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2007.05.19

本多伯耆守正珍---心おぼえ

2007年5月14日[本多伯耆守正珍の勉強]に、正珍が老中になって2年目の延享4年(1747)8月15日の、幕閣を上げておいた。

その一部を、補筆・採録する。

・老中
 酒井雅楽頭忠恭(ただずみ 上州・前橋藩主 38歳 15万石
  のち姫路藩へ)
 西尾隠岐守忠尚(ただなお 遠州・横須賀藩主 59歳 3万5000石)
 堀田相模守正亮(まさすけ 総州・佐倉藩主 36歳 10万石)
 松平右近将監武元(たけちか 上州・館林藩主 35歳 6万1000石)
 本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 48歳 4万石)
・若年寄
 板倉伊予守勝清(かつきよ 駿州・相良藩主 42歳 2万石)
 戸田右近将監氏房(うじふさ 濃州・大垣新田藩主 44歳 1万石)
 加納遠江守久通(ひさみち 勢州・八田藩主 65歳 1万石)
 三浦志摩守義理(よしさと 三州・西尾藩主 52歳 2万3000石)
 秋元摂津守凉朝(すけとも 武州・川越藩主 31歳 7万石)

_150_1なお、本多正珍が老中を解任された、宝暦8年(1758)9月23日(『柳営補任』による)後---

・老中
 松平右近将監武元(たけちか 上州・
  館林藩主 46歳 6万8000石)
 堀田相模守正亮(まさすけ 総州・
  佐倉藩主 47歳 11万石)
 秋元但馬守凉朝(すけとも 武州・
  川越藩主 42歳 7万石)
 酒井左衛門尉忠寄(ただより 羽州・
  庄内藩主 55歳 12万石)
・若年寄
 板倉伊予守勝清(かつきよ 駿州・相良藩主 53歳 2万5000石)
 小出伊勢守英持(ふさよし 丹波・園部藩主 53歳 2万6000石)
 松平宮内少輔忠恒(ただつね上州・篠塚陣屋 39歳 1.2万石)
 酒井山城守忠休(ただよし 羽州・松山藩主 45歳 2万石)
 小堀和泉守政岑(まさみね 江州・小室陣屋 69歳 1万余石)
 水野壱岐守忠見(ただちか 房州・鶴巻藩主 29歳 1万5000石)

このリストに、就任年月日を付け加えると、本多因幡守正珍の罷免を待っていたような新老中がわかる。
10月18日付で、京都所司代から転じた松平右京大夫輝高(てるたか 上州・高崎藩主 34歳 7万2000石)である。この仁はのちに、いささか欲もからんだ絹改メ会所を新設しようとして、二重課税だとの一揆を誘発、あわててひっこめた。

それよりも、たしか、ここの藩士とおもうのだが、三木忠大夫忠任の娘を、平蔵宣雄が養女とした。平蔵宣以の次妹として『寛政譜』に載っている。高崎市教育委員会に問い合わせたが、三木忠任は主だった家臣リストに載っていないとの返事だった。

郡上八幡の一揆の件で若年寄を罷免になったばかりか、封地召し上げの上、あずけとなった若年寄・本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万石)の後任が、水野一門の壱岐守忠見(ただちか 房州・鶴巻藩主 29歳 1万5000石)である。
水野一門の増殖ぶり(分家の多さ)には目を見張る。つまり、覇権志向の強い家柄だった。

【余談】老中・酒井忠寄の庄内藩が、藤沢周平さんの海坂(うなさか)藩もののモデルである。

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コメント

ああ、しんどかった。1人ずつ、『寛政譜』から名のよみかた、年齢、藩、石高を拾い出すのに、6時間もかかった。

半分ほどの人の一門の『寛政譜』はA3シートにしてあるのだが、索引をつくっていないので、どのホルダーに入れたかがわからなくて、手間どったこともある。

暇を見て、ホルダー別の索引をつくらないと、せっかくの史料が生きない---ということを自覚した6時間だった。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.19 15:49

お疲れ様でした。
索引の作り方講座でご教示くださるというお話でしたが、ご指導いただけないままで講座が終了してしまいましたので沢山の資料の有効なファイリング法に私は今試行錯誤しています。

残留している老中や昇進している若年寄りは一揆に無関係という事になりますね。

水野家が多いのですか、酒井家が多いのかと思ってました。

藤沢周平の海坂藩は庄内藩をなぞっているのでしょうか、酒井家もモデルになっているのかなとふと思いました。

投稿: みやこのお豊 | 2007.05.20 02:04

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