縁つながりであるな。まて、その翌くる日の8月6日、柴田家から坂本家へ養子にはいった小左衛門直鎮(なおやす)に家督の許しを申し渡しておるな」
「まさに、奇縁!」

要するに、柴田家から直鎮坂本家へ養子に入ったが、正妻に男子が得られなかったために、六郷家から直富を養子にむかえたら、脇腹に勝房が生まれたので、かれを柴田家へ送って家を継がせたということである。

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(柴田家から直鎮が坂本家へ養子に)

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(坂本直鎮に男子がなかったので六郷家から直富を養子に)

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(坂本直富の子・勝房が柴田家の養子に)

「奇縁の始まりは延享4年でございますか。拙が生まれた次の年でございますから、22年の昔---」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、延享3年(1746)に誕生している。

ひとしきり懐古談があって、銕三郎が話題を変えた。
「上野・沼田から田中藩へお国替えがありましたのは、たしか、殿のご先代・正矩(まさのり)侯のときと記憶しておりますが---」
「そのとおり、享保15年(1730)、予が21歳のときであったが、大名の嫡子は江戸から離れられない。したがって、予に国入りのお許しが出、藩内の者たちに顔を見せることができたのは、父・正矩が薨じられて翌年の元文元年(1746)6月であった」
「初めて田中城をご覧になられたときのご印象は?」
「そうよな。27歳の青年の目には、武田信玄公の執念を目のあたりに見るおもいであったな」

それほど、濠は深く、土塁(どるい)は高く、ニノ丸・大手門前の馬出しの妙はみごとであったということであろう。

「望櫓にのぼってみて、信玄公の意図もしかとのみこめた。なんと、北東側は藤枝宿の端から端まで、また、南面の駿河の海は、沖の沖まで見はらせた。戦国の世では、まさに要塞を築くにふさわしい地であった」
「そうしますと、大権現さまが、武田の遺臣・坂本某にニノ丸の守備をお命じになったのもむべなるかなと---」
「さよう」

銕三郎は、武田勢の脅威にさらされていた今川氏真(うじざね)が、祖・紀伊(きの)守正長を城主に命じたわけを、正珍の言葉から汲みとっていた。

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2008.12.28

田中城ニノ丸(3)

この日の年始まわりは、まず、芝・三田寺町の水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 47歳 3500石)邸であった。
勝久は、こころづもりしていたとおり、登城していて留守で、去年の師走5日に銕三郎(てつさぶろう 24歳)といっしょに初見(しょけん)を終えた嗣養子・勝政(かつまさ 26歳)が年賀をうけた。

あとは、使いをだして都合をうかがっておいた、本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)の隠居所を、芝・ニ葉町に訪問する手筈になっていた。
正珍からは、昼食を用意しておくから、ゆっくりしていくように---との返辞をうけていた。

賀辞と質素な午餐が終わったところで、
銕三郎くんは、ことしあたりは嫁取りかの?」
訊かれて、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)をちらりと見てから、
「そのようになろうかと、覚悟をしております」
「嫁を迎えるのに、覚悟をしなければならぬ、なにか面倒な事情でもあるのか?」
「いえ、ございませぬ」
銕三郎は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕のお(なか 35歳)との、1年近い付きあいの夜をおもいだして、すこし赤くなった。

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(国貞『正写相生源氏』[堪能の余韻] お仲のイメージ)

「嫁取りまでに、始末をしおかねばならぬ事案を持たないような若者は、見込みがないわ。はっははは」
正珍は、宣雄に向かい、
「で、なにか、用件があったのじゃな?」
宣雄は、先祖が武田方から徳川の家臣となり、田中城のニノ丸の守備に就いた、寄合・坂本美濃守直富(なおとみ 37歳 1700石)が、
「大殿にお目どおりを願望しております。いかが、答えておきましょうや」
と告げた。
坂本---とな?」
栗原衆だったとか---」
「では、親類衆・武田刑部どのの一門じゃな。たしか、山梨郡(やまなしこおり)栗原の郷あたり---」
「おお。恐れいりましてございます」
「なに、わが藩にも、栗原衆の流れがいての。若名なんとか---代官をしておる」

