田中城ニノ丸
「銕(てつ)は、先日の初見の衆のうちで、柴田岩五郎勝房(かつふさ 17歳 3200石)どのを覚えておるか?」
夕飯のとき、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の組頭)が話しかけた。
杯を置いた銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、
「はい。初々(ういうい)しい若者とおもいました」
初見以後、父の配慮で夕食に、銕三郎だけには1合きりだが、酒がつくようになった。
「後見役をなされていた坂本美濃どのはどうじゃ?」
「しかとは---」
「勝房どのは、坂本家から柴田家への、末期養子であった」
(柴田岩五郎勝房の個人譜)
(勝房の実家・坂本家での系譜 緑○=勝房 黄〇=直富}
strong>柴田家は、織田右府(信長)の重臣・柴田修理亮勝家(かついえ)の本筋の家柄である。
秀吉との後継者争いの戦いに敗れた勝家は、越前・北ノ庄で自害したが、幼少の孫・権六郎が落ち延びて、外祖父・日根高吉にかくまわれた。
家康が見出し、2000石を与えて臣下にした。
養子・岩五郎勝房は、勝家からかぞえて10代目にあたる。
「後見役をおつとめになっていた坂本美濃どのは、勝房どのの兄者にあたる。柴田家は、8代目、9代目が若くして逝かれたために、美濃どのが親代わりをなされたということだ」
坂本美濃守直富(なおとみ 36歳 1700石)は武田系だが、家重(いえしげ)つきであったので、その急死とともに任を解かれて寄合となっていた。
養父・小左衛門直鎮(やすしず 小姓組番士 51歳)は、このところ健康がすぐれなかった。
「じつは、美濃どのから、銕ともども、ご招待を受けた」
「それは、それは。いつでございますか?」
「松がとれた、16日---」
「年があけてからでございますか。して、お屋敷は---?」
「近い。林町5丁目じゃ」
「ああ、5丁目も、竪川(たてかわ)ぞいの東角のお屋敷です」
「存じておったか?」
「はい。父上のご登城の道からはずれております」
「うむ」
「しかし、なにゆえのご招待でございますか?」
「さあ、それじゃ」
宣雄の説明によると、武田の家臣であった坂本家は、勝頼公の歿後、東照宮さまに召され、駿州・田中城のニノ丸を守っていたという。
【ちゅうすけ注】『寛政重修諸家譜』にも、そう記されている。
貞次(さだつぐ)
兵部丞 豊前 母は某氏
信玄及び勝頼につかへ、駿河国田中城を守る。天正10年(1582) 武田家没落ののち、めされて東照宮に拝謁し、田中城の二の丸を守り、山西の御代官つとめ---(後略)
「それで、われが田中城の前のご城主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯のご隠居所へご機嫌伺いに参上していることをお耳にされたらしく、折りをみて、いっしょさせてくれとのご所望であった」
「やはり、なにかの下ごころがあってのお招きと推察しておりましが、そういうことでございましたか」
「とはいえ、本多侯は、ご老中を罷免され、隠居のおん身になられて10年の歳月を経ておる。柳営でのお力はもうなかろう」
「それでは、たんに懐かしいだけと---?」
「いや。人の気持ちは読めたようで読めない。ま、馳走になってみようではないか」
(田中城とその周辺の模型 藤枝市郷土博物館「田中城と本多氏」より)
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
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