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2007.06.23

田中城しのぶ草(5)

本多どの。下城を共に---」
熟慮の末、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は桧(ひのき)の間から下がりながら、本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石 小十人組の6番組頭)に声をかけたのは、酒井河内守忠佳(ただよし 74歳。5000石)にこだわりはじめてから、数日後のことあった。

本多紀品の屋敷は、番町を東西に貫らぬいている表六番町(現・三番町7 九段小学校向かい)にある。
Photo_389
(近江屋板 番町。赤○=表六番ぞい本多家)

幕臣の屋敷の塀ばかりが並んだ閑静な区域だが、下城の時刻には挟箱を小者にかつがせた裃(かみしも)姿が目につく。
宣雄は部屋を借りて、挟箱から出した羽織と仙台平袴の代わりに裃を入れ、小者に持たせて返した。

くつろいだところで、酒井日向守忠能(ただよし)侯の田中城収公のほんとうの理由をご存じであれば、お教えいただきたい、と切り出した。
長谷川どのは、酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清(ただきよ 忠能の実父)大老が、厳有院殿家綱)さまの継嗣に京の有栖川(ありすがわ)宮家から親王をと唱え、常憲院殿綱吉)さまを推す堀田備中守(のち筑前守)正俊(まさとし)侯とあらそったという風評をご存じかな」
「いえ」
「単なる風評にすぎないが、その後の常憲院殿さまの忠清侯忌避のあしらいを見ると、まんざらでもないとおもえる。いや、事実は逆で、あしらいから生まれた風評だと存ずるが---」
「それと、忠能侯とは---」
忠清侯は、常憲院殿さまから大老を解職され、その5ヶ月後に卒せられた。在職中のよろしからざるくさぐさに司直の手がのびたと判断され、政敵の裁きを受けるのをこころよしと思われなかったのか---」
「まさか、自裁なされた---」
「その、まさか---だと、常憲院殿さまの派は疑い、いくども検屍を求めたが、酒井家は頑強にお拒みになった。その真っ先にお立ちになっていたのが、日向守忠能侯であったともいわれている」
「なんとも、お傷(いたわ)しいきわみ」
「取り潰しにあった諸侯と幕臣の数も多いが、理由は、規則に違反というのがほとんど。規則などというものは、解釈次第でどうにでもなるもの。それを言いだされたら人間全部が違反者でござろう」
「----」
「いまだからいえるが、常憲院殿さまのご気質には、なにか、偏執的なものをかんじないでもない」
「----」
「いや、口がすべり申した、お耳になされなかったことに」
「申されるまでもなく---」

「酒井河内守忠佳どのをしのぶ講からはずす件、承った」

宣雄は、帰りながら、暗い気持ちにひたっていた。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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090田中城かかわり」カテゴリの記事

コメント

本多伯耆守正珍(まさよし)侯は、本多家の田中城主としては2代目ですが、これから約100年間、明治まで田中城主でありつづけます。

本多家と入れかわりに沼田城主となった土岐家もそう。

この頃から、はげしい国替えは、大名家の財政がもたなくなつて、幕府も考えを変えたかな---って予見していますが、もうすこし、ほかの藩もあたってみないと、結論づけられません。

鬼平を突き詰めていくと、こういう、素人発見ができるのがうれしいですね。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.24 13:56

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