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2007.05.18

本多伯耆守正珍の蹉跌(その4)

老中を罷免された本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)が蟄居している、芝二葉町の中屋敷へ、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、話相手として訪問しているシーンを想像した。

正珍は、49歳、宣雄は、36歳。
話題は、武田信玄軍から「家康にすぎたるもの二つあり。唐獅子頭と本多忠勝」とはやされた、本多家の祖・平八郎忠勝にまつわる武勇譚がほとんどであった。

信州と遠州の国境、青崩(あおくずれ)峠を越えて南下してきた武田軍2万5000が元亀3年10月14日に袋井へ入ってきた。
家康方からも本多忠勝などの小部隊が偵察に出、三ヶ野川で遭遇し、もちろん敗走。
殿(しんがり)をつとめた忠勝は、なんども踏みとどまっては抵抗を試みた。その戦いぶりの凛々しさを武田勢がほめたのである。
徳川勢が無事に天竜川を渡りきれるように、視界をくらますために見付の町衆が民家に火をつけて援護した(この功で、のち、見付の税はほかよりも軽くなったと)。

このときの小競りあいは、大久保彦左衛門『三河物語』に記録されている。

Photo_359
青○=東海道筋の藤枝 赤○=田中 黄色=小川(こがわ)

この2年前に田中城を捨てて家康の許に入っていた長谷川家の祖・紀伊(きの)守正長(まさなが)は、本多平八郎忠勝の隊に組みこまれていたろう。いや、正珍宣雄の会話では、いたことになっていたはず。

別の日には、武田方が三日月堀をめぐらせて築きなおした田中城のすぐれた構造についても語りあったとおもわれる。
Photo_360
リーフレット[史跡 田中城下屋敷]より田中城の図
(藤枝市教育委員会)

そういうときの正珍の顔には血がのぼり、さも、おのれが戦い、築城したといわんばかりであったにちがいない。

正珍の蟄居は、足かけ6ヶ月後の翌宝暦9年(1759)年2月13日に許された。
しかし、幕政への影響力はほとんど消えていた。

安永2年(1773)、64歳になった正珍は、次男・正供(まさとも)へ家督を譲り、まったくの隠居となった。
嫡子・正堅(まさかた)が、郡上八幡の一揆事件で老職を罷免される前の年---宝暦7年7月に22歳で病歿してしていたための次善の相続であった。考えようによっては、郡上八幡の件で処置を手ぬかったのは、この前後の憂いと悲しみが大きかったためとも見られるが、国政にたずさわっている者としては、情が深いではすまされまい、ともいえる。

正供は延享3年(1946)の生まれだから、銕三郎(平蔵宣以の幼名)と同年。銕三郎の後ろ楯を期待するには、あまりにも無力すぎた。

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コメント

正珍と宣雄が語り合ったであろう「田中城」へは、昨春「鬼平熱愛倶楽部」で訪れました。

珍しい円形輪郭式縄張りのお城でした。
現在本丸、二の丸は西益津小学校が三の丸は西益津中学校が建っています。

小学校構内には田中城の屋外模型が出来ており、
付近には二の堀、三日月堀,三の堀、土塁跡をみることができました。

六間川をはさんである「田中城下屋敷』には田中城本丸二階櫓や米蔵が移築されております。

本丸には上がってボランティアガイドの方から歴史をうかがったことを思い出しました。

投稿: みやこのお豊 | 2007.05.18 12:54

そうでしたね。
鬼平ファンを自称している人で、田中城まで行った人はどれくらいいるのでしょう?
テレビでの見手も含めて、鬼平ファンは300万人(うち、原作を読んでいる人100万人)の、0.1%として、3000人。
見積もりが多すぎますね。0.01%---300人。

田中城下屋敷を見学する人は、年に3万6000人(月3000人)として、長谷川家の祖先が守っていたと知った人は、1%---とみて、年360人。

静岡の〔鬼平}クラスを担当しているKさんは、西益津小・中学校の卒業生ですが、ぼくが講義に行くまで、鬼平と関係があるなんて、知らなかったですからね。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.18 14:03

 毎度、初歩的な疑問で申し訳ありません。いただいてある寛政譜写しによりますと、本多伯耆守正珍の先祖に本多佐渡守正信があり、真田太平記によると家康から「我が友・・・・」と評されたとあります。本多平八郎忠勝は真田信幸の妻小松の実父で、信幸と共に沼田城に立てこもり家康相手に戦するといって真田昌幸・幸村の命を救ってくれた人。正信も忠勝も「藤原氏・兼通流」とあります。名門だけに記事が多くて関係がよく判りませんが、見間違いでしょうか。

投稿: SBS学苑鬼平クラス安池 | 2007.05.18 22:46

>SBS学苑鬼平クラス安池 さん
前回の[鬼平]クラスで配布した本多家『寛政譜』シートは、本多伯耆守正珍に関係するp.p21~24だったように記憶しています。

本多家は50流以上あり、本多平八郎忠勝は総本家ですから、シートp.p1~6に入っています。失礼しました。上記シートのコピーをお送りします。

なにしろ、50流以上もある本多家のことゆえ、きちんと解説しないと間違われますね。以後、注意します。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.19 05:53

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