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2007.10.26

田中城しのぶ草(24)

「それで、酒井の先代どの、逝かれた父ごどのが、なにか?」
話の先をうながすように、長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)が聞きかけると、中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 書物奉行 廩米300俵)は、口にしかけた盃をそのまま膳へもどして言った。

「他言はご無用にお願いできますか?」
「無論です」
「かような他人さまの些事は墓場へ持っていくつもりでしたが---」
伝左衛門正雅は、こんなことを話した。

伝左衛門が大番の番士として柳営にあがったのは享和3年(1718 その時30歳)春であった。番頭(ばんがしら)はすでに13年も務めていた本多因幡守忠能(ただよし その時47歳 9000石)。鷹揚な人で、万事を与頭(くみがしら)3人にまかせきっていた。
その与頭の中でも先任の小尾(おび)庄左衛門武元(たけもと その時56歳 廩米450俵)は、上にも下にも受けのいい仁で、伝左衛門正雅の面倒もよくみてくれた。それというのも、小尾家は先祖が武田の庶流で、横須賀城の攻防では、伝左衛門の生家の本家筋の祖と、敵味方として槍をあわせた仲ということだった。そのように、ものごとをいいほうへ解する習癖のある陽気な徳の持ち主であった。

その庄左衛門武元が、3番組の番士・酒井兵左衛門正賀(まさよし その時39歳 廩米250俵)が言っていることは、いささか忌避にふれるから、聞いても聞き流すようにと耳打ちしてくれた。
酒井は、祖・茂兵衛正次(まさつぐ)が駿河城勤番の38歳の時、大納言(忠長 ただなが)卿をお諌(いさ)めしてお手討ちになったのに、お上は正次の忠心を、いっかな、お認めくださらないと、埒(らち)もない不服を言っているのだよ」

そのことは、伝左衛門が西丸の新番に就いたとき、同役となった酒井正賀の父・宇右衛門正恒(まさつね その時64歳)からも聞かされた。

「書物奉行となってから記録を調べてみると、酒井正次どのが38歳で卒したのは、忠長卿が駿河大納言として駿州50余万石を領される前の勤番時代とわかりました」
「なんのために、お手討ちなどと大仰なことを---」
「さ、そのことです。たぶん、里見北条以来の家柄なのに、扶持が少ないということを、遠まわしに言っていたのでしょう」
「すると---」
「そうです、本多伯耆守さまへも、訴えてみるつもりでしょうかな」
本多侯は、すでにご老中をお退きになった身---」
「もちろん、訴えたからといってどうなるものでもないことは百も承知の上で、愚痴をこぼしてみたいのでは---」
「本多侯としても、ご迷惑な話---」

宣雄は、長谷川久三郎(4000余石)の広大な屋敷へ向かうために逢坂をのぼりながら、71歳になりながら、まだ養子を取らないでいる、中根伝左衛門の、継嗣に先立たれた深い悲しみを思いやり、夜道よりも暗い気分になっていた。

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (25)


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コメント

中根伝左衛門や長谷川平蔵宣雄の時代には、幕府が所有していた幕臣の家譜は[寛永譜]しかなかった。

酒井宇右衛門正恒の[寛政譜]の個譜に、「実は駿河大納言」とあったので、その仁を[寛政譜]で当たってみた。

なんと、貞実は忠長が配流・自裁した時、禄を離れて処士(浪人)となり、家が絶えている。
忠長に配された多くの幕臣が、職を失い、処士となったのは、人生の運不運だが、正恒のように養子にいっても、絶家となった実家の不運を恨んでいたろう。

投稿: ちゅうすけ | 2007.10.26 17:11

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