藤次郎の難事(6)
<四谷杉>という言葉をご存じであろうか?
家康によって江戸の町が拓(ひ)らかれていたころ、全勝寺が開基したあたりは鬱蒼とした杉林であった。
その杉材で舟をつくったから、地名が舟(ふな)町。
杉材が<四谷杉>。
全勝寺の大門が<杉大門>。
明治36年12月25日号『風俗画報』に門前が描がかれ、塀ぞいに杉樹が林立している。
(全勝寺杉大門 『風俗画報』 明治36年12月25日号 絵:山本松谷)
寺は、武州・岩槻(いわつき)染谷村の常泉寺の末。境内は6000余坪あった。
「新八郎の父御(ご)の法事でしか参じたことはないが、あの寺に書籍(ほん)姫の墓があると聞き、そなたの母御・於津弥(つや 35歳=当時)どのに案内されて詣(もう)でた。3回忌であったから、5年前のことであった。そなたは11歳であったから---覚えてはおるまい」
「11歳のときから、長谷川先生について剣術の修行をはじめました」
「そうか。で、いまは---?」
「小野派一刀流、若松町の竹尾太吉先生の道場で、序2段をいただいております」
「結構、けっこう。末頼もしいことである。しっかり励め」
平蔵(へいぞう 33歳)に向かい、五代将軍・綱吉(つなよし)公の側用人を勤めていた牧野備後守貞長(さだなが 享年79歳 最終8万石 関宿藩主)侯は、綱吉公より一回り上の戌の仁であったが、公がまだ館林(25万石)侯のときから側近として仕えてい、養女に常子がいた、と説明した。
掲げた『風俗画報』は、こう記録している。
書籍(ほん)姫墓 四谷舟町六十七番地禅宗雄峰山全勝寺に在り。
徳川五代将軍綱吉公の妾牧野常子の墓なり。
常子は容姿艶麗にして、将軍の妾と為りしが、一朝頓悟するところありて、仏門に帰依し、当寺の住職某を師として、仏書を読み、終生の間に一切経を二度閲読し終え、同経を当寺に納め、経堂を建ててその傍らに自己の墓を築かしめたり。
書籍姫の名是より起る。
その墓に耳をあてると、姫が音読している声が聞こえると、世間でいい伝えたらしい。
【ちゅうすけ注】墓は、昭和の初期に笠間へ移転している。
この牧野家は、関宿から日向の延岡藩へ転封、さらに笠間藩へ転じているからである。
『寛政重修諸家譜』を検したが、備後守貞長侯の家譜には、それらしい姫はみあたらなかった。
しいて推測すると、
3女 実は小谷武左衛門守栄が女、おほせにより成貞が養女とし、戸田淡路守氏成に嫁し、後離婚す。
この人ではなかろうか。
ただし、淡路守氏成(うじしげ 享年=61歳)の個人譜には、離婚のことは記されていない。
氏成が1万石加俸されていることから勝手に類推をすると、お手つきの常子を側用人・貞長の養女とし、子を産まないまま、氏成に嫁がせたのではなかろうか。
『徳川諸家系譜』の綱吉の項にも、常子の名はない。
しかし、いまの場合、牧野家と全勝寺のつながりが分かれば、常子はどうでもいい。
『四谷区史』(昭和9年刊)にも、
寺に延宝四年(1676)三月鋳る所の梵鐘がある(中略)。備後守牧野成貞が其父越中守儀成の為に寄進したものである(中略)。これは成貞が妹(?)玉心院が全勝寺に葬ってある関係からと伝えられた。
「どうであろう、新八郎---母御に、全勝寺で授戒を受け、尼になってもらっては---?」
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コメント
いまさらながらですが、牧野常子のリサーチ、みごとなものです。恒子姫がこれまで綱吉の側室ですまされてきていたのを、ここまで追いつめたのは、『鬼平犯科帳』の直接の人物ではないとはいえ、ちゅうすけ探偵のお手柄です。
投稿: 左兵衛佐 | 2010.11.24 08:51
大門の絵を見て記憶がよみがえりました。
鬼平めぐりの江戸散歩で、四谷3丁目からすぐの全勝寺は参詣したことがありましたが、書籍姫の恒子さんのことはどこにも表示がなかったので知らずにきました。
いつか、もう一度、詣でてみます。
投稿: tomo | 2010.11.24 08:57
>tomo さん
全勝寺へいらっしゃいましたか。
山県大弐の墓のことは標識がでていますが、常子のことは、もう墓がないので記載されていませんね。
ぼくも、祥山寺の裏の、おみねと徳三郎が毎夜地震をつくる長屋を訪ねたあと、行きました。
市ヶ谷八幡境内の料亭〔万屋〕の仲居をしているおみねがなぜ、全勝寺の門の前を通ったんだろうと不思議でしたが、江戸時代は6000坪---甲州街道に面してもいたようです。
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.24 17:13
>左兵衛佐 さん
菅沼新八郎の家り菩提寺を調べていて全勝寺と分かり、そこに牧野常子の墓があったことを読み、あれこれ史料をあたっているうちに、結びついてしまいました。
それで知ったのですが、将軍のお手つきで子をなさなかった女性の記録は、『徳川諸家系譜』に記されていないということでした。とすると、常子が側室であったということを、かつての筆者はなにに拠ったのでしょう?
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.24 17:17