依田右衛門佐信蕃
察しのいい中根伝左衛門(書物奉行)は、三枝右衛門虎吉(とらよし)の将として田中城を守った武田方の蘆田右衛門佐信蕃(のぶしげ)「先祖書」も添えてくれていた。
もちろん信蕃は、家康の麾下に入ってから、信州の豪族たちを徳川方につけるために大いには働き、小諸岩尾城攻めのときに鉄砲玉2弾をうけて没している。36歳であった。
家康は、信蕃の労を多として、一族ほかの面倒をよく見た。
たとえば、信蕃の弟・源八郎信幸(のぶゆき)の次男・依田(よだ)平左衛門信守(のぶもり 500石)が立てた家では、豊前守政次(まさつぐ 800石)が、この6年來、北町奉行を勤めている。宝暦9年(1759)で51歳。 (依田一門の家門=丸三蝶)
信蕃の「先祖書」に、こんな記述があった。
田中城を大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に引き渡して一旦は春日城へ帰った。
そして、小諸城に武田方諸将の人質をとっていた織田方の森勝蔵長一(ながかつ)に会う。
森長一は、織田方にしたがうことを提案。しかし、信蕃は、人質を捨てても家康との約束をまっとうしたいと告げて去った。
このこと聞いた信長は怒りくるい、信蕃を殺せと命ずる。
家康に、しばらく身を隠して時節を待つようにとさとされ、かつて守ったことのある遠江国二股城の川上の小川にひそんていると、本能寺の変がおきた。
家康一行が、本多平八郎忠勝(ただかつ)の知勇ーなどで、やっと伊賀越えをしたことは、2007年6月13日[本多平八郎忠勝の機転]に6日にわたって詳報した。このとき、家康は、苦難の道中にもかかわらず、伊賀者を信蕃の隠れ家へ先行させ、信長が歿したゆえ、もはや生命の心配はなく、岡崎城で会おうと伝言。
岡崎城で待っていた信蕃は、家康の意を受、すぐさま甲信の国境に旗をあげ、たちまちに3000余の人数を擁して、反抗する10数の城を陥した、と。
この挿話からも、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、信長と家康の資質の差、人を信服させる徳の違いを読み取った。
このことも、息・銕三郎(てつさぶろ のちの平蔵宣以 のぶため)へ引き継ぐことにした。
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