カテゴリー「200ちゅうすけのひとり言」の記事

2012.06.17

ちゅうすけのひとり言(95)

「これは、ひどい!」
思わず声をだしてしまったのは、青木虹二さん『百姓一揆の年次的研究』(新生社 1966.04.109)の天明7年の全国一揆のリスト131~4ページ)に目を通したときであった。

この年、都市打ちこわしと農村一揆がはげ゜しかったことは、以下のコンテンツにもふれていた。

参照】2012年5月9日~[天明7年5月の暴徒鎮圧 ] (1) (2) (3) (4
2012年5月13日~[江戸・打ちこわしの影響] () () () () (
2012年5月18日[鎮圧出動令の解除の怪

しかし、江戸、大坂、駿府の都市型打ちこわしをふくめて、全国で51件もの一揆がおきていたとは、こころえていなかった。

同書によると、()内は天領の件数
天明1年   2件
   2     3  (2)
   3    20  (3)
   4     7  (1)
   5     1  (1)
   6     6  
   7    52 (16)

天明7年の天領とは、江戸、大坂、奈良、駿府、甲府、大津、堺、五条、枚方宿、京都、伏見、長崎、藤枝宿、丸子 、神奈川宿、八尾、古市であった。

騒ぎの原因を著者はほとんど、米価高騰としているが、もちろん、買占め、隠匿、売り惜しみもふくまれていることは容易に想像がつき、都市や主要街道の宿場、藩の城下町はそうで あったろうが、米の生産地では過酷な収奪にたいする抗議もあったようにおもうのだが、どうであろう。
 
個々の史料をあたっている余裕が、ちゅうすけにはいまのところも、これからもないので、概括であきらめておくよりほかない。
(自由に図書館へ行けないというのは、つらい)


これほどに幕府直轄領で騒ぎがおきれば、幕府の為政者――老中、勘定奉行、町奉行、遠国奉行、代官の責任が問われても仕方かなかろう。

田沼意次(おきつぐ)が去ったあとの老中は、

松平周防守康福(やすよし 71歳 石見藩主 6万400石)
牧野備後守貞長(さだなが 57歳 笠間藩主 5万石)
水野出羽守忠友(ただとも  57歳 沼津藩主 3万石
鳥居丹後守忠意(ただおき 71歳  壬生藩主 3万石)
阿部伊勢守正倫(まさとも  42歳 福山藩主 10万石)

家柄はいずれも申し分ないが、器量が大きく経験が豊富な老中は、水野忠友ぐらいであろうか。
幸い――といってはなんだが、この5藩の城下では、この年には一揆をみていなかったということか。
それだって、上掲書の記録漏れということもある――というのは、天明4年(1784)12月の信濃・松代藩へ平蔵(へいぞう 40歳)が出向いた一揆の記録が欠けていることからの類推だが。

参照】2012年1月20日~[松代への旅] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) 


将軍が未熟であれば、訓育者がしっかりと教導をしなければならなかったとおもうが、それにふれている論文を寡聞にして目にしていない。

家斉(いえなり)は、公式の文書からはうかがえないが、父・治済(はるさだ)の策謀家の性格をどれほど受けついていたのであろうか。

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2012.05.08

ちゅうすけのひとり言(94)

手術から約2ヶ月半、ブログを始めてから丸7年半、1日も休まずにつづけてきたが、そろそろ、幕をおろす時期が近いようだ。

この3ヶ日、微熱がつづき、右のわき腹下に疼痛が走りはじめてきた。

このところ気になっていたある発見を記しておいたほうがよさそうだ。

すでに脇から踏みだしているが、天明7年5月の全国にひろがった打ちこわしに関連した先手組10組の鎮圧動員の推察にかかわる疑問についてである。

ほんとうに10組であったのか?
ただし、これは、歴史学には素人のちゅうすけにとっての疑問であって、学者の方々にとってはとるに足らないことかもしれない。

学会では問題にもならない些事だから、これまでだれも問題にしなかったのであろう。

続徳川実紀』の天明7年(1787)5月23日の項にこうある。
( )内のデータの補充と組分け数字とその訂正はちゅうすけによる)


