カテゴリー「147里貴・奈々」の記事

2011.10.24

奈々の凄み(4)

お大名衆との宴の翌日、ご用の間からと、同朋(どうぼう 茶坊主)が金包みを届けてきた。

若年寄・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 与板藩主 2万石から昨夜の礼辞と3藩分の席料2分1朱(9万円))と、別に板場と女中たちへのこころづけとして3朱(3万円)が添えられていた。
船頭への支払いも昨夜すませたとあった。

下城の途中、新大橋西詰で供の者たちを返し、久しぶりに、剣の弟子・菅沼新八郎定前(さだとき 22歳 7000石)を見舞った。
というのは、初見をすませた翌年から体調をくずして床に就きがちであった。

それなのに、去年、室を迎えていた。
板倉周防守勝澄(かつずみ 享年54歳 備中松山藩主5万石)の12男9女の末から2番目の姫(18歳=去年)であった。

新八郎の母・津弥(つや 享年41歳)が愛玩していた腰元・お(きく 20歳=当時)と新八郎ができてしまい、津弥を仏門戸へ入れるさわぎに、平蔵(へいぞう 40歳)がまきこまれた。

参照】2010年11月24日~[藤次郎の難事] () (

病間には、25歳になっているはずのおが付きそっていた。
「奥が産み月で実家へ帰っており、恩師には至らぬことで、申しわけありませぬ」

頬は肉がおち、病人の特有の、饐(す)えた匂いを発していそうな青白い顔色であった。
剣の道を教え、待つこと、抑える意思を体得させたはずだが---手近な悦楽におぼれてしまうのは、父母ゆずりの血筋なのかもしれない。

新八郎もだが、おの肌もさえなかった。
励ましの言葉をつづけながら、接しあったその年齢の相手たちの肌を走馬灯のように思う出してみた。

14歳だった銕三郎(てつさぶろう)をはじめて女躰の奥へみちびいてくれた若後家だったお芙沙(ふさ 25歳)。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] 

21歳で婚家に縁切りを申し渡した阿記(あき)---銕三郎は18歳であった。

参照】2008年1月2日[与詩(よし)を迎えに] (13

京都で出会い、還俗(げんぞく)をすすめることにまでなった貞妙尼(じょみょうに 24歳)

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] () (

島田宿の本陣の出戻り若女将・お三津(みつ 22歳)。

参照】2011年5月8日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () (

いずれも、湯舟からでると湯滴が肌からすべりおちるほど張りがあった。

これから会う18歳の奈々(なな)とくらべることまではしなかった。

辞去ぎわに、目でおを誘い、玄関脇で、
「あのほうはつつしんでおろうな」
が首すじまで紅色にしてうつむいた。
「いかぬな。ご先代もそれで寿命を縮められた。くれぐれもおひかえあれ」
「殿がきつくお求めになりますので、つい---」
どのが楽に満たされる形ですまされよ」
「はい」
(おも肌はかわききっていても、あのほうはおんなざかりだ。いっても詮ないのがこの道でもある)


〔季四〕で、預かっていた席料とこころづけを奈々へ手渡し、
「われの分を---」
紙入れをとりだすと、その手をおさえ、
「もう、もろてます」
「え---?」
「きのう、3藩の殿はん方へお告げした勘定に、(くら)はんの分、上乗せしといたん」
「悪いやつ---」
「せいだい(な.るたけ)早よ帰えりますよって、家で待っといて---」


腰丈の桜色の閨衣(ねやい)にさっと着替えた奈々が、いつものように右膝を立てて内股の奥を向かいの平蔵の視線にさらし、
「うちの姓---? 1000年ほども前からのいいつたえやけど、高(コ)やったん---せやけど貴志村では田づくり畑づくりで、高田か高畠がええとこ---」
「高---か。里貴(りき 逝年40歳)の家もそうかな?」
里貴おばさんちは、東隣りの郷(さと)なんやけど、たしか、伯(ペク)姓で、文を書く家柄やったって聴いたような気ィがする---昔のことがなして気になるん?」

志貴村は百済からの渡来人が、周囲の帰化人たちから孤立し、故郷のしきたりをまもりつづけ、結婚もほとんど村内同士でおこなってきた特殊な集団と見られてきていた。

「いや。奈々のものに動じない胆のすわりぐあい、応変の器用の才、月魄(つきしろ)のなつきぐあいからいって、将軍の末裔かもとおもうてな」
「うちは、大将は大将でも、おんなだてらにガキ大将やってん---でも、月魄と相性はご先祖さまにかかわりがあるかもしれへん。高氏は馬韓(マハン)部族の一つやよって、月魄が親類やおもうたんちゃう?」

奈々によると、周囲から孤立していた貴志の村は、200戸あまり800人が食っていくだけの富力を保っていくがやっとであった。
男の子もむすめも、第3児以下は村をでていかなければならない。
村の外で生きていくには、靭(つよ)くなければやっていけない---おとこの児なんかに負けてられなかった。

