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2007.06.20

田中城しのぶ草(2)

「父上。上首尾でございました」
平蔵宣雄(のぶお)が下城してくると、待ち構えていた銕三郎が、奉書紙をさしだした。
「おお、ご苦労であった。されど、銕三郎。いま申した上首尾と申す言葉は、自らの仕事につけるものではない。父が見て、その上で与える褒辞である。以後、注意するように」

銕三郎に命じたのは、縁者の永倉家へ行って、武鑑を見せてもらい、駿州・田中藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)の項に併記されている、歴代の田中藩主を書き写してくることであった。

・駿河大納言忠長卿         寛永2年(1625) 持ち
松平大膳亮忠重(ただしげ)    寛永8年(1631) 3万石
水野監物忠善(ただよし)      寛永12年(1635) 4万5000石
松平伊賀守忠晴(ただはる)    寛永19年(1642) 2万5000石
北条出羽守氏重(うじしげ)     正保 1年(1644) 2万5000石
西尾丹後守忠昭(ただあきら)   慶安2年(1649) 2万5000石
  〃 隠岐守忠成(ただなり)    (世襲)
酒井日向守忠能(ただよし)    延宝7年(1679) 4万石
土屋相模守政直(まさなお)    天和2年(1682) 4万5000石
太田摂津守資直(すけなお)   貞享1年(1684)  5万石
・ 〃 熊次郎             宝永2年(1705) 6万5000石
内藤豊前守弌信(かずのぶ)   宝永2年(1705) 3万5000石
土岐伊予守頼殷(よりたか)    正徳2年(1712) 3万5000石
・ 〃 丹後守頼稔(よりとし)    正徳3年(1713) (世襲)
・本多伯耆守正(まさのり)    享保15年(1730) 4万石
・ 〃  〃   正珍(まさよし)     (世襲)

「うむ。これまでは上首尾---であった。したが、銕三郎。ご苦労だが、あす、も一度、桜田百姓町へ行ってもらはねばならぬ」
「なにか、不首尾が?」
「そうさな。銕三郎は、きのう、本多伯耆守侯のところに同席していたな」
「はい。この上もなく名誉に感じておりました」
「では、その時の、伯耆守侯のお言葉は覚えておろう」
「はい」
「田中城しのぶ講---と仰せられたはず」
「さように心得ております」
「なれば、必要とされているのは、すでに物故されている方々ではなく、そのご子孫の現存の方々の名簿だな」
「あっ」
「明日、調べてまいれ」

宣雄は、この念押しを、わざとはずしておいたのである。
銕三郎が、どこまで先まわりをして、こなすかを試した---というか、実地に教えた。

もし、先読みして、しのぶ講の招待者の名簿まで調べて差しだしたら、こう諭(さと)したはず。
「主人の意図を先読みするのはよい。しかし、それを誇ってはならぬ。招待予定者の名簿は、つくっていても、主人から催促されたあとに、さようでございましたか---と謝って、翌日、差しだすほどでちょうどよい」

知恵誇りは、いつの世の、どんな上司も、好まない。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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コメント

>知恵誇りは、いつの世の、どんな上司も、好まない<

心得ました!

投稿: みやこのお豊 | 2007.06.20 10:50

諸葛亮孔明も、呉(楊州)の孫権に命をねらわれました。
黒田如水も、羽柴筑前守秀吉に、生かしておいては自分が危ないと、危険視されました。

先が見えすぎるのも、考えものです。
見えすぎても、口にしてはいけないのですね。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.21 14:04

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