先手・弓組
2長谷川平蔵宣以    (のぶため 42歳 400石)
6松平庄右衛門穏光  (やすみつ 60歳 930石) 

先手・鉄砲(つつ)
7安部平吉信富     (のぶとみ 59歳 1000石)
6柴田三右衛門勝彭  (かつよし  64歳 500石)
16河野三右衛門通哲  (みちやす 64歳 600石)
19安藤又兵衛正長   (まつなが 60歳 330石)
17小野次郎右衛門忠喜(ただよし  55歳 800石)
2武藤庄兵衛安徴    (やすあきら47歳 510石)
9鈴木弾正少弼政賀  (まさよし  48歳 300石)

西丸・先手・鉄砲組
4奥村忠太郎正明    (まさあきら56歳 600石)

このほど市井騒擾により、今日より市中相巡り、無頼の徒あらばめしとらへ、町奉行の庁へ相渡すぺし。手にあまりなば切捨苦しからざるよし達せらる。
こは、近年諸国凶作うちつづき、米穀価貴くして、去年は関東洪水にて江都別して米穀乏しく、諸人困窮に及び末々餓死に至らんとす。しかるに市井の米商ども人の苦しみをかへりみず、をのをの米を買い込みしにより、無頼の輩集りて、左ぬる二十日の夜より市街の米商をうち毀り家財等を打ち砕きしにより、かくは仰出されしなるべし。


この名簿で、最若年の平蔵がまっ先にあがっているのは、先手組は弓が鉄砲よりも格式が上とされているからである。
武器としてき鉄砲だが、それが渡来以前は騎馬武士から大将まで弓を引いた。
鉄砲は雑兵のあつかいと軽んじられた。
日本武将による美意識だったのであろう。

年長で禄高も上の松平穏光よりも先に書かれているのは、組頭への発令が平蔵のほうが数ヶ月早かったから。
同じ職位では先任順に席をきめた。

だからといって、平蔵が総指揮をとったわけではない。

発令順でいうと、鉄砲組も河野通哲をのけると発令順になっている。
通哲が順をみだしている理由は不明。


つぎの名簿はちゅうすけが、『柳営補任』などによって作成したもので、先手組頭への発令年月日を添えた。


先手・弓組
2長谷川平蔵宣以(天明6(1786)年7月26日ヨリ)
6松平庄右衛門穏先(天明6年11月15日ヨリ) 

先手・鉄砲(つつ)
7安部平吉信富(安永5年(1776)5月10日ヨリ)
6柴田三右衛門勝彭(天明元年(1781)11月12日ヨリ)
16河野三右衛門通哲(天明5年(1785)11月15日ヨリ)
19安藤又兵衛正長(天明2年(1782)12月12日ヨリ)
17小野次郎右衛門忠喜(天明3年(1783)8月14日ヨリ)
2武藤庄兵衛安徴(天明4年(1784)10月28日ヨリ)
9鈴木弾正少弼政賀(天明7年(1787)正月11日ヨリ)

西丸・先手・鉄砲組
奥村忠太郎正明(天明6年(1986)閏10月8日ヨリ)


疑問は、『柳営補任』をめくっていておきた。

とりあえず、疑念のない先手・弓組の2人の記述を引用する。


長谷川平蔵宣為(以 ため)

天明六年七月廿六日西丸御徒頭ヨリ
同七未五月組召連可相廻旨
同六月一統御免、同十一月ヨリ増加役
同八申四月廿九日御免、同年十月二日定加役
寛政七卯五月十六日病気二付願之通火附盗賊加
役御免、久々骨折相勤候二付金三枚、時服二被
下之、悴辰蕨儀1 蕨出精相勤候二付、雨御番政
御番入被仰付
同年五月十五日卒