木登り駆けっこも、あるときまで、いちばんであった。

それが、14歳の春、木登りしてい、上の枝をつかんで力んだ瞬間、下腹に異様な感覚がはしった。
本能的に性Iにかかわるものだとわかった。
もう、男の児に勝とうとはおもわなくなった。

「ここでさんに会(お)うた途端に、下腹がおんなしになってん」
「ほう---」
「この人に抱かれ、うちはおんなにしてもらえる---わかったん」


ちゅうすけ注】これまで、貴志村を貴志川流域---いまの和歌山県紀の川市西部に想定してきていた。平凡社版『日本歴史地名体系 和歌山県』で、いまの和歌山市北西部の栄谷(さかえだに)、中(なか)。梅原(うめはら)がそれに比定できるとあったので、以後はこれにしたがって連想をひろげていく。


A_360
(赤印=紀州・貴志村 左から梅原・中・栄谷の郷 明治21年参謀本部制作)


1_360
2_360
(菅沼定前に嫁いだ板倉勝澄の八女=赤○)


ちゅうすけ注】板倉勝澄は、29歳のときに鳥羽から備中・松山へ移封している。
三河以来の家柄だから、ふつうなら奏者番に任じられていてもよさそうなものだが、役を得ていないところをみると病身であったか、どこかに欠陥があったか。それにしては12男9姫と子福・艶福。
備中・松山藩といえば、水谷(みずのや)家が領知していたが絶藩、浪人となった藩士の一人のむすめが長谷川宣雄を生んでいる。

ただし、平蔵宣以が19歳のときに勝澄は卒しているし、水谷家時代の家臣たちも、土着した者のほかはのこっていなかったろう。


参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母

| | コメント (0)

2011.10.23

奈々の凄み(3)

こちら向きに眠りにはいっている奈々(なな 18歳)の裸の腰に上布をかけてやりながら、^平蔵(へいぞう 40歳)は、こうなった経緯(ゆくたて)をおもい返していた。

奈々の前の里貴(りき 逝年40歳)は縛られることが嫌いなおんなであった。
躰を締める着物の紐類も、帰るとすぺてかなぐり捨て、白い全裸で家のなかを歩きまわるのが好きだといっていた。

参照】2010年1月19日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (1) (2

世間の掟にも縛られたくないといい、妻の座にそれほどの執着を見せなかった。
もっとも、朝まで倶(とも)にできる機会(とき)は、ことのほか悦んだ。

23歳も若い奈々は、こだわらない性格---というか、自分をさらけだしてみせて好意を呼ぶ質(たち)といえた。

腰丈の閨衣(ねやい)の里貴との背比べの判定では、なんと、秘部に手の甲を当てさせ、股下の高さを測らせた。

参照】2011年7月12日~[奈々という乙女] (4) (5

父娘ほども齢が離れているのに、ふとした事故から、離れられない2人になってしまった。
背比べでいうと、あれから2年たらずのあいだに3寸(9cm)ものび、しかもそれがほとんど脚丈らしいことは、躰を接するたびに実感した。
太めになってきている平蔵の胴を、細まった足首をらくらくと交差させて締めるようになってきていた。
余分な脂身がついていない躰はよく撓(しな)った。

参照】2011年8月30日[新しい命、消えた命] (

いや、離れられないのではなく、目を離せないほど幼いとおもいこんでいた。

それが、今宵の若年寄と2寺社奉行の接待ぶりに、とてつもない才能を秘めていることを見せつけられた。
人を楽しませる天性を授かっていたのであった。

日野宿への旅に、大物たちの宴の献立ことで、
「どうであろう、紀州の貴志村に伝わっている百済風の家庭料理は---?」
きっかけは暗示しておいた。

参照】2010109[日野宿への旅] (

それを、府中宿での2泊から帰ってから2,3日のうちに、板場手伝いの百介(ももすけ 21歳)や貴志村育ちの座敷女中のむすめたちの意見をまとめて今宵の成功へもちこんだ手腕は、並みたいていのもではない。

生まれついての統率力というのか、創意の才というのか、とにかく18歳の鄙育ちとはおもえない。

(そういえば、月魄(つきしろ)のなつきようもただごとではなかった)

参照】2011年10月4日~[奈々と月魄(つきしろ)] () () () (

(これまで訊いたことがなかったが、奈々の家系のこと、こんど、たしかめてみようかな)

| | コメント (0)

2011.10.22

奈々の凄み(2)