銕三郎は、60歳の伯耆守正珍の記憶力がいささかも衰えていないことに、内心、舌をまいた。
30代という若さで老中職に就いた実力の片鱗を、見たおもいであった。

長谷川どの。ずっと先(せん)に、銕三郎くんをわずらわせて、国元まで足労をかけたにもかかわらず、残念にも流れた田中城をしのぶ集いな。あのときは、どうやら、人選びをあやまったようだな。坂本うじのような仁を、もっと、こころがけるべきであったような」
「申しわけもございませぬ」
「気にいたすな。坂本うじとやら、寄合ほどの身で、訪れてくれるとは、珍重(ちんちょう)々々」
「ありがたきおぼしめし---」

「ところで、銕三郎くん。藤枝宿や小川(こがわ)への旅したのは、幾つのときであったかの?」
「14歳でございました」
銕三郎は、三島宿で男になったことをおもいだした。
(あのとき、お芙沙(ふさ)は25歳とか、言っていた。初めて同衾したおんなの匂いに、むせかえるようであったな)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

「いまは幾歳かの?」
「明けて、24歳になりました」
「あれから、もう、10年にもなるか。歳月の足は、いかにも、速い」

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2008.12.27

田中城ニノ丸(2)

駿州・田中城と長谷川家とのかかわりについては、すでに幾度も言及している。

しかし、あらためて、この記録は、再読ねがいたい。
5年つづいている静岡の[鬼平クラス](静岡新聞、同放送のSBS学苑。毎月第1日曜日午後1時~)の第1回からともに学んでいる中林さんのリポートと、その補記である。

藤枝宿の探索

参照】ついでに、[ちゅうすけのひとり言] (15) (14) も。

新しい情報として、宮城谷昌光さん『新三河物語 中』(新潮社 2008.9.20)から、多くを引かせていただくがその前に---。

今川陣営の主要な拠点でもあった田中城は、義元とともに桶狭間で戦死した由井美作守正信(jまさのぶ)に代わって、長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)が守将として小川(こがわ)城から入ったものの、元亀元年(1570)、多勢の武田軍に攻められ、正長は浜松へ走り、徳川の傘下へはいったことは、上記の記録でお確かめを。

武田信玄は、田中城が枢要な位置にあることを見取って、馬場美濃守信房(のぶふさ)に命じて三日月堀や土塁(どるい)などを修築、堅固・威容を誇る城塞につくりかえさせた。

天正7年(1579)2月。
徳川家康は田中城の攻略と、甲州への進攻を同時に行う。
田中城の守将は依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ 35歳)であった。
3月にはいっても、田中城は落ちなかった。

が、勝頼はすでに自刃しており、穴山梅雪(ばいせつ)の親書が信藩のもとにとどいていた。
武田方が駿州に保持しているのは、田中城のみであった。
信蕃は、家康の使者・成瀬吉右衛門正一(まさかず 42歳)に言う。

「旧識のある大久保忠世がくれば、城をわたさぬでもない」
宮城谷さんの推察である。

このとき、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 48歳)、信藩とは、二股城の明け渡しで信頼のきずなを結びあった仲であった。

_120忠世を待ちかねていた(山本)帯刀は、
「それがし、主命により、同行いたす」
と、いい、みずから副使となって城内にはいった。すずやかにふたりを迎えた信蕃は、
「また、雨になりそうです。霖雨(りんう)にならなければよいが---」
と、忠世にだけ意味ありげにいった。雨ふりには城を明け渡さないので、それがわかる忠世は幽かに苦笑した。
信蕃の左右には弟の善九郎と源八郎、それに副将の三枝土佐守虎吉(とらよし)が坐った。虎吉は老将で、この年に七十一歳である。かれの長男の勘解由(かげゆ)左衛門守友(もりとも)と次男の源左衛門守義(もりよし)は、設楽原合戦において五砦のひとつである姥(うば)ヶ懐(ふところ)を守っていて、討ち死にした。それゆえかれのうし後嗣は源八郎昌吉(まさよし)である。
「さて、右衛門佐どの、穴山さまよりお指図があったはず。すみやかに城の明け渡しをなさるべし」
忠世は個人的な感情をおさえていった。
「いかにも、うけたまわった。貴殿にお渡しする」
「証人は---」
「要(い)り申さず」
「では、明朝---」
何の問題もない。要するに信蕃は田中城を忠世以外のたれにも渡したくないために戦いつづけたようなものである。

宮城谷さんは、男と男の心情を描きたかったのであろう。

さて、家康からニノ丸の守りをまかされた坂本兵部丞貞次(さだつぐ 63歳)が信蕃の配下にいて篭城していたかどうかの確証はない。
いずれにしても、信長武田遺臣狩りが、その死によって解けるまで、貞次もひそんでいたとおもえるのだが。

