青山八幡神社
長谷川銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)と供の太作は、藤枝宿の下伝馬町の本陣・青嶋治左衛門方で旅装を解いた。
駿府の西の丸子で、昼、名物のとろろ飯をとったとき、太助が気をきかせて、早飛脚を田中の城代家老・遠藤百右衛門へ走らせたので、宿に落ち着くと、百右衛門のほうから訪ねてきた。
40代半ばの遠藤家老は、前藩主・本多紀伊守正珍(まさよし)からの書簡により、14歳の銕三郎を正珍の使番のように、丁重にあつかった。
「幕府領と駿河大納言(忠長)さまのころの田中城代の銘々をお求めでございましたな」
「はい。旧家の長(おさ)どのや、ご藩主の華香寺などでお教えいただければ忝(かたじけ)のうございます」
ゆっくりと、確認するように話す遠藤家老の話を要約すると、先代(正珍)からの指示もあったから、前もって、田中藩主の菩提寺・蓮生寺の住職や村の名主などにあたってみたが、150年ほども昔のことゆえ、書付などもすぐには探せない。その者たちが口をそろえていうには、青山八幡宮の宮司・青山家ならば、大権現さま(家康)をはじめ、歴代の藩主・城代の献供をえているので、早く調べがつくのではなかろうか。
「長谷川どのが、ご先代のご名代として、明日にも訪問なされることは、宮司の青山主馬(しゅめ)どのへ伝えてあります」
「それは、なにより。これからでも参上いたしたいとぞんじます」
「使いを出しましょう。して、田中城へは?」
「明朝、一番に見上させていただき、その足で小川(こがわ)村へ廻りたいと---」
「一日お使いになる馬を、明朝、こちらへとどけておきましょう」
銕三郎は、用件を明日中にすまし、三島への帰りを1日早めることに集中している。
遠藤家老は、銕三郎のおもわくは知らないから、
「それはずいぶんとおいそがしいことでございますな。もちっと、西駿河の風情をお楽しみになればよろしいのに」
などと、世間並みのお世辞をいっている。
お芙沙に再会したい一心の銕三郎は、聞く耳をもたない。
「では、早速に---」
青山八幡宮は、八幡山の麓にある。本陣から4町と離れてはいない。
本陣からの使いは、すでに先発している。
遠藤家老の若い従者・鳥山五郎右衛門が付き添ってくれることになった。
岡部宿から藤枝宿への東海道の入り口にあたるあたりの右手に、青山八幡宮の一の鳥居が立っていたのを、往路に目におさめている。
(赤○=青山八幡宮 東海道すじ)
鳥居から山への石段にむかって、太作が丁寧に頭をさげたのも覚えている。石段は50段ほどに見えた。
その石段をのぼりきった広い台地に、拝殿と社務所があった。青山宮司の下の権禰宜(ごんのねぎ)が、書付を用意して待っていてくれた。
慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月- 幕領
城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月- 忠長領
城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月 幕領
城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの
用は一瞬にしてすんだ。書付は2通つくってあり、1通は鳥山五郎右衛門が受け取った。正珍侯へ急送されるのであろう。
(そういうことなら、清水をもう一泊ふやしてもよさそうな)
銕三郎は、お芙沙との3夜をおもっただけで、躰がとたんに熱くなったが、気配には出さず、権禰宜に礼をいって、石段をくだった。
笑みが自然にもれる。
鳥山五郎右衛門が、
(---?)
といった目つきで銕三郎を見た。
銕三郎は、さりげなくとぼけた。
「神社というところは、古い文書(もんじょ)の宝庫でございますね」
【つぶやき】
岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)では、藤枝の本陣・青嶋家は治右衛門となっているが、『藤枝市史 上』の治左衛門をのほうを採った。
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