「九折板(クルジョパン)はわかったが、どうしてもわからなかったのが、松の実(み)粥(かゆ)とマッコリだ。紀州から取り寄せる暇はなかったはずだ」

亀久町の家で待っていた平蔵(へいぞう 40歳)が、あとを追うように帰ってきた奈々(なな 18歳)に問いかけた。
「待って。着替えて落ち着かせて---」
閨(ねや)にしている次の間で、腰丈の桜色の閨衣(ねやい)をはおり、独酌している平蔵の冷や酒の小椀をひったくるようにして一気にあけ、
「ああ、おいしい。ずっと張りつめていたん。しんどかったわぁ---」

「ご苦労であった。あれほどみごとにやってくれようとは、じつは、おもっていなかった」
「お大名はんたち、満足そうやったね」
「満足どころか、大満悦であった」
「よかった。これでも、(くら)はんのためにと、必死やったんよ」
「礼をいう」

「礼は、里貴(りき 逝年40歳)おばはんにゆうてあげて---」
里貴も、いつかは〔季四〕で朝鮮料理をだすことを考えていたらしい。
庭の物置に朝鮮白磁などの食器や銀の箸、円卓をしまっていたのを、奈々が見つけておいた。
その中に、貴志村からとり寄せておいたけっこうな量の松の実があったという。

その松の実を前に、平蔵が日野宿へ旅している日々、板場の百介(ももすけ 21歳)と女中頭のお(なつ 20歳)、寮長並(なみ)のお(あき 19歳)、それに躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の医師・多紀安長元簡(もとやす 31歳)の妻で貴志村育ちの奈保(なほ 22歳)らが鳩首、献立をねった。

里貴が躊躇していた理由(わけ)も解けた。
朝鮮と異なり、この国では鶏や鳥類と野うさぎのほかの獣の肉を食することが禁忌されていたから、献立の幅が狭かった。

松の実も、紀州・貴志産だけでは、店用がまかなえそうもなかった。
「今宵の話では、高崎侯松平右京亮輝和(てるやす 36歳 8万2000石))が栽培に乗り気のようであったが---」
はん。松樹が一人前に育ち、実ィが採れるようになんの、20年も先」
「むすめが15歳でややを産むのとはわけが違う---」

「うちは、もう、18歳や。いつ、孕んだかて、おかしゆうない---」
「おいおい、できたものは仕方がないが、お手やわらかに頼むよ」

そうはいいながら平蔵は、奈々というむすめの着想の非凡さに凄みを感じていた。
脈絡がないようでいて、突拍子もないところへ着地している---。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.10.21

奈々の凄み

「21日のご帰館は、向柳原か、それとも数寄屋橋内のご役宅でしょうか?」
用部屋の手前の控えの間で、平蔵(へいぞう 40歳)が西丸の少老(若年寄)・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 与板藩主)へ伺った。

2月21日の宵、かねてから申しわたされていた茶寮〔季四〕での会食の日取りが決まった。
参会するのは、井伊侯がとりわけ親しくしている 高崎藩主・松平右京亮輝和(てるやす 36歳 8万2000石)と佐倉藩主・堀田相模守正順(まさなり 41歳 11万石)の両寺社奉行であった。

武州・百草(もぐさ)村の松蓮寺の大和尚の縁者の児(こ 6歳)の行く方(かた)しれずの事件が片づいたら---という約束になっていた。

事件は意外な捕り物となったが、盗賊たちのほかには罪人をださずにすませた。

若年寄が帰宅先を訊いた真意を質(ただ)した。
佐倉侯高崎侯も、[季四〕へのお越しはお駕篭でしょうが、お帰りは屋根船を手配するつもりでおります。
佐倉侯の藩邸は大川べり浜町、高崎侯は鍛冶橋か数奇屋橋ですが---」
「分かった。向柳原なら神田川、役宅なら京橋川と申すのじゃな?」
「御意」
「京橋川にいたす」


奈々は、その夜のために、円卓を用意していた、
床の間の前に屏風を立て、上座、下座がないようにもこころをくばった。
3侯もこだわらなかった。

座が決まったところで、冷えた松の実の粥がでた。
「ご酒の前に、胃の腑(ふ)を松の清い脂でお護りいただきます」
「ほう---」
若い大名たちは珍しがった。
「初めて口にする---」
「香ばしい薫味は松の実かの?」

A_360
(松の実粥 4人前 ちゅうすけ夫人調理)


「あい。朝鮮松の実でございます」
「この、重湯の上に浮いている黄色い実がそうかの?」
「あい。朝鮮松の実は細長く、唐土のものは丸みが強うございます。粥にも50粒ほどをすりつぶしていれております」
「どこで手に入るのかな、対馬あたり---?」
「いえ。紀州の貴志村で育てた朝鮮松から採りました」