うち、次の2行が騒擾鎮圧にかかわっている。

同(天明)七未五月組召連可相廻旨
同六月一統御免


松平庄右衛門親遂

天明六午十一月十五日小十人頭ヨリ
同七未五月廿三日組共召連相廻候様
同六月十八日御免
寛政二戌九月廿六日卒


鎮圧令の発令は、(天明7年)5月23日
解除されたのは、 同6月18日
であったことがこれでうかがえる。


河野勝左衛門通哲

天明五巳十一月十五日他組ヨリ組替
同七未五月町中相廻り候様
同七月三日卒

病身をおして鎮圧に努めたのであろうか?
それとも、与(くみ)頭が代理の指揮をとったか?
没年は7月3日とあるが、これは辞任願いが受け取られた表向きの月日で、じっさいの臨終の日は6月下旬であったろう。
寛政譜』に出動のことが記されていないのは、与(くみ)頭が指揮を代行したからか?


小野次郎右衛門忠吉(喜 よし)

天明三卯八月十四日西丸御目付ヨリ
寛政十午二月十七日御鎗奉行

天明7年5月23日から6月13日までの記述がまった欠落しているのは、幕府史料に欠落していたからか? それとも出動令を受けなかったか?

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2012.04.26

ちゅうすけのひとり言(93)

先日来から病いに倒れたことの悔しさを、幾度も告白してきている。
人によっては、
「いいかげんにしろ……」
侮蔑の舌打ちをうっている方も少なくなかろう。

ちゅうすけ自身、女々しいなとおもっているのだから、侮蔑されて当然である。

じつは、こんなに情けないとおもったことは稀れなのだ。

一つには、声が満足に出ない。
理由は、喉にチューブを埋めたからである。
延命処置を受ける意思は毛頭ない。
池波さんの洗脳を受けたからいうのではないが、
「人は生まれたときから死に向かって歩いている」
これには共感している。

ところが、喉のチューブを埋めないと、余命は「2ヶ月」といわれた。
喉頭のガンが急繁殖しており、呼吸困難で絶命すると。
それは困る。
せめて、ブログの結末をつけるまで、2ヶ月間はパソコンにむかっていたい。

それで喉を切開してチューブを入れることにした。
水、酒、食物は一切喉を通らなくなって丸2ヶ月経過。
生命は24時間の静脈点滴でつないできている。

喉を切開したため、家人のほかには言葉がうまく伝わらないので、電話も取材もできない。
点滴で体力が落ちて、外出もままならない。

まえまえから計画していた、越後・与板藩主の井伊兵部少輔直朗(なおあきら)に嫁いだ田沼意次(おきつぐ)の三女の墳墓の確認ができない。
昨日、家人に電話をかけさせ、墓がたぶんあるとみた文京区小日向四丁目の徳雲寺に行かせたが、わからなかった。
徳雲寺と推察したのは『寛政譜』の直朗の亡父・直存(なおあり)の項に徳雲寺と記され、直朗をのぞくあとの人たちに「直存と同じ」とあったからである。

そのまま、別の史料をチェックしないできていたが、徳雲寺の言質があいまいだったので、ほかの史料を確認したら、どういうわけか直朗だけ、墨田区向島5-3-2 の黄檗宗の名刹・弘福寺となっているではないか。

614

弘福禅寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


さっそく電話で確認をとったが、紹介状もなしに電話で問い合わせることの非礼がとがめられたのか、ほとんど情報はえられなかった。
機会をあらためるしかないが、生命の灯が点(つ)いているあいだに善意がつうじるといいのだが。


もう1件は、将軍・家治(いえはる 享年50歳)が崩じた天明6年(1986)に、あとを追うように先手・弓の6番手の組頭新見豊前守正則(まさのり 59歳)が永眠し、後任に(能見松平庄右衛門親遂(ちかつぐ 59歳 930石)が就いたことは、昨日までの[先手・弓の目白会]に報告しておいた。

この松平親遂の継室が平蔵の本家・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 享年83歳=寛政4)の長女であるが、手元になんの史料もないので、本テキストではそのことに触れないことにした。
名前、年齢、なした子も一切不明なのである。
本家の子孫は現存してい、ご当代は長谷川雅敏さん、鬼平を研究されている。
平蔵家のほうは依然として不明のままである。


