« 田中城しのぶ草(14) | トップページ | 田中城しのぶ草(16) »

2007.07.04

田中城しのぶ草(15)

書物奉行・中根伝左衛門がとどけてくれた、家康・秀忠時代の旗下(はたもと)・大久保甚左衛門忠直(ただなお)と息・荒之助忠当(ただまさ)の『寛永諸家系図集』の写しには、大久保家の概略も添えられていた。

それによると、大久保99家といわれるほど根をはっている一門の祖は宇都宮と名乗ったというから、東国武士の出だったのだろうか。
いつのころからか、三河へ移り住んで宇津を称していたという。
松平信光に奇縁で召しかかえられた。
それから4代を経て、五郎右衛門忠俊(ただとし)が大久保と改め、清康、広忠に任えた。
この忠俊の6番目の男子が忠直で、家康の麾下の武将。
田中城の定番(じょうばん)をまかされたのは69歳の老齢だったから、息・荒之助が副定番の格で助(す)けた。

その譜を目にしながら、長谷川平蔵宣雄は、じっと考えこんだ。

田中城は、その名のごとくに、田の中に川に囲まれて、ぽつんとある平城である。
平蔵の祖・紀伊守正長(まさなが)が、今川方の武将として、同族21名と配下300人を率いて守りについたときには、それほど強固な備えではなかった。
戦国末期には珍しい平城だったから、2万をこえる武田勢の城攻めを支えきれず、城を抜けて浜松の家康を頼った。
軍事に長(た)けた武田信玄は、田中城の地の利を一瞥で見てとり、三日月形の防衛堀と土塁を四方に築かせた。そのため、徳川方の幾度もの攻撃を耐えることができた。

Photo_391

この防御効果は、守将・蘆田(依田)右衛門佐(えもんのすけ)信蕃(のぶしげ)と三枝(さいぐさ)右衛門尉(えもんのじょう)虎吉(とらよし)の防戦ぶりにみうる。

信玄は、平城である田中城に、戦乱が終わったあとの城のあるべき姿を予見していたのかもしれない。
この国から戦(いく)さが熄(や)んですでに150年が経っていることを、宣雄は実感した。
終焉させたのは、もちろん、信玄ではない。
信玄軍には、祖先・紀伊守正長を三方ヶ原で討たれてもいる。

信玄が重くみた田中城に、家康歿後の徳川方は定番として、息を副えたとはいえ、69歳の老将をあてた。もはや、戦いはないとみたのであろう。

「うむ。上つ方のお許しがでたら、ぜひにも、この目で確かめたいものだ」
機会は、13年後の安永元年(1772)の晩秋に訪れた。
京都西町奉行として赴任する途次、東海道の藤枝から枝道して観察することができたのだが、これは先の先の話。本多伯耆守正珍(ただよし)侯は存命であった。

宣雄は、大久保甚左衛門忠直の後裔である荒之助忠与(ただとも)へ手紙をしたためて、下僕に持たせた。
大久保忠与(1200石)の屋敷は、鉄砲洲築地の長谷川家から、それほど離れてはいない浜町蛎殻町にあった。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

|

« 田中城しのぶ草(14) | トップページ | 田中城しのぶ草(16) »

090田中城かかわり」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 田中城しのぶ草(14) | トップページ | 田中城しのぶ草(16) »