「紀州でも育つとなれば、高崎でも育ちそうだな?」
相良のお殿さまにお訊きくださいませ」
「なるほど、珍味だ」
「ありがとうございます」

次に 折った松葉を数本浮かせたマッコリが大鉢で、チヂミとともに供された。
小さな柄杓がついており、
「お殿さま方は、普段は自らお盛りなることはございませんでしょうが、今宵はしもじもへおくだりになったおつもりで、ご自分でお召しになる量だけお汲みなさいませ」
「濁り酒か」
「米と小麦粉を麦麹で醗酵させました」

_300
(マッコリ 1人前 韓国家庭料理〔松の実〕提供)


「女将が、か?」
「いいえ。紀州の貴志村から参っております板場の者の手づくりでございます。ただし、ふだんは造りませぬ、今宵かぎりでございます」
「かまわぬ。密造を呑んだわれらも同罪じゃ」
「は、はははは」
侯たちは、子どもにかえったようにはしゃいでいた。

九節板(クジョルバン)という野菜と錦糸卵の具材を、中央に重ねてある薄い衣にとり自らの手でくるんで口へはこぶ料理も喜ばれた。
手なぐさみがたのしくてしょうがないふうであった。

_360
(クレープ包み クジョルパン(九節板)〔松の実〕製)


長谷川うじ。こんどは室をつれてまいりたいが---」
「すこし早めにお申しつけください。ここは、普段は茶寮で、このような朝鮮料理は手前も初めてでした」

「女将どの。今宵の1人あたりの席料はいかほどかな。藩の勘定方がうるそうてのう」
「別室で同じものを召しあがっていらっしゃいますお供の方の分もふくめまして、ご一藩、3朱(3万円)ほどかと。お帰りのお船は別勘定でございます」
「ほう、それでやってくれるのか---」

長谷川さまのお仲間ということで---特別奉仕でございますゆえ、ほかさまへはご内密に---」
「これ、女将。お仲間などと、とんでもないことを---」
「よいよい---は、ははは」


ちゅうすけ注】
韓国家庭料理の店〔松の実〕 新宿区神楽坂4-2 電話3267-1519

| | コメント (4)

2011.10.07

奈々(なな)と月魄(つきしろ) (4)

仙台堀が大川へつながるところに架かっている上(かみ)ノ橋から大川ぞいに永代橋東詰までは、佐賀町を4丁(430m)ほどだが、あたりの子どもたちが10人も月魄(つきしろ) の後ろをつけ、がやがや騒いだから、月魄はよけいに気張った。

奈々も武家の妻女のように背筋を伸ばして気負ってはいたが、裸の月魄に乗るための練習のつもりで膝頭でしめつづけていたので、内股が熱くなりかけていた。

050_360
永代橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


先夜もそうであったが、膝をしめると局部の筋肉もつられて締まる感じをうけた。
いつだったか、躋寿館(せいじゅかん)の多紀安長元簡(もとやす 31歳)若先生の妻で、鉄漿親(おはぐろおや)の奈保(なほ 22歳)が、若先生仕込みの〔好女(こうじょ)〕---いわゆる床上手(とこじょうず)なおんなに変わるには締まりをよくすることもその一つ---とすすめてくれた秘法とはちがうが、
(うちは、月魄仕込みでいけそう)

参照】2010年12月22日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () (
2011年9月5日~[平蔵、西丸徒頭に昇進] (4) (5)

しかし、いますぐ、(くら)さんに抱かれたくなったのには困った。
奈々の思いが月魄に伝わったらしく、永代橋の手前であゆみを止め、考えこんでしまった。
(この馬(こ)は、勘がよすぎぃ)

「あんたの裸の脊にまたがって、肌と肌をじかに触れあわせたいん」
口にだして首をたたいてやると、わかったらしくて一声嘶(いなな)いた。
が、奈々の野袴の裾からもれてくる性器の匂いに首をかしげてもいた。
(この馬(こ)は、騙(だま)せへん)

平蔵たちが追いついた。
奈々。永代橋西詰すぐの左手、豊海(とよみ)橋をわたった、新川ぞいの〔池田屋〕だ」
「あい」

屋号からも察しがつくとおり、南新堀2丁目の〔池田屋〕利右衛門方は、上方・伊丹の下り酒問屋で、茶寮{季四〕の仕入れ先であった。

霊厳島を堀割った新川の両岸には下り酒問屋が軒をつらねた、堀まで酒の匂いを立ちのほらせている。

賑わう店頭で平蔵奈々をみとめた手代から、用意の伊丹村の銘酒〔富貴嵐〕の角樽(つのだる)を受け取り、松造へ手渡す。

048
新川酒問屋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


「女将さんがお乗りで---?」
門口まで見送りにでた手代のお愛想は、まわりの客たちへの見得もあったろう。

「この馬(こ)に、乗せてもらっとるん」
月魄は前足で土をかいて喜びを表現した。

多くの目があるので、奈々の尻を押しあげるわけにはいかない。
奈々に片足を鐙(あぶみ)にかけさせ、のこりの足を掌で押しあげた。


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (


| | コメント (0)