1_2
Photo_3
Photo_4

(能見・松平庄右衛門親遂の個人譜 先手・弓の6番手組頭)

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2012.04.10

ちゅうすけのひとり言(92)

これまで、うっかりして、先手組の与力は200石、同心は30俵2人扶持――と書いてきたような気がする。
さらに、屋敷は与力200~300坪、同心100坪とも。

じつは、この数字は町奉行所の与力のものであることに、先日気づいた。
その町奉行所の与力の俸給にしても、知行地がお縄地でわたされているので、格によって220石の格上与力もいれば170石という格下与力もいたらしい。

_170信用できる文献である松平太郎さん『江戸時代制度の研究』(復刻 柏書房 1964)を取りだし、改めて調べてみた。
この貴重な著作は上巻にあたる部分が刊行されただけで、下巻の草稿は焼失して未刊のまま現在にいたってい、上巻に書かれているのは先手組一般ではなく、その中の火盗改メを/命じられた組の与力についてである。

与力は秩禄200石より現米80石と明記している。
どういうことかというと、知行地を与えられたときの取れ高は200石だが、この中には采地主分と農民の取り分がふくまれている。

采地主分を4割、農民の取り分を6割とすると、表向き200石の采地のばあい、采地主分は200石×0.4で80石(800斗)である。
1俵を4斗入りとすると200俵となり、3斗5升入りでは228.57俵である。

江戸時代小説が描いている奉行所の与力の200石の実際は上のとおりだ。

米価は時代と豊・不作によって大きく変動したが、概算では現米1俵1両(16万円)と見られていた。
与力の秩禄200石は現米の80石……200俵(16万円×200俵=3,200万円)。

組頭が火盗改メを命じられると、先手組の与力には上記に役扶持が20口(1日10升)が加えられる(1升が100文の米相場なら1000文、1両=16万円として4朱=1分 4万円)。
個人が取ったのか組でプールして諸費用にあて、残りを各与力に分配したのかはどうかは不明。

組屋敷の敷地のひろさはどうか。

新宿区に「二十騎町という町名の区画がある。
江戸時代に先手・弓の1の組と9の組の与力それぞれ10ずつの屋敷が集まっていた珍しい区域であったので、明治になってからけられた町名である。

_169その記録があるというので、新宿歴史博物館を訪ねた。
係の人に訪意をつげると、どこかにある書庫から鈴木貞夫さんによる『二十騎町先手組』と題したB5版50ページほどの報告書をだしてきてくれた。

江戸時代の所在地を現在の地図に重ねると、市谷高良町の東で1の組の与力は俗称・牛込元天竜寺前に南北2列に5軒ずつ、弓の9の組は同・牛込天竜寺前に同じく2列に5軒ずつ並んでいたらしい。

安政3年(1856)に幕府屋敷改メが作成した『諸向地面取調書』は、弓1の組の与力10軒の拝領屋敷の総面積は3,978坪で、1戸あたり345坪から390坪が下賜されていたと。

この坪数は、弓2の組の目白坂上の組屋敷で与力衆に割りふられていたものと大差ないとみなしていいのではあるまいか。

345坪から390坪といえばかなり広大であるから、中には医師とか幕臣に敷地の一部を貸していたものもあったであろう。

同心についても『二十騎町先手組』は『地面取調書』から引いている。

組屋敷 牛込佐渡原町 2,352坪は同心13人分で、1人につき155坪余から200坪。内138坪は矢場。
敷地の半分以上は前庭・裏庭にあてられており、四季の花木を賞(め)でていたろう。

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2012.03.30

ちゅうすけのひとり言(91)

これまでの[ちゅうすけのひとり言]
()内のオレンジの数字をクリックでリンクします。


91)ちゅうすけのひとり言・これまで 2012.03.30

90)平蔵発令時の先手組頭たちの系列 2012.03.29
89)平蔵発令時の先手組頭たちの初見の年齢 2012.03.28
88)先手組組屋敷の分布 2012.03.27
87)側用次・小笠原信喜と紀州衆・小笠原胤次の関係 2012.03.11
86)松平定信と水野為永の隠密好き 2012.02.22

85)平蔵の異妹・与詩の半生 2011.12.17
84)播州別所の英賀城と三木氏2011.11.29
83)守山藩邸の春占園2011.11.28
82)大塚吹上の守山藩邸2011.11.27
81)ちゅうすけのひとり言・これまで 2011,.11.

