田中城しのぶ草
家康の伊賀越えのときの本多平八郎忠勝(ただかず)の機転と勇気をめぐる四方山を話し終わると、伯耆守正珍(まさよし)侯は、酒の用意をいいつけた。
「おお、銕三郎どのには、駿河国の銘茶を、な」
「お手数をわずらわせまする」
父親の平蔵宣雄(のぶお)が恐縮した。
「さてと。わが父・正矩(まさのり)が沼田から田中へ転封を命じられたのは、享保15年(1730)の7月で、予が21歳の、残暑のきびしい中の引越しであった。
わが藩と入れかわる形で、田中から沼田へ移られたのは土岐丹後守頼稔(よりとし 3万5000石)侯だが、いまの当主は田中生まれの息・美濃守定経(さだつね 32歳)侯じゃ。
侯の参府は12月じゃから、いまはご在府のはず。
先方のたしか寺田とか申した家老と、わが藩の家老・遠藤嘉兵衛が、転封のときにしばしばうちあわせておったゆえ、話が通じるのは早かろう」
「あ、亀(田中)城しのぶ講は、ほんとうにおすすめになられますか」
「とうぜんのこと。隠居蟄居の身にも、それぐらいの楽しみはあってしかるべきであろう」
「まさに」
「武田時代に守城なされておりました三枝(さいぐさ)右衛門尉(えもんのじょう)虎吉(とらよし)どののご子孫には、先日(2007年6月1日)ご面識をいただいておりますので、ご意向を伺います。
三枝どのから、守将であった依田右衛門佐(えもんのすけ)信蕃(のぶしげ)どののご子孫は、加藤とかに姓を変えて、どこやらの大家へお仕えとか聞いたような---。
これも、つぎまでに問い合わせておきます」
「うむ。こちらも、城代・遠藤百右衛門にいって、徳川の世になってからの、代々の城主を書き出してもらっておこう。
それはそれとして、長谷川どののご先祖が、小川(こがわ)城から徳一色(のち、田中と改称)城に入ることになったのは、織田右府どのの桶狭間急襲で、今川義元どのがお討たれになったとき、随陣していた徳一色城主・由井山城守どのもともに討たれたと承知しているが、そのご子孫は---」
「そこまでは、伝えきいてはおりませぬ。
したが、手前が西丸・書院番士を勤めておりました折り、別の組に由井治右衛門忠政(ただまさ 稟米300俵)と申される仁がおられました。お勤め中、若くて卒されましたが、相続なされたお方をさがしてみることにいたします」
「銕三郎。明日、ふたたび、桜田百姓町の永倉の屋敷へ参り、武鑑lをたしかめて参れ」
茶で丸干しをかじっていた銕三郎は、あわてて丸干しを皿へ置き、隣の佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)へ向けて、かすかに笑った。
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
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コメント
mixiというSNSで、[駿州・田中城研究]コミュニティを立ち上げました。
これまでこのブログで発表した記事のほかに、これからは、地元の人の声を取り込んで、おもしろサイトをつくっていきたいと念じています。ぜひ、ご参加ください。
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.19 18:55
「駿州・田中城研究]コミュニティに参加しました。
地元の方から当地に伝わる生の話がきけたらいいですね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.19 22:20