田中城ニノ丸(5)
この[田中城ニノ丸](2)に、宮城谷昌光さん『新三河物語 中』(新潮社 2008.9.20)から、天正10年(1582)2月、家康が甲州鎮圧にむかったとき、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 48歳)は駿河に残り、3月、田中城で篭城していた依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ 35歳)の開城に立ち会った条を引用した。
ここでは、その前段を、いささか長めに引かせていただく。
大久保勢は、家康に随従して甲州へむかった忠隣(ただちか)に従った兵と留守した忠世に属(つ)いたものとにわかれた。平助(のちの彦左衛門忠教 ただのり 23歳)は忠世の近くにいたので、
「田中へゆく。ついてまいれ」
と、いわれ、あわてて腰をあげた。
すでに田中城の信蕃は穴山梅雪の親書をうけとっている。大井川を越えて田中の城を遠望した忠世は、
「のう、平助、この世には盛者必衰の理かあるとはいえ、いまや、遠江と駿河のなかで武田の城として遺っているのは、あの城のみぞ。恐ろしいことよ」
と、既嘆した。
「いつか、徳川の城も、遣るは二俣城のみ、と天竜川を渉る者にあわれまれる時がくることを危怖なさいますか」
「やや、平助の□は、われの想いより、なおさら恐ろしい。徳川家が滅ぶ時などは、夢にも想わぬ」
と、忠世はゆるやかに首をふった。
「唐土では、殷王の時代が六百年もつづき、周王の時代が八百年もつづきましたが、それでも滅びました。徳川家だけが、盛者必衰の理をまぬかれるのでしょうか」
と、嘆息をした忠世は、徳川の家もいつか衰亡するのであろうな、といった。
「天下にとって、悪であり害であるがゆえに、滅ぶのです。そのとき天下万民の敵となる者の城が、難攻不落では、万民が難儀をするという考えかたがあります。あえていえば天下を主宰する者は、そういう城を築いてはならぬのです。田中城をごらんになるとよい。こういう事態になって、その城は、守る者と攻める者を同時に苦しめつづけている。この城を最初に築かせた信玄の失徳のあらわれです」
目をみはった忠世は、馬上で感じたおどろきを天にむかって吠笑にかえた。 「ぬかしたな、平助。だが、なんじのいう通りかもしれぬ。われは二俣城の修築をやめ、城下を富ますことにする」
田中城を補強するにあたって、武田方が、周辺の住民に重い苦役を課したことを、宮城谷さんは推察している。
信玄が愛読したといわれる『孫子』[作戦篇]に、智将は務(つと)めて敵を食(は)む」とある。
歴史書は書かないが、信玄も、そうしたろう。
(本多家時代の田中城図 青〇=ニノ丸 藤枝市郷土博物館刊)
「人は城、人は石垣、人と濠(ほり)、情けは味方、讎(あだ)は敵---は、味方に益したろう。
支配地は、人で城、人で石垣、人で濠掘りでなかったか、と平助はおもっている。
しかし、正珍にそれを言っても甲斐なかろう。
(本丸跡に建った益津小学校前庭の箱庭の田中城)
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