奈々の凄み(4)
お大名衆との宴の翌日、ご用の間からと、同朋(どうぼう 茶坊主)が金包みを届けてきた。
若年寄・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 与板藩主 2万石から昨夜の礼辞と3藩分の席料2分1朱(9万円))と、別に板場と女中たちへのこころづけとして3朱(3万円)が添えられていた。
船頭への支払いも昨夜すませたとあった。
下城の途中、新大橋西詰で供の者たちを返し、久しぶりに、剣の弟子・菅沼新八郎定前(さだとき 22歳 7000石)を見舞った。
というのは、初見をすませた翌年から体調をくずして床に就きがちであった。
それなのに、去年、室を迎えていた。
板倉周防守勝澄(かつずみ 享年54歳 備中松山藩主5万石)の12男9女の末から2番目の姫(18歳=去年)であった。
新八郎の母・津弥(つや 享年41歳)が愛玩していた腰元・お菊(きく 20歳=当時)と新八郎ができてしまい、津弥を仏門戸へ入れるさわぎに、平蔵(へいぞう 40歳)がまきこまれた。
【参照】2010年11月24日~[藤次郎の難事] (6) (7)
病間には、25歳になっているはずのお菊が付きそっていた。
「奥が産み月で実家へ帰っており、恩師には至らぬことで、申しわけありませぬ」
頬は肉がおち、病人の特有の、饐(す)えた匂いを発していそうな青白い顔色であった。
剣の道を教え、待つこと、抑える意思を体得させたはずだが---手近な悦楽におぼれてしまうのは、父母ゆずりの血筋なのかもしれない。
新八郎もだが、お菊の肌もさえなかった。
励ましの言葉をつづけながら、接しあったその年齢の相手たちの肌を走馬灯のように思う出してみた。
14歳だった銕三郎(てつさぶろう)をはじめて女躰の奥へみちびいてくれた若後家だったお芙沙(ふさ 25歳)。
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
21歳で婚家に縁切りを申し渡した阿記(あき)---銕三郎は18歳であった。
【参照】2008年1月2日[与詩(よし)を迎えに] (13)
京都で出会い、還俗(げんぞく)をすすめることにまでなった貞妙尼(じょみょうに 24歳)
【参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (2) (3)
島田宿の本陣の出戻り若女将・お三津(みつ 22歳)。
【参照】2011年5月8日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] (3) (4)
いずれも、湯舟からでると湯滴が肌からすべりおちるほど張りがあった。
これから会う18歳の奈々(なな)とくらべることまではしなかった。
辞去ぎわに、目でお菊を誘い、玄関脇で、
「あのほうはつつしんでおろうな」
お菊が首すじまで紅色にしてうつむいた。
「いかぬな。ご先代もそれで寿命を縮められた。くれぐれもおひかえあれ」
「殿がきつくお求めになりますので、つい---」
「藤どのが楽に満たされる形ですまされよ」
「はい」
(お菊も肌はかわききっていても、あのほうはおんなざかりだ。いっても詮ないのがこの道でもある)
〔季四〕で、預かっていた席料とこころづけを奈々へ手渡し、
「われの分を---」
紙入れをとりだすと、その手をおさえ、
「もう、もろてます」
「え---?」
「きのう、3藩の殿はん方へお告げした勘定に、蔵(くら)はんの分、上乗せしといたん」
「悪いやつ---」
「せいだい(な.るたけ)早よ帰えりますよって、家で待っといて---」
腰丈の桜色の閨衣(ねやい)にさっと着替えた奈々が、いつものように右膝を立てて内股の奥を向かいの平蔵の視線にさらし、
「うちの姓---? 1000年ほども前からのいいつたえやけど、高(コ)やったん---せやけど貴志村では田づくり畑づくりで、高田か高畠がええとこ---」
「高---か。里貴(りき 逝年40歳)の家もそうかな?」
「里貴おばさんちは、東隣りの郷(さと)なんやけど、たしか、伯(ペク)姓で、文を書く家柄やったって聴いたような気ィがする---昔のことがなして気になるん?」
志貴村は百済からの渡来人が、周囲の帰化人たちから孤立し、故郷のしきたりをまもりつづけ、結婚もほとんど村内同士でおこなってきた特殊な集団と見られてきていた。
「いや。奈々のものに動じない胆のすわりぐあい、応変の器用の才、月魄(つきしろ)のなつきぐあいからいって、将軍の末裔かもとおもうてな」
「うちは、大将は大将でも、おんなだてらにガキ大将やってん---でも、月魄と相性はご先祖さまにかかわりがあるかもしれへん。高氏は馬韓(マハン)部族の一つやよって、月魄が親類やおもうたんちゃう?」
奈々によると、周囲から孤立していた貴志の村は、200戸あまり800人が食っていくだけの富力を保っていくがやっとであった。
男の子もむすめも、第3児以下は村をでていかなければならない。
村の外で生きていくには、靭(つよ)くなければやっていけない---おとこの児なんかに負けてられなかった。
木登り駆けっこも、あるときまで、いちばんであった。
それが、14歳の春、木登りしてい、上の枝をつかんで力んだ瞬間、下腹に異様な感覚がはしった。
本能的に性Iにかかわるものだとわかった。
もう、男の児に勝とうとはおもわなくなった。
「ここで蔵さんに会(お)うた途端に、下腹がおんなしになってん」
「ほう---」
「この人に抱かれ、うちはおんなにしてもらえる---わかったん」
【ちゅうすけ注】これまで、貴志村を貴志川流域---いまの和歌山県紀の川市西部に想定してきていた。平凡社版『日本歴史地名体系 和歌山県』で、いまの和歌山市北西部の栄谷(さかえだに)、中(なか)。梅原(うめはら)がそれに比定できるとあったので、以後はこれにしたがって連想をひろげていく。
(赤印=紀州・貴志村 左から梅原・中・栄谷の郷 明治21年参謀本部制作)
(菅沼定前に嫁いだ板倉勝澄の八女=赤○)
【ちゅうすけ注】板倉勝澄は、29歳のときに鳥羽から備中・松山へ移封している。
三河以来の家柄だから、ふつうなら奏者番に任じられていてもよさそうなものだが、役を得ていないところをみると病身であったか、どこかに欠陥があったか。それにしては12男9姫と子福・艶福。
備中・松山藩といえば、水谷(みずのや)家が領知していたが絶藩、浪人となった藩士の一人のむすめが長谷川宣雄を生んでいる。
ただし、平蔵宣以が19歳のときに勝澄は卒しているし、水谷家時代の家臣たちも、土着した者のほかはのこっていなかったろう。
【参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母]
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