田中城しのぶ草(23)
四谷裏大番町の酒井家を辞去した長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭 400石 役高1000石)は、思いついて、従っていた六助を、市ヶ谷船河原町・逢坂上横町の中根伝左衛門正雅(まさちか 71歳 書物奉行 廩米300俵)の屋敷へ先行させた。返事をもたらすための道筋を打ち合わせた六助は、灯の入った提灯を宣雄に渡した。
これから訪ねていいかを伺わせるのである。
この日訪ねた酒井宇右衛門正稙(まさたね 38歳 大番 廩米250俵)の『寛永譜』の写しをくれたのも、伝左衛門正雅であった。
正雅は、享保3年(1718)から11年(1726)に西城の新番へ移るまで---ということは、30歳から8年間、本丸の大番をつとめていた。
酒井正稙が大番組へ出仕したのは、中根正雅が新番組へ思ったが、先夜のお礼ね兼ねて、と思ったのである。
四谷裏大番町から逢坂上横町へまわると、築地・鉄砲洲への自宅へはいささか遠まわりになるが、いざとなったら、先夜、銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)にそうさせたように、御納戸町の同族・正脩(まさなり 長谷川久三郎 4070石)のところに造作をかければいい。
いい季節で、暮れた夜道の微風が心地よかった。
六助とは市ヶ谷門外で出会えた。
「中根さまは、お待ちしていると申されました」
「またまた足労だが、御納戸町の長谷川へ行って、今夜遅くに泊まりたいと告げ、それから築地へ帰って、奥へそう伝えてくれい」
「かしこまりました。随分とお足元にお心づかいを---」
そういって、六助は腰の包みから蝋燭をだして、提灯の灯を替えた。
中根伝左衛門が気をきかせて持たしたらしい。
中根伝左衛門は、門扉を開き、高張り提灯2基に灯をいれて待っていてくれた。
「まるで花嫁でもお迎えになるようで、ご近隣衆がなにごとかとお驚きでしょう」
「なに、そう思わせておけば、華やぐというもの」
中根家は、間口は6間とさほどでもないが、奥がその10倍も深かった。
「奥方どのは?」
廊下を案内されながら、宣雄が訊いた。
「10年も前から、鰥夫(やもめ)でござって---」
「存じぜぬこととはいえ、失礼をば---」
「なになに、うじにお気をおつけなされよ」
下(しも)の者にいいつけたらしく、酒が用意されていた。
「ご高配をたまわった酒井宇右衛門どののことですが---」
「酒井どのがどうかしましたか?」
「本多侯のお招きを、あまりにあっさりとお受けくださったので、はて---と」
「うーむ。やはり、な」
「なにか、お心あたりでも?」
「いや---」
「お差支えなければ---」
「その、お尋ねの宇右衛門正稙どのことは、じかには存じませぬ。なれど、父ごの兵左衛門正賀(まさよし)どのとは大番時代に、あちらは3番組、こちらは4番組でした。
「それはご奇縁」
「奇縁はも一つありましてな。先代・宇右衛門正恒(まさつね)どのとは、そのあと、西丸の新番でごいっしょになりまして---」
「先代といわれましたか?」
「これは失礼。父ごの正賀どのは、先に逝かれましてな」
「すると、正稙どのは、正恒どののお孫?」
「さよう、さよう。お渡しした酒井どのの『寛永譜』の写しを眺めているうちに、あれこれ思い出しました」
宣雄に酌をし、自分の盃も満たしたあと、遠くを見つめるような目に微笑をうかべた。
「西丸では、高井飛騨守さまの組にあちらも---」
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (24) (25)
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