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2007.06.18

本多平八郎忠勝の機転(6)

迯祠『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3] (承前その2)

「田中城ゆかりの家々が相つどうて、先祖話に興じるのもおもしろかろうな」
本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・前田中藩主 4万石)が、思いつきを口にだしたとき、まっ先に賛意をのべたのは、本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石 小十人組頭)だった。
「ご隠居どの。某(それがし)は、田中城にはじかには関わりはございませぬが、書役(しょやく)ということで、一手かませていただきたく---」
「手前も、書役・本多さまの助役(すけやく)にて、ぜひぜひ」
佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)までが、膝をのりだした。

伯耆守さま。これは、もしかすると、田中党の結成ということで、お上のご禁制に触れるやも知れません」
長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、冗談めかして、それとなく手綱を引いた。゜
「なにが徒党結成なものか。鯛のから揚げを食するために集まるのではない。出るのは丸干しじゃ」

伯耆守正珍がいった〔鯛のから揚げ〕とは、元和2年(1616)1月21日、駿府城で〔鯛のから揚げ〕を賞味して、近辺へ放鷹に来た家康が田中城に宿泊中に腹痛に苦しみ、その3か月後に75歳でみまかったことを皮肉っている。

いや、家康の鷹狩りから34年前、きょうの芝二葉町の中屋敷の集まりからは157年昔の、本筋へ戻そう。

家康の一行は、河内国交野郡の尊延寺村を真東へすすみ、山城国相楽(あいらくこおり)山田村へきている。

(さきに長谷川竹丸(のちの秀一)が使いを出して案内をこうておいた、大和の(豪族)十市(とおち 常陸介から)、あない(案内)にとて吉川といふ者を進(まい)らせ、三日には木津の渡りにおわしけるに舟なし。
忠勝鑓さしのべて柴舟二艘を引よせ、主従を渡して後、鑓の鐏(いしづき)をもて二艘の舟をばたたき割て捨て、今夜長尾村八幡山に泊り給ひ、四日石原村にかかり給へば、一揆起こり手道を遮る。

忠勝等力をつくしてこれを追払ひ、白江村、老中村、江野口を経て呉服明神の祠職服部がもとにやどり給ふ。

五日には服部山口(光広 郷ノ口・小川城主)などいへる地士ども御道しるべして、宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ、御供の人々いかがせんと思ひなやみし所、川中に白幣の立たるをみて、天照大神の道びかせ給ふなりといひながら、榊原小平太康政馬をのりめば思ひの外浅瀬なり。
其時酒井忠次小舟一艘尋出し、君を渡し奉る。

やがて江州瀬田の山岡兄弟迎へ進(まい)らせ、此所より信楽までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども、山岡服部御供に候すれば、山賊一揆もをかす事なく信楽につかせたまふ。

ここの多羅尾何がしは、山口(の実家)、山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ、高見峠より十市が進(まい)らせたる御道しるべの吉川には暇給はり、音聞(御斎 おとぎ)峠より山岡兄弟も辞し奉る。

(「多羅尾何がし」は、ひどい表現だなあ。仮にも、家康一行が一宿一飯にあずかり、のちに幕臣にとりたて、『寛政譜』にも載っている家柄である。
_100_2これは、多羅尾家が甲賀忍者あがりであることを、 『実紀』をまとめた林家系の人たちが蔑視して書いたとしかおもえないのだが。
そういえば、多羅尾家の家紋---牡丹もめったに見ないもの。忍者説もまんざらではなさそう)。

去年(天正9年 1581)信長伊賀国を攻られし時、地士ども皆殺するべしと令せられしより、伊賀人多く三(河)遠(江)の御領に迯(にげ)来りしを、君(家康)あつくめぐませ給ひしかば、こたび其親族ども此恩にむくひ奉らんとて、柘植村の者二、三百人、江州甲賀の地士等百余人御道のあないの参り、上柘植より三里半鹿伏所(かぶき)とて、山賊の群居せる山中も難なくこえ給ひ、六日に伊勢の白子浜につかせ給ひ、其地の商人角屋といへるが舟もて、主従この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。

『実紀』は、いささか、急ぎすぎているようだ。『武野燭談』から現代語に直して、引く。

多羅尾郷へ向かわれた。
多羅尾の何某は大いに喜んで、「どうぞ、わが館でお休みくださいますよう」と申しあげた。
酒井直政などの重臣たちは多羅尾を疑い、「このあたりは敵国の範囲でもあり、人の心は見抜けないものです。いかがなものでありましょう?」といったとき、忠勝が進みでて、
「堺を出てから今日で3日目。すでにみんなの腰兵糧のほかに口にすもるものも尽きかけており、たいへんに難儀な状態です。
多羅尾にもし逆心があれば、この家に入り給わずとも、逃がしはしないでしょう、そうなりますと、われわれは、このように疲労困憊しており、思うようには立ち向かえませぬ。
しょせん、多羅尾の馳走を受け、人馬ともにお休みになってはいかがでしょう。
万一、多羅尾がなにかたくらんでいたら、この忠勝が彼を捉えてきちんと始末しますから、お気づかいなく、お休みください」
平八郎の言、もっともである」

家康多羅尾の館へお上がりになって、もてなしを諒とされ、みんなもここまでの疲労をいやした。
家康からは多羅尾(四郎右衛門光俊 みつとし)に短刀を下された。

多羅尾家の『寛政譜』を掲げておく。
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(赤○=伊賀越えを警護)

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(当主・光俊の3男。のち1500石を知行)

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コメント

『武野燭談』の逃避行コースに記されている、音聞峠は、多羅尾郷からの御斎(おとぎ またはおときとも)峠とわかって、ほつとしています。

この御斎峠、司馬遼太郎さん『梟の城』(新潮文庫)のとっぱなの舞台です。『街道をゆく』(朝日文庫 第7巻)では再訪。ただし、家康逃避行のことは書かれていません。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.18 16:00

ある歴史的事件に居合わせた人物、それぞれの伝記に分散している記述を再合成してその事件の全体像を構成してみる、という意味では、寛政譜は言うなれば紀伝体の史書のような性格があるのですね。

おそらく司馬さんが「項羽と劉邦」をお書きになるとき、漢楚の戦いの各事件を史記の各武将列伝などから再構成されたときに、類似の作業をなさったかと思います。その武将の子孫たちが集まって回想風に語る、というのは西尾先生独自のアイデアですが。

神君伊賀越えのあたりのはなし、そう考えると、鴻門の会の構図と似ているような気がします。

投稿: えむ | 2007.06.19 13:33

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