田中城しのぶ草(19)
長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)は、先刻より、息子の銕三郎が藤枝宿の青山八幡宮からもらってきた、徳川幕府初期の田中城代の名書きを見つめている。
慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月- 幕領
城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月- 忠長領
城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月 幕領
城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの
いまは芝双葉町の下屋敷に逼塞している、つい先年まで田中藩の当主だった本多伯耆守正珍(まさよし)侯の発案で、田中城代の末裔たちが寄って、一夕、月見の宴を設けることになった。
その呼びかけ先と、参加の意志の有無の確認を、宣雄が確かめることになっていたのである。
伯耆守正珍侯は、郡上八幡藩の農民一揆の処置を手ぬかって、老中を罷免させられ、藩主を引退・逼塞の身の上であった。
名書きにある一家---大久保忠直(ただなお)・忠当(ただまさ)の末、荒之助忠与(ただとも 48歳 目付 1200石)からは、不参加の返事がきていた。
理由として、逼塞を命じられているお方の屋敷を、目付の職にあるものがお訪ねするわけにはいかない、という筋論が記されていた。
参照:2007年7月3日[田中城しのぶ草](14)
2007年7月4日[田中城しのぶ草](15)
2007年7月5日[田中城しのぶ草](16)
その旨を本多侯に告げると、侯は苦笑まじりに、
「さても、譜代の身で、背骨(はいこつ)の弱い仁よのう。主殿(とのも 田沼意次)の鼻息をうかがうとは」
郡上八幡藩の農民一揆の関係者の処分は、それまでになくきびしいものであったが、それも側御用の田沼意次が幕府評定所へ異例の出座をして推しすすめた裁決であった。
非番のこの日、宣雄は、あらかじめ都合を伺っておいた三枝(さいぐさ)家を訪問し、当主の備中守守緜(もりやす 寄合 41歳 6500石 )に面接した。
三枝家の屋敷は、長谷川家の親類筋にあたり、御納戸町に屋敷がある長谷川久三郎正脩(まさむろ 4070石)の隣家だった。
(加賀屋敷町の三枝邸=緑○)
つい先だっても訪問していた。
用向きを述べると、じっと宣雄から目をそらさず、
「いまはお役についてはいませぬが、中奥の小姓の時分には、ずいぶんと主殿頭(とのものかみ)さまにはお目をかけていただきました。手落ちをしたときにもかばってくださったこともあります。それだけに、あのお方が裁決なさってご蟄居中の本多侯のお招き、せっかくではありますが、ご遠慮させていただきましょう」
参照:2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸](2)
2007年6月19日[田中城しのぶ草]
2007年6月26日[田中城しのぶ草](8)
宣雄は、世の中の常識というものであろうと、思った。
その常識に反したようなことをしている自分は、よほどのへそ曲がりなんだろうか、と帰り道に自問してみたが、
「違う」
つい、声を出してしまった。
なにが違うのか。
(本多正珍侯は、それほどの悪事をなさったわけではない。ちょっとした手ぬかりだったともいえる。あの処罰のほうが常識はずれだ。田沼さまとしたことが、本多侯には、やりすぎをなさった、そして、門閥派の恨みをお買いになった)。
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
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