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2008.12.26

田中城ニノ丸

「銕(てつ)は、先日の初見の衆のうちで、柴田岩五郎勝房かつふさ 17歳 3200石)どのを覚えておるか?」
夕飯のとき、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の組頭)が話しかけた。
杯を置いた銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、
「はい。初々(ういうい)しい若者とおもいました」
初見以後、父の配慮で夕食に、銕三郎だけには1合きりだが、酒がつくようになった。

「後見役をなされていた坂本美濃どのはどうじゃ?」
「しかとは---」
勝房どのは、坂本家から柴田家への、末期養子であった」

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(柴田岩五郎勝房の個人譜)

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(勝房の実家・坂本家での系譜 緑○=勝房 黄〇=直富}

strong>柴田家は、織田右府信長)の重臣・柴田修理亮勝家(かついえ)の本筋の家柄である。
秀吉との後継者争いの戦いに敗れた勝家は、越前・北ノ庄で自害したが、幼少の孫・権六郎が落ち延びて、外祖父・日根高吉にかくまわれた。
家康が見出し、2000石を与えて臣下にした。
養子・岩五郎勝房は、勝家からかぞえて10代目にあたる。

「後見役をおつとめになっていた坂本美濃どのは、勝房どのの兄者にあたる。柴田家は、8代目、9代目が若くして逝かれたために、美濃どのが親代わりをなされたということだ」

坂本美濃守直富(なおとみ 36歳 1700石)は武田系だが、家重(いえしげ)つきであったので、その急死とともに任を解かれて寄合となっていた。
養父・小左衛門直鎮(やすしず 小姓組番士 51歳)は、このところ健康がすぐれなかった。

「じつは、美濃どのから、ともども、ご招待を受けた」
「それは、それは。いつでございますか?」
「松がとれた、16日---」
「年があけてからでございますか。して、お屋敷は---?」
「近い。林町5丁目じゃ」
「ああ、5丁目も、竪川(たてかわ)ぞいの東角のお屋敷です」
「存じておったか?」
「はい。父上のご登城の道からはずれております」
「うむ」

「しかし、なにゆえのご招待でございますか?」
「さあ、それじゃ」

宣雄の説明によると、武田の家臣であった坂本家は、勝頼公の歿後、東照宮さまに召され、駿州・田中城のニノ丸を守っていたという。

ちゅうすけ注】『寛政重修諸家譜』にも、そう記されている。

貞次(さだつぐ)
   兵部丞 豊前 母は某氏
信玄及び勝頼につかへ、駿河国田中城を守る。天正10年(1582) 武田家没落ののち、めされて東照宮に拝謁し、田中城の二の丸を守り、山西の御代官つとめ---(後略)

「それで、われが田中城の前のご城主・本多伯耆守正珍まさよし)侯のご隠居所へご機嫌伺いに参上していることをお耳にされたらしく、折りをみて、いっしょさせてくれとのご所望であった」
「やはり、なにかの下ごころがあってのお招きと推察しておりましが、そういうことでございましたか」
「とはいえ、本多侯は、ご老中を罷免され、隠居のおん身になられて10年の歳月を経ておる。柳営でのお力はもうなかろう」
「それでは、たんに懐かしいだけと---?」
「いや。人の気持ちは読めたようで読めない。ま、馳走になってみようではないか」

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(田中城とその周辺の模型 藤枝市郷土博物館「田中城と本多氏」より)

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)


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2007.10.12

田中城しのぶ草(20)

息・銕三郎が藤枝宿の青山八幡宮からもらってきた、徳川幕府初期の田中城代の名書きを前にして、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)は、先刻より、当惑していた。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

じつは、銕三郎から受け取った翌日、江戸城内の紅葉山にある書物奉行所を訪ねて、中根伝左衛門に名書きの写しを渡して用途を告げ、この仁たちの『寛永譜』の写しとその末裔を教えてほしいと頼んだ。
もちろん、先に貰ってっていた大久保忠直(ただなお)・忠当(ただまさ)とその末である荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)は除けることは言いそえた。

2日ほどして、小十人組頭の控えの間へ中根伝左衛門からの使いが、すぐに書物奉行所へくるようにとのことづけをもつてきた。

「この、松下大膳忠重どのですが---」
書き間違いではなかろうかと、伝左衛門が言った。
松下家には、「忠」のつく名の者はいないし、『寛永譜』をあたっても、田中城の城代をした仁が当たらないというのである。