80) 下(しも)の禁裏附・水原摂津守保明と平蔵の妹・多可 2011.11.21
79) 禁裏附の職務 2011.11.20
78) 後藤晃一さん『徳川家治の政治に学べ』感想(2011.)  2011.10.31
77) 足高(たしだか)の実禄 2011.09.20
76) 長谷川久三郎家の知行地の移転 2011.09.09

75) 長谷川平蔵宣以の第三女謎 2011.09.08
74) 『群馬県史』の記録にみる長谷川2家・続 2011.07.20
73) 『群馬県史』の記録にみる長谷川2家 2011.07.19
72) これまでのお気に入りコンテンツ 2011.07.08 
71) ちゅうすけのひとり言・これまで 2011.086.28

70)若女将・お三津の企みごと……2011.06.28
69)「大岡政談」の[火盗改メ] 2011.0329
68)「今大岡」と呼ばれたが…… 2011.03.28
67)次男・銕五郎の養子が決まったのは……2011.03.27
(66)一橋家の豊千代のお;礼先……2011.02.14

65)将軍・家治(45歳)の世嗣を選んだ面々 2011.02.13
64)豊千代、将軍養子として登城日の儀 2011.02.12
63)目黒・行人坂大火時の火盗改メ役宅の火難 2011.02.07
62)安倍平吉の火盗改メ・増加役考 2010.09.19
61)「ちゅうすけのひとり言」これまで 2010.07.11

60) 長篇[炎の色]の年代 2010.07.07
59) 家治の日光参詣に要した金額など 2010.O6.05
58) 松平賢(まさ)丸(定信)の養家入りの年月日 2010.06.04
57) 日光参詣に参列・不参列の先手組頭リスト 2010.05,26.
56) 世嗣・家基の放鷹で射鳥して賞された士 2010.05.09

55) 平蔵以前に先手・弓の2組々頭11人のリスト 2010.05.08
54) 世嗣・家基の放鷹へ出た記録 2010.05.07
53) 渡来人の女性の肌の白さ 2010.03.31
52) 三方ヶ原の精鎮塚 2010.03.04
51) 禁裏役人の汚職の文献など 2010.01.23
50) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.04
49) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.03
48) 安永2年10月7日の跡目相続者 2010.01.02
47) 安永2年8月5日の跡目相続者 2010.01.01
46) 安永2年7月5日の跡目相続者 2009.12.31
45) 安永2年6月6日の跡目相続者 2009.12.30
44) 安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.29
43)安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.20
42) 安永2年2月11日の跡目相続者 2009.12.19
41)平蔵が跡目相続を許された安永2年(1773)の跡目相続人数 2009.12.18

40) 禁裏役人の汚職捜査の経緯
39) 3人の禁裏付
38) 禁裏付・水原家と長谷川家
37) 備中守宣雄の後任・山村信濃守良晧(たかあきら 
36) 備中守宣雄への密命はあったか?
35) 川端道喜
34) 銕三郎・初目見の人数の疑問
33) 『犯科帳』の読み返し回数
32) 宮城谷昌光『風は山河より』の三方ヶ原合戦記
31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13

) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

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2012.03.29

ちゅうすけのひとり言(90)