2011.10.06

奈々(なな)と月魄(つきしろ) (3)

天明5年(1785)1月29日の『徳川実紀』に、こんな記述がある。

---宿老 松平周防守康福。田沼主殿頭意次におのおの一万石を増封ありて、康福は六万四百石となり、意次は五万七千石となる。老中格水野出羽守加判の列に加えられ、昵近故のごとく国用のこと奉るべしと命ぜられ、五千石加えられて三万石となり、御側稲葉越前守正明に三千石加恩たまひ、一万三千石となる。

加増の理由は明らかにされていない。

松井松平康福(やすよし 67歳 岩見・浜田領主)の次女は故・田沼山城守意知(おきとも 享年36歳)の正室だが、婚して10数年、子をなしていなかった。
意知は遺児に4男2女がいたが、腹はすべて某氏(武家の子女以外)であった。

康福の『寛政譜』は、この時の加増を、

多年の勤労を賞せられ、石見国鹿足(しかのあし)、美濃、那賀(なか)、邑地(おほち)、三河国幡豆(はづ)、伊豆国加茂(かも)、君沢(くんたく)七郡kの内におひて一万石を加増せらる。

多年の勤労---と記しているが、老職就任は明和元年(1764)5月1日だから足かけ22年の在職ということだ。

田沼意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)の『寛政譜』は理由なしで、

河内国河内(かわち)、若江(わかえ)、三河国宝飯、遠江国榛原、城東五郡のうちにおいて一万石の加増あり。

水野出羽守忠友(ただとも 55歳 沼津藩主)]の『寛政譜』は、田沼意次の四男(忠徳 ただのり)を養子に迎えてむすめを室に配したが、意次の失脚後に離縁している。
理由はつまびらかにしていない。

老職に補せられ、なを国用の出納を掌り、且奥の務をかね、五千石を加えられ、駿河国駿東、富士、三河国碧海、幡豆、伊豆国加茂(かも)、君沢、田方(たがた)七郡のうちにをいてすべて三万石を領し、沼津に住す。

稲葉正明(まさあきら 63歳)の『寛政譜』は、

安房国長狭、平、朝夷(あさい)、安房、上総国長柄五郡にをいて三千石を加封せらる。
(六年八月ニ十七日御旨にたがふ事あるにより務をゆるされ所領の地三千石)を刪られ---)

読むかぎり、このときの加増は、意次のお手盛りの感がつよい。
妬みと反感を買ったろう。


しかし、そのことと、賀辞とはかかわりない。

平蔵(へいぞう 40歳)は非番の日の八ッ(午後2時)、松造(よしぞう 34)を供に、月魄(つきしろ) にまたがって屋敷をでた。

横川ぞいに南へ向かい、小名木(おなぎ)川に架かる新高橋(しんたかばし)をわたったころには、水の匂いで察したか、記憶力がすぐれている月魄は早くも行く先を明察し、喉声を鳴らして悦びはじめた。

前に奈々(なな 18歳)を乗せるために往復したのは夜だったのに、一度でちゃんと覚えこんでいたのである。

亀久橋をわたるころには、常足(なみあし)運びがもどかしげであった。

〔季四〕は初めててあったのに、表に奈々が野袴姿で立っていると、自分から速足(はやあし)に変え、奈々の腕に鼻を押しつけた。
奈々がその鼻面(はなづら)をなぜてやると、喉声の嘶(いなな)きはまるで恋人に甘えているようであった。

奈々は、田沼意次の小間使・於佳慈(かじ 34歳)あての、深川・佐賀町の銘菓子舗〔船橋屋織江〕の羊羹を包んだ風呂敷を松造に手渡した。

乗り手が代った。
奈々が手綱をとった。
口をとろうとする松造の手を、首を大きくふって拒んだ。
松造、2人にまかせておけ」

それみろ、といわんばかりに月魄が嘶き、
奈々。仙台堀ぞいに海辺橋、上(かみ)ノ橋の南詰で待っておれ」
「月魄、聞いた? こないだの橋のとこ」
奈々にうなずき、勝手に歩きはじめた。
(すごい記憶力!)
奈々が感心しているのが通じたらしく、足並みは自信満々であった。

行きかう人たちが、馬上の主がおんなとわかり、珍しげに注目すると、月魄はなおさら得意然とした足取りになり、しかも、いたずら男がいたら蹴飛ばすぞ、といった気風もみせた。


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (


| | コメント (0)

2011.10.05

奈々(なな)と月魄(つきしろ) (2)

奈々(なな 18歳)。鞍なしの裸の月魄(つきしろ)を乗りこなすには、済ましておかねばならぬことが、2つある」
「あい」
2人はことを終え、満ちたり、仰臥し、憩(やす)んでいる。