寛永8年(1631)6月の名書きの下にある北条出羽守氏重(うじしげ)さまは、正保元年(1644)に2万5000石の大名として田中城に赴任している。
参照:2007年6月21日[田中城しのぶ草](3)
2007年6月30日[田中城しのぶ草](12)
その前の城主は、松平(藤井)伊賀守忠晴(ただはる 2万5000石)さまに、「松」と「忠」がかさなるが---。

「いや。探しているのは大名家ではなく、幕臣なのです。しかし、中根どのがお調べくださった見当たらぬものは、存在しなかったと考えるべきでしょう」
宣雄は、そういって、松下大膳亮忠重は、藤枝の青山八幡宮の筆のあやまりでなければ、寛永のころに断家したのではないかと推察した。

しかし、このことは、銕三郎には言わなかった。役目をまつとうしていない、と思いこませてはいけないと思ったからである。

【ちゅうすけ注:】
『柳営補任』の駿府城代の項を見ると、寛永の初期に、松平(能見)丹後守重忠(しげただ)の名が見える。たぶん、この仁の誤記かとも思ったが、寛永3年(1626)7月11日卒しており、年代は符合しない。
『寛政譜』には「元和7年(1621)遺領をたまひ、父に継いで駿府の城代たり」とある。
田中城を駿府城の支城とみなして兼任していたとしては、史実の歪曲にあたろうか。

書き添えると、宣雄の時代には『柳営補任』『寛政譜』もまだできていなかった。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.13

依田右衛門佐信蕃

察しのいい中根伝左衛門(書物奉行)は、三枝右衛門虎吉(とらよし)の将として田中城を守った武田方の蘆田右衛門佐信蕃(のぶしげ)「先祖書」も添えてくれていた。
もちろん信蕃は、家康の麾下に入ってから、信州の豪族たちを徳川方につけるために大いには働き、小諸岩尾城攻めのときに鉄砲玉2弾をうけて没している。36歳であった。

Photo_402家康は、信蕃の労を多として、一族ほかの面倒をよく見た。
たとえば、信蕃の弟・源八郎信幸(のぶゆき)の次男・依田(よだ)平左衛門信守(のぶもり 500石)が立てた家では、豊前守政次(まさつぐ 800石)が、この6年來、北町奉行を勤めている。宝暦9年(1759)で51歳。     (依田一門の家門=丸三蝶)

信蕃の「先祖書」に、こんな記述があった。
田中城を大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に引き渡して一旦は春日城へ帰った。
そして、小諸城に武田方諸将の人質をとっていた織田方の森勝蔵長一(ながかつ)に会う。
長一は、織田方にしたがうことを提案。しかし、信蕃は、人質を捨てても家康との約束をまっとうしたいと告げて去った。
このこと聞いた信長は怒りくるい、信蕃を殺せと命ずる。
家康に、しばらく身を隠して時節を待つようにとさとされ、かつて守ったことのある遠江国二股城の川上の小川にひそんていると、本能寺の変がおきた。

家康一行が、本多平八郎忠勝(ただかつ)の知勇ーなどで、やっと伊賀越えをしたことは、2007年6月13日[本多平八郎忠勝の機転]に6日にわたって詳報した。このとき、家康は、苦難の道中にもかかわらず、伊賀者を信蕃の隠れ家へ先行させ、信長が歿したゆえ、もはや生命の心配はなく、岡崎城で会おうと伝言。

岡崎城で待っていた信蕃は、家康の意を受、すぐさま甲信の国境に旗をあげ、たちまちに3000余の人数を擁して、反抗する10数の城を陥した、と。

この挿話からも、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、信長家康の資質の差、人を信服させる徳の違いを読み取った。
このことも、息・銕三郎(てつさぶろ のちの平蔵宣以 のぶため)へ引き継ぐことにした。 

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2007.07.11

酒井日向守忠能(2)

2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]に、

いまは5000石の大身幕臣だが、田中城主だった先代・日向守忠能(ただよし)侯は、4万石の身代を棒にふった---というより、政敵(将軍・綱吉の側近たち)にはめられた、といえよう。

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寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)

その忠能が4万石を棒にふらされた理由というのが、いま考えると、どうにも合点がいかない。陰謀としかいいようがない。あるいは、忠能の偏屈ぶりが、よほど周囲に煙ったがられていたか。

忠能には本家の甥にあたる忠挙(ただおき)が、承応2年(1653)から寛文6年(1666)の老中在任中の亡父・忠清(ただきよ)に落ち度があったということで、16年後の天和元年(1681)12月にとがめられた。