先手組頭ついでに、平蔵が仲間に加わったときの組頭たちの家系のかつての所属を調べたものを公開しよう。

大久保弥三郎忠厚(ただあつ)  66歳 1550石  譜代
村上内記正儀(まさのり)     70歳  1550石  譜代
長田甚左衛門繁走堯(しげたけ) 64歳 1300石  譜代
倉橋三左衛門久雄(ひさお)   78歳  1000石  譜代
万年市左衛門頼意(よりもと)   68歳 1000石  譜代
杉浦長門守勝興(かつおき)   67歳  620石  譜代
柴田三右衛門勝彭(かつよし)  63歳  500石  譜代
安藤又兵衛正長(まさなが)   41歳   330俵  譜代

長谷川平蔵宣以(のぶため)   41歳  400石  今川
清水権之助義永(よしなが)    66歳 1000石  今川・武田

市岡左大夫正峯(まさみね)    82歳 1000石  武田
大井大和守持長(もちなが)    72歳 1000石  武田
安部平吉信富(のぶとみ)     57歳 1000石  武田
酒依清左衛門信道(のぶみち)  69歳  900石  武田
新見豊前守正則(まさのり)    59歳  700石  武田
河野勝左衛門通哲(みちやす)  63歳  600石   武田
篠山吉之助光官(みつのり)    72歳  500石   武田

土方宇源太勝芳(かつよし)    43歳  1560石  織田 
堀 帯刀秀隆(ひでたか)      5 1歳 1500石  織田
松波平右衛門正英(まさひで)  65歳   700石  織田
中山伊勢守直彰(なおあきら)  71歳   500石  織田

山中平吉鐘俊(かねとし)     66歳 1000石   佐々木
浅井小右衛門元武(もとたけ)   77歳  540石   佐々木

田屋仙右衛門道堅(みちかた)  72歳 300俵   紀伊
浦上近江守景邦(かげくに)    58歳   300俵   紀伊

遠藤源五郎常住(つねずみ)   70歳 1000石   足利
一色源次郎直次(なおつぐ)    67歳 1000石   足利

清水与膳豊春(とよはる)     78歳  380石   山名

柘植五郎右衛門守清(もりきよ) 68歳  330石   伊賀

三上与九郎季良(すえかた)   73歳  600石   豊臣
清水与膳豊春(とよはる)     78歳  380石    増田

黒川友右衛門正香(まさか)   50歳 1800石   上杉

押田信濃守岑勝(みねかつ)   66歳 1000石   北条


こうしてリストを眺めてみると、先手組頭という平時はほとんど用のない番方系のポストも、各名門系家臣団から不満がでないように、いかにも公平らしく登用しているように思える。

その実、損耗率の高い先手組には、譜代は少なめに配置しているのだ。

それはさておき、今川・徳川系は長谷川平蔵ただひとり。
派閥を好むわけではなく、分をわきまえながら親しい仲間と助けあうことを亡父・宣雄(のぶお)からきつくいわれている平蔵とすると、むしろ、組頭の席に永く居座る覚悟をきめている年配の好人物とこころを割って話し合いたいとおもっていたのではなかろうか。

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2012.03.28

ちゅうすけのひとり言(89)

退院し自宅ケア体制にはいって2週間が経った。
自宅にもどったといっても、以前の書斎と書庫のあるフロアーのほうではなく、ベッドと医療器、パソコンと少しばかりの史料をもちこんで新しく整えた部屋である。

痛みどめ薬の影響で、躰がけだるい。

書斎から持ちおろしたこれまでにつくっておいた史料をめくっていて、「これは……」と感じたものをちびちびと[ちゅうすけのひとり言]のコーナーに揚げておくことをおもいついた。
いまやっておかないと、陽の目をみることもなく捨てられそうにおもえたからである。
後進の鬼平ファンがムダな労力をつかわなくてもすむようにネットに記録しておこう。

トップバッターは……と力むほどのことはないが、平蔵が先手組・弓の2番手の組頭を拝命した天明6年(1786)7月26日現在に席にいた先任組頭たちの初目見えと家督は幾つのときであったかというリストである。

これは、平蔵(へいぞう 41歳)の初見が23歳であり、これに対してある人が聖典『鬼平犯科帳』の継子いじめからきた放蕩が幕府に聴こえたので遅れたのであろうと推察されていた。