「裸馬を乗りこなすのは、男を乗りこなすより難しい」
両足をささえる鐙(あぶみ)がないからである。
そのためには、両膝で月魄の腹を、長時間しめつける練習をする必要がある。

奈々平蔵(へいぞう 40歳の腹にまたがり、膝をしめつけた。
脇腹と奈々の膝とのあいだに肘をはさみ、押し返した。
奈々はしめつけようとするが、平蔵の腕の力が強かった。

しばらく膝と肘でもみあっているうちに、奈々
「あゝ------」
力をぬいてうつぶせてきた。

「どうした? 案外、疲れるものだろう?」
「ううん。そうじゃなく、よくなってきちゃったん」
「なに---?」
手をあてると、濡れていた。

「これじゃあ、月魄を昂(たかぶ)らせてしまうな」
月魄ではなく、平蔵のほうが興奮してきていた。
奈々が腰をうかせ、そっと下へ移し、導いた。


「裸の月魄を乗りこなす時には、やはり、月輪(がちりん 25歳)の尼どののように、下帯をつけるんだな」
「そやけど真ん中に寄って紙縒(こより)になってもうて、あてとる意味がのうなりそうやん。男はんとちがうて、うちらには包んどくもんがあらへんよって」

たしかに。縒(よれ)たら、こまるでろう。
しかし、平蔵は別の幸せ感にひたっていた。
月魄を浅草の三歳馬市で目にしたときから、自分にというか、自分なわりにいいものをもたらしてくれそうな予感がしていたが、奈々に親密---というか、 こころを許しあった友たちになってくれそうなことがその一つであった。
奈々は紀州の貴志村からき、里貴(りき 逝年40歳)が逝ってから独りでやってきた。

奈々。裸の月魄に乗るために済ましておくことの2つ目---」
「あい---」
2度目の満ち潮に酔っている奈々がうっすらと応えた。

「4人いる座敷女中のむすめたちの中から、奈々の代理がつとまる女中頭(がしら)をえらぶこと。もし、紀州からきているむすめからえらんだら、女中頭の助(すけ)は信州・佐久のむすめから決める。そして、のこった2人を寮長、寮長助にすえること」
「いそぎますのん?」
奈々が、昼間に月魄で遠出をしてもいいようにするためだ」
「あ、それなら、明日にでも---」


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (

| | コメント (2)

2011.10.04

奈々(なな)と月魄(つきしろ)

月魄(つきしろ) のこと、気にいったらしいな」

月魄を三ノ橋通りの屋敷の厩舎へ戻し、出ようすると、月魄(つきしろ)が落ち着かなくなった。
首をたたいてやりながら、
奈々には、また会わせてやる。奈々もおぬしのこと、好きらしい」
家の者たちの耳に入らないように、ゆっくりした低い口調で2度、3度ささやくと、落ち着いた。

そうしてから、奈々(なな 18歳)の家へ引き返してきたのであった。

腰丈の桜色の閨衣(ねやい)で、独り酒をしていた。
「うちが月魄のおちんちんを舐めたよって、怒ってしまったとおもったん」
月魄を,寝舎へ入れてきた。奈々の傍(そば)へきたがっていたが、また今度と---ようやく納得させた」
「お利口さんの月魄奈々も負けんと賢くならんと、(くら)さんに棄てられる」
里貴(りき 逝年40歳)が(てつ)さま、ときに(へい)さまと呼んでいたのをはばかり、さんにしていた。

立てていた右膝をおろし、太腿をひらいた。
閨(ねや)へ移ろうという合図であった。


月輪尼(がちりんに)が法衣の下に男ものの下帯をつけて乗っていると話すと、
「鞍をつけへん裸の月魄の脊に、野袴も下帯もなしでまたがってみたい」
奈々がとんでもないことをいいだした。

参照】2011年9月25日[駿馬・月魄(つきしろ)] (1)

内股に触れ、
「ここから月魄を感じ、肌と肌で会話を交わすのはいいとして、駆足になると、風で裾がめれてここもお尻も人目にさらすことになるぞ」

「そこは考えてる。膝丈の上着に、どでかい風呂敷のような布で腰から下を覆うの」
「その布の臍の下にあたるあたりを、下方から半分ほど割(さ)いておかないと風でめくりかえる」
「後ろは布の重ね目が開くよって、月魄の脊なりに割れ、お尻丸見えにはならへん」

他愛もない会話をつづけているうちに、奈々が足を股ぐらへさしこんできた。

(どうも、本気でそうしたがっているようだ。尼どのも月魄の賢さをほめてはいるが、奈々のは、情をかよわせあう仲だ)

さんの茂み、月魄の背中の毛並みみたい」
絹糸がかすかにしか生えていない柔らかな丘部をすりつけてきた。
(われを馬並みにおもっている!)
その無邪気ぶりが、年甲斐もなく可愛いかった


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (

| | コメント (0)

2011.07.16

奈々という乙女(8)

