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2007.07.12

田中城しのぶ草(18)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、書物奉行の中根伝左衛門が好意でとどけてくれた、三枝家(さいぐさ)が呈した「先祖書」の写しを眺めている。

銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)を、駿州・田中城下へ旅立たせてから3日目の夜である。
第1夜は、江戸から8里(32km)、保土ヶ谷宿の本陣・刈谷清兵衛方へ宿泊したはず。旅籠代は、先発した小者の六助が預けているから、そっちの心配はない。
私用の旅にわざわざ本陣を選んだのは、こういう際に格式というものを学ばせるためである。
旅に旅籠代をけちっては、こちらの品格を低くふまれる。

第2夜は、江戸から20里の小田原宿で、宮の前の本陣・保田利左衛門方で草鞋を脱いだはず。

このところ、江戸は雨の気配がない。東海道もそうであろう。今日は、箱根を無事に越えて、三島で、本陣・樋口伝左衛門方でくつろいでいるであろう。
もし、雨の気配があったら、無理をしないで、小田原でもう一泊するようにいってある。

宣雄は、銕三郎のことを頭からはらって、三枝家「先祖書」に集中した。
織田方の将・蘆田右衛門左信蕃(のぶしげ)の下で、田中城を守備していた三枝右衛門寅吉(とらよし)とその息・平右衛門昌吉(まさよし)は、けっきょく、家康の勧めでら説得にきた大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に開城した。

問題はその後である。
織田信長は、武田の武将たちを生かしておくなとの令を下した。
虎吉は、昌吉とともに、大久保忠世が手配した、駿州・藤枝の東雲寺に身をひそめたが、それでも危ないというので、伊勢国へ隠れた。

天正10年(1582)6月、信長の本能寺での自刃という急変があり、本多弥八郎正信(まさのぶ)と大久保新十郎忠隣(ただちか)から奉書が届けられ、相良で家康に会って、ようやくその麾下となることをえた。

宣雄は、駿州・益津郡小川(こがわ)の住していた一族で、武田方に従った者が、織田方の将にだまされて殺されていなければいいがと案じたものの、その結果は、本家から聞かされてはいない。

とにかく、信長という武将のはげしい性格と、家康の人を殺したがらない不思議な考え方を学んだ。

昌吉の息・勘解由守昌(もりまさ)は、松平大納言忠長(ただなが)卿に配された。
忠長が駿河国を領していたとき、田中城の城代をつとめたと「先祖書」にある。
卿の自裁後は陸奥国棚倉で蟄居していたが、召されて1万石をたまわり、与力10騎、同心50人を預かった。

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その末裔は、長谷川一門ではもっとも大身の久三郎正脩(まさひろ 4070余石)の納戸町の隣家・備中守守緜(もりやす)である。42歳。果たして、しのぶ集いに参加するであろうか。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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