茶寮〔季四〕の店開き
里貴(りき 34歳)の新しい店は、深川・冬木町寺裏に決まった。
町名になっている江戸の材木商〔冬木屋〕の寮に手を加えた。
(深川・油堀支流ぞいの冬木町寺裏 青○=茶〔季四〕の位置)
〔冬木屋〕は、上野(こうずけ)国・中山道の板鼻(いたはな)宿から江戸へ出、木曾の材木を商って財をなした豪商として知られている。
寮の買い手が、老中・田沼意次(おきつぐ 60歳)の縁者とわかると、上(うわ)ものの値を法外な20両(320万円)に下げ、手をうった。
もちろん、その金子は当座の運転資金の20両とともに、田沼侯からでた。
地代は、冬木屋へ年々払う。
茶寮への模様替えにもその半分ほどの費(つい)えがかかったが、それは、平蔵(へいぞう 33歳)が〔箱根屋〕の権七(ごんしち 46歳)から、〔化粧(けわい)読みうり〕の板元料の前借りですませた。
客部屋々々の模様は、かつて〔貴志〕の女中頭をしていたお粂(くめ 38歳)の記憶にたよった。
ちなみにいまのお粂は、御厩の渡しの舟着き前の〔三文(さんもん)茶亭〕のれっきとした女将であった。
什器類は、〔貴志〕時代のものが荷造りしたまま、浜町の田沼家の下屋敷の納屋にしまわれていたもののほとんどが使用に耐えた。
〔冬木屋〕の寮の話をもちこんだのは、深川・〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代の雄太(ゆうた 45歳)であった。
あとは里貴当人が入府し、これも権七が用意した、亀久橋北詰、俗称・藤ノ棚のしもうた家に入居するばかりであった。
それともう一つ、里貴を待っていたのは茶寮の店名---〔季四(きし)〕。
〔季四(きし)〕はもちろん、里貴の生地---紀州の渡来人村・貴志のもじりでもあり、一ッ橋北にあった〔貴志〕からの連想でもあった。
安永7年(1778)3月(陰暦)末、紀州から、里貴がやってきた。
20ヶ日を越えた旅であった。
一人ではこころもとないというので、紀州侯の参府の行列の末尾にしたがい、宿だけは別にとった。
その日、お粂は店を半日休み、松造(まつぞう 27歳)、お通(つう 10歳)、善太(ぜんた 8歳)を連れ、平蔵とともに札ノ辻まで出迎えた。
陽笠、手脚絆での道中ながら、白い透きとおらんばかりの里貴の顔はそれでも陽にやけて赤くなっていた。
看護づかれでできた目じりの小皺,も、隠せなかった。
札ノ辻で紀州侯の行列と別れ、一同は〔愛宕下(あたごした)〕の元締、新網北町の伸蔵(しんぞう 48歳)の家で一休みさせてもらい、金杉橋の下で船を仕立てた。
永代橋のたもとでお通と善太を降ろし、里貴と平蔵、それに松造とお粂は亀久橋まで船であった。
藤ノ棚のしもた屋には、源七と女房・お須賀(すが 41歳)が、寿司の出前をとって待っていた。
(仙台堀・亀久橋北詰の俗にいう、藤ノ棚)
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コメント
切絵図の、冬木町寺裏の堀の向こう側には海福寺がありました。
例の一本うどんの豊島屋が門前にあった海福寺ですね。
なんだが、急に、舞台が鬼平ランドに入ったみたいな気がしてきました。
投稿: mine | 2010.11.11 05:45
>mine さん
そう、海福寺は、いまは目黒へ移転していますが、もとはここにありました。
跡地が、明治小学校です。
門前の一本うどん{豊島屋〕は架空の店ですが、文京区本郷2丁目の〔高田屋〕のご主人に文庫を渡して研究、制作したもらいました。
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/cat6268624/index.html
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.11 11:13