「お、じ、さまは、元の主人のためゆうて、わが子の首さしだせる?」
奈々(なな 16歳)は、観てきた『菅原伝授手習鑑(すがはらでんじゅてならいかがみ)』の四段目の「寺子屋}の場に感動しきったらしい。

外題は、『忠臣蔵』と『勧進帳』ととも演(だ)せば満席はまちがいなしの「寺子屋」であった。

たいていの人は筋書きはこころえていよう、政敵・藤原時平によって配流された右大臣・菅原道真の子・菅秀才(7歳)へ難がおよぶ。
秀才をかくまっていたのは、道真の門下時代に不運があり、いまは寺子屋を開いていた武部源蔵である。
時平から秀才の首をさしだせといわれ、新しく入門してきた賢そうな子・小太郎の首で偽装した。
首検分にきたのは、元の同僚の松王丸であったが、なぜか小太郎の首を秀才と断じた。

じつは、小太郎松王j丸の実子であった。
旧師・道真の恩義への報い、旧学友・源蔵への救いの手とはいえ、あまりにも残酷な所業といえる。
とりわけ、母性愛の強い観客は胸にこたえよう。、

ただ奈々は、、胸をつまらせただけでなく、忠と義のためなら自分の子の命を絶つことができるか---と平蔵(へいぞう 39歳)へ問うたのではなく、里貴(りき 39歳)のために命を賭けられるかと訊いていることはわかっていた。

里貴もそのことを察しているとおもった平蔵は、応えるかわりに、逆に訊いた。
奈々は、丹生(にう)さくまのために命を賭けられたかな?」

返事に窮した奈々は、
里貴おばちゃんのためやったら、賭けられるかもしれへん」

「本心であろうと信じておくが、その時になってそうできるかどうかは、奈々にも応えられまい」
「------」
「だから、さきほど奈々が訊いたような問いは軽々しく発してもいけないし、応えるべきではない。この世の中は、もっと上っ面の会話で障碍なくまわっておる」

里貴がことばを足した。
「とりわけ酒席での会話は、上っ面であればあるほど、気分がいいものなの。(てつ)さまのほんとうのお気持ちは、私の躰がお受けとめしています」

奈々が双眸(lりょうめ)を伏せてうなずいた。


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] () () () () () () (

| | コメント (0)

2011.07.15

奈々という乙女(7)

「2階の人の考えが、私にはどうも理解がおよびません」
指先で上をさした里貴(りき 39歳)が、声と眉をひそめて訴えた。

奈々(なな 16歳)が、また、なにかやったのか?」
腰丈の寝衣に着替え、右ひざを立てている里貴に、酌をしてやりながら平蔵(へいぞう 38)が質(ただ)した。

今月の森田座がよさそうだといった女客に同伴をねだったのだという。
その女客は、土地(ところ)の海辺大工町高橋(たかばし)ぎわの老舗の薬種(くすりだね)問屋〔久保田屋〕の女将・お筆(ふで 42歳)で、血の道の妙薬〔回生散〕を〔:化粧(けわい)読みうり〕のお披露目枠に載せて大当たりをとっていた。

お披露目枠をすすめたのも〔季四〕につないだのも、もちろん〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代の雄太(ゆうた 49歳)であった。

は芝居好きというより、役者買いのうわさがあった。

里貴のことばを借りると、いまの奈々ときたら、
「怖いものしらずの小雀みたいに、なんでもしりたがるのですから---」
こぼして、
「紀州の貴志村とちがい、江戸には悪者も少なくないってことを、(てつ)さまからいって聞かせてくださいませ」
里貴を心配させることで、いるってことを示しているのかもしれないぞ」
「ねんねではあるまいし、冗談ではありません」


「貴志村では、どういう暮らしぶりであったのだ?」
丹生(にう)のご隠居さまの小間使いにあがっていたとか---」
「なんだい、その、丹生のご隠居というのは---?」

丹生明神は、女人禁制」の高野山で、唯一、山の女神として祀られていた。
丹生さま]と呼ばれた現世の女性(にょしょう)が、山中の霊場ではなく、貴志村の近くに侘びずまいし、代々、独り身をまもっていた。
だから、子はない。
どこからか幼女がもらわれてきては身分を継いでいた。

「それなら、庭訓(ていきん しつけ)もこころえておろうに---」
「それが、気ままなだけの老婆であったと聞いています」
「行儀作法ができていないでは、茶寮[季四〕の若女将はつとまらないな」

平蔵が提案した。
ニッ目ノ橋南の弥勒寺の裏手、辰蔵(たつぞう 14歳)がこのあいだまで礼法を教わっていた、勘定見習・山田銀四郎善行(よしゆき 41歳 150俵)の実母のところへ通わせてみたらたらどうかと。