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寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)

結果は、忠清はその年の5月に故人となっており、忠挙自身はあずかりしらなかったとていうことで、なんのことはない、一件落着。

ところが、とばっちりを忠能がかぶった。
本家の忠挙が吟味を受けているのに、忠能は参府して進退をうかがうべきなのに、のうのうと在国していたのは不謹慎でけしからぬ---と、田中藩を収公の上、井伊家に預けられた。その後ゆされたが、身分は5000石の幕臣。

福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)も、延宝2年(1674)の越後・高田藩主の松平光長(みつなが)の嫡子・綱賢(つなかた)の死が発端となっておきた、いわゆる越後騒動が、綱吉が将軍となってから再審され、
忠清の弟酒井忠能は、(忠清の継嗣の)忠明(ただあきら のち忠挙)が逼塞を命じられた際に参府して出仕を憚るべきであるのに、在国のまま逼塞したのは不敬(ふけい)とされ、天和元年(1681)12月10日に駿河国田中城を没収され、井伊直興(近江彦根)に預けられた。しかし、酒井家側では忠能が逼塞の身で何も伺いせず参府したことが不敬とされたが、実は稲葉正則(ただのり)に頼んで老中の内意を得たうえでの参府であったと主張しており(「重明日記抜粋」)、真相は不明である」と。

越後騒動は、養子候補として、光長の甥・綱国(つなくに)、異母弟・永見大蔵長良(ながよし)、甥・掃部(かもん)大六(だいろく)の3人の候補の家臣団が争い、けっきょく、家老・小栗美作(みまさか)の推す綱国に決まったが、歿した嫡子・綱賢の家臣団が傍流に押しやられたことから不満が生じて、反美作派が形成されるという、おきまりのお家騒動に発展したものである。

福田千鶴さんの長年の越後騒動研究によると、松平結城系)一門である播磨・姫路藩主の松平直矩(なおのり)が当初、事を一門内で治めるべく調停役として奔走、その過程で大老・酒井忠清に依頼することがあったと。しかし、家臣団の対立がはげしく、けつきょく、将軍の採決をあおぐにいたった。

再審は、またも家臣団の上訴によったが、綱吉の決定は、関係者の切腹、流罪、預け、追放など。そして老藩主・光長と継子・綱国は預け、領地は収公というきびしいものであった。

それとともに、綱吉による人事一新のとばっちりが、酒井忠一族---とりわけ実弟・忠能へのいいがかりとなって現れたといえる。
権力者の交替時には、前の権力に近かった者は、よほどに警戒を要する。

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2007.07.10

酒井日向守忠能

2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]、同月23日[田中城しのぶ草(5)]に、田中城主のときに改易された酒井日向守忠能(ただよし)侯を紹介した。
この記述に関連して、〔みやこのお豊〕さんから、改易の原因を訊かれた。

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たまたま、福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)を借り出すことができた。著者の福田さんは上梓当時、東京都立大人文学部助教授をしていらして、ずっと伊達騒動と越後騒動にかかわった譜代名門・酒井雅楽頭忠清(ただきよ)関連の史料をあつめておられた。

それも、同著[まえがきiに、
「近年の歴史研究では一次史料の発掘が進められ、幕末に編纂された二次的な文献資料である『徳川実紀』などによって組みたてられ、通説化した史実の見直し作業が進められている。「下馬将軍」に象徴される酒井忠清像、常に彼の専制政治の引き合いにされる伊達騒動、越後騒動、宮将軍擁立説など、酒井忠清にまつわる話は、ほとんど二次的な文献史料に基づいて描かれたものである。真っ正面から酒井忠清にむきあうにつれても彼ほど実証的な検討を経ぬまま、ステレオタイプな専制政治家として描かれた人物はいない」
とある。

いや、一次史料から再検討を要する近世史上の人物は、酒井忠清にかぎるまい。田沼意次の再評価ははじまったばかりだし、松平定信も大きく見直さなければなるまいが、学界は、各種の事情から、定説の変更をしぶるかもしれない。