参照】20101031~[勘定見習・山田銀四郎善行] () () () (

話がまとまったところへ、奈々が戻ってきた。
「遅そなったけど、お芝居のことで、長谷川のおっちゃ---おじさまに訊きたいことがでたん。着替えてから来ます」
裏庭側の階段を音をたててあがっていった。

これですから---と訴える目で頭をふりふり里貴が、
「一日も早く、そのしつけのおっ師匠さんのお世話に---」

降りてきた奈々は、腰丈の寝衣でなく、ふつうの部屋着であった。
「夕餉(ゆうげ)は?」
「〔久保田屋〕はんのご寮(りょ)はんの用事すむのを待っとるあいだに、お伴の女中はんといっしょに食べまました」
「それでは、寝酒か---?」

平蔵が大徳利から注ぎたした片口をむけると、すばやく食器棚から自分の飯椀をおろし、
「おっち---おじさま。寺子屋いうお芝居、しってる?」
「菅原伝授手習鑑(すがはら でんじゅ てならいかがみ)か?」


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] ()() () () () ()  (


| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

001長谷川平蔵 | 002長谷川平蔵の妻・久栄 | 003長谷川備中守宣雄 | 004長谷川平蔵の実母と義母 | 005長谷川宣雄の養女と園 | 006長谷川辰蔵 ・於敬(ゆき) | 007長谷川正以 | 008長谷川宣尹 | 009長谷川太郎左衛門正直 | 010長谷川家の祖 | 011将軍 | 012松平定信 | 013京極備前守高久 | 014本多家 | 016三奉行 | 017幕閣 | 018先手組頭 | 019水谷伊勢守勝久 | 020田沼意次 | 021佐嶋忠介 | 032火盗改メ | 041酒井祐助 | 042木村忠吾 | 043小柳安五郎 | 044沢田小平次 | 045竹内孫四郎 | 051佐々木新助 | 072幕臣・大名リスト | 074〔相模〕の彦十 | 075その他の与力・同心 | 076その他の幕臣 | 078大橋与惣兵衛親英 | 079銕三郎・平蔵とおんなたち | 080おまさ | 081岸井左馬之助 | 082井関録之助 | 083高杉銀平 | 088井上立泉 | 089このブログでの人物 | 090田中城かかわり | 091堀帯刀秀隆 | 092松平左金吾 | 093森山源五郎 | 094佐野豊前守政親 | 095田中城代 | 096一橋治済 | 097宣雄・宣以の友人 | 098平蔵宣雄・宣以の同僚 | 099幕府組織の俗習 | 101盗賊一般 | 103宮城県 | 104秋田県 | 105山形県 | 106福島県 | 107茨城県 | 108栃木県 | 109群馬県 | 110埼玉県 | 111千葉県 | 112東京都 | 113神奈川県 | 114山梨県 | 115長野県 | 116新潟県 | 117冨山県 | 118石川県 | 119福井県 | 120岐阜県 | 121静岡県 | 122愛知県 | 123三重県 | 124滋賀県 | 125京都府 | 126大阪府 | 127兵庫県 | 128奈良県 | 129和歌山県 | 130鳥取県 | 131島根県 | 132岡山県 | 133広島県 | 136香川県 | 137愛媛県 | 139福岡県 | 140佐賀県 | 145千浪 | 146不明 | 147里貴・奈々 | 148松造・お粂・お通・善太 | 149お竜・お勝・お乃舞・お咲 | 150盗賊通り名検索あ行 | 151盗賊通り名検索か行 | 152盗賊通り名検索さ行 | 153盗賊通り名索引た・な行 | 154盗賊通り名検索は・ま行 | 155盗賊通り名検索や・ら・わ行 | 156〔五鉄〕 | 157〔笹や〕のお熊 | 158〔風速〕の権七 | 159〔耳より〕の紋次 | 160小説まわり・池波造語 | 161小説まわり・ロケーション | 162小説まわりの脇役 | 163『鬼平犯科帳』の名言 | 165『鬼平犯科帳』と池波さん | 169雪旦の江戸・広重の江戸 | 170その他 | 172文庫 第2巻 | 173文庫 第3巻 | 174文庫 第4巻 | 175文庫 第5巻 | 176文庫 第6巻 | 177文庫 第7巻 | 178文庫 第8巻 | 190文庫 第20巻 | 195映画『鬼平犯科帳』 | 197剣客 | 199[鬼平クラス]リポート | 200ちゅうすけのひとり言 | 201池波さんの味 | 205池波さんの文学修行 | 208池波さんの周辺の人びと | 209長谷川 伸 | 211御仕置例類集 | 212寛政重修諸家譜 | 213江戸時代制度の研究 | 214武家諸法度 | 215甲子夜話 | 216平賀源内 | 217石谷備後守清昌 | 219参考図書 | 220目の愉悦 | 221よしの冊子 | 222[化粧(けわい)読みうり]