とにかく、いい史料がみつかったと、酒井忠清の実弟である日向守忠能の改易の原因となりそうなページを探したが、見つからなかった。

こんなふうに『寛政譜』を書きくだしたような文章であった。

忠清の弟忠能は、寛永五年(1628)に生まれ、同九年十二月一日に将軍家光に五歳で初目見えをすませ、同十四年一月四日に父忠行(ただゆき)の遺領のうち上野国那波・佐位、武蔵国榛沢の三郡の内において二万二千五百石の分知をうけた。同十八年八月、家綱の誕生の時には、矢取の役をつとめ、十二月晦日に従五位下・日向守に叙任された。同二十年に家綱付きとなり、三の丸の奏者番つとめた。正保二年(1645)八月八日に家綱の名代として日光山へ赴き、十二月十三日にも日光山代参をおこなった。慶安二年(1649)年四月、家綱の日光社参では前駆(さきがけ)役をつとめた(略)。

延宝七年(1679) 九月六日に小諸を改め、駿河国田中城に移され、駿河国志太(しだ)・益津(ましづ)両郡、および遠江国榛原郡などの郡内に一万石を加増されて、都合四万石となった。天和元年(1681)十二月十日所領没収となり、井伊直興(なおおき 近江彦根)へ預けられた。元禄元年四月十九日に赦され、同年八月十五日に廩米二千俵を与えられ寄合に列し(以下略)

---と『寛政譜』に新味も感情も考察もなにも加えない記述がつづく。これでは、『寛政譜』をじかに読むのと大差ない。

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忠能の改易までには探索の手がおよばなかったということであろうか。

忠清の役儀罷免は延宝8年(1680)12月9日である。隠居願いは翌年2月19日、病死は5月19日。
その7ヶ月後の忠能の除封である。
忠清が失敗した越後騒動が関係していたのではなかろうか。 『酒井忠清』ではそのことへは筆が及んでいない。

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2007.07.04

田中城しのぶ草(15)

書物奉行・中根伝左衛門がとどけてくれた、家康・秀忠時代の旗下(はたもと)・大久保甚左衛門忠直(ただなお)と息・荒之助忠当(ただまさ)の『寛永諸家系図集』の写しには、大久保家の概略も添えられていた。

それによると、大久保99家といわれるほど根をはっている一門の祖は宇都宮と名乗ったというから、東国武士の出だったのだろうか。
いつのころからか、三河へ移り住んで宇津を称していたという。
松平信光に奇縁で召しかかえられた。
それから4代を経て、五郎右衛門忠俊(ただとし)が大久保と改め、清康、広忠に任えた。
この忠俊の6番目の男子が忠直で、家康の麾下の武将。
田中城の定番(じょうばん)をまかされたのは69歳の老齢だったから、息・荒之助が副定番の格で助(す)けた。

その譜を目にしながら、長谷川平蔵宣雄は、じっと考えこんだ。

田中城は、その名のごとくに、田の中に川に囲まれて、ぽつんとある平城である。
平蔵の祖・紀伊守正長(まさなが)が、今川方の武将として、同族21名と配下300人を率いて守りについたときには、それほど強固な備えではなかった。
戦国末期には珍しい平城だったから、2万をこえる武田勢の城攻めを支えきれず、城を抜けて浜松の家康を頼った。
軍事に長(た)けた武田信玄は、田中城の地の利を一瞥で見てとり、三日月形の防衛堀と土塁を四方に築かせた。そのため、徳川方の幾度もの攻撃を耐えることができた。

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この防御効果は、守将・蘆田(依田)右衛門佐(えもんのすけ)信蕃(のぶしげ)と三枝(さいぐさ)右衛門尉(えもんのじょう)虎吉(とらよし)の防戦ぶりにみうる。

信玄は、平城である田中城に、戦乱が終わったあとの城のあるべき姿を予見していたのかもしれない。
この国から戦(いく)さが熄(や)んですでに150年が経っていることを、宣雄は実感した。
終焉させたのは、もちろん、信玄ではない。
信玄軍には、祖先・紀伊守正長を三方ヶ原で討たれてもいる。

信玄が重くみた田中城に、家康歿後の徳川方は定番として、息を副えたとはいえ、69歳の老将をあてた。もはや、戦いはないとみたのであろう。

「うむ。上つ方のお許しがでたら、ぜひにも、この目で確かめたいものだ」
機会は、13年後の安永元年(1772)の晩秋に訪れた。
京都西町奉行として赴任する途次、東海道の藤枝から枝道して観察することができたのだが、これは先の先の話。本多伯耆守正珍(ただよし)侯は存命であった。

宣雄は、大久保甚左衛門忠直の後裔である荒之助忠与(ただとも)へ手紙をしたためて、下僕に持たせた。
大久保忠与(1200石)の屋敷は、鉄砲洲築地の長谷川家から、それほど離れてはいない浜町蛎殻町にあった。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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