23歳の初見が遅いいかどうかは、その前後のいくつかの例をひかないと結論がでないはず。
で、ひとつは、平蔵と同日に初見した若者の氏名を記した『徳川実紀』をひいて検討した。

参照】2008年12月1日~[銕三郎、初お目見(みえ) ] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

ただし、このときの初見者を確認のために『寛政重修l諸家譜』をあたったところ、『実紀』に記録されている30名なんかではなく150名を超えていることがわかった。

参照】2009年5月11日~[銕三郎、初見仲間の数] () () () () (


先任組頭たちの場合は、時代に30年ばかり幅もあるので、年代的な変化の寸見もできようか。


長谷川平蔵が発令されたときに在任していた先手組頭の初見年齢と家督年齢(降順)

氏名         天明6 家禄    初見年齢   家督年齢       

市岡左大夫正峯  82歳 1000石    23歳     39歳
倉橋三左衛門久  78歳 1000石    21歳     11歳(祖父の死)   
浅井小右衛門元武 77歳  540石    11歳     11歳(祖父の死)
柘植五郎右衛門守清74歳  330石     22歳     32歳
三上与九郎季良  73歳  600石    32歳     32歳

田屋仙右衛門道堅 72歳  300俵    19歳      21歳
大井大和守持長   72歳 1000石    34歳      34歳
中山伊勢守直彰   71歳  500石    18歳      18歳
篠山吉之助光官   71歳  500石    25歳     25歳
遠藤源五郎常住   70歳 1000石    20歳     20歳

村上内記正儀     70歳 1550石    14歳     14歳
酒依清左衛門信道 69歳  900石     22歳     22歳
万年市左衛門頼意 68歳 1000石    19歳     19歳
一色源次郎直次   67歳 1000石    16歳     22歳
杉浦長門守勝興   67歳  620石    15歳     40歳  

大久保弥三郎忠厚  66歳 1550石   17歳      27歳
長田仁左衛門繁尭  66歳 1300石   36歳      36歳
山中平吉鐘俊     66歳 1000石   17歳     16歳
松波平右衛門正英  65歳  700石   16歳      25歳
長田甚左衛門繁   64歳 1300石   36歳      35歳

新見豊前守正則   59歳  700石    15歳      17歳 
浦上近江守景邦   58歳  300俵     9歳      ?歳
小野次郎右衛門忠喜54歳  800石    18歳      17歳
堀 帯刀秀隆      51歳 1500石    23歳      23歳
黒川友右衛門正香 50歳 1800石    23歳      34歳

長谷川平蔵宣以  51歳  500石    23歳     29歳  

平蔵と初見の歳月・年齢が不詳の8人を除いた25名の初見合計年齢521歳を25で徐すると20歳9ヶ月。
平蔵はちょっと遅かったなという程度。

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2012.03.27

ちゅうすけのひとり言(88)

「お頭(かしら)が火盗改メを拝命してみろ。われわれは三ッ目通り菊川町まで、毎日、3里(12km)の道を往還することになるんだぞ」
「桑原、くわばら」

長谷川平蔵(へいぞう 41歳)を先手・弓の2の組の頭に迎えた同心衆が、陰で愚痴とも軽口ともつかない悲鳴を洩らしていることを、平蔵はしらぬわけではない。

しかし、火盗改メの臨時役は自分から望んだわけではない。
盗賊や放火犯をとらえてもともと、実績をあげなければ無能と評価をくだされる割には、役得があるという席ではない。
そもそも、盗賊が手ごころを期待して賄賂をよこすわけはない。

平蔵のいい分とすると、34組ある先手のどの組に――ということは、とりもなおさず役宅と組屋敷との遠近の配慮を、上の方々が優先して人選するはずなどないに決まっておる。
先手組の組子として俸禄をえているなら、それくらいのことは覚悟しているべきであろう。

先手組といえば、いざ戦闘となれば最前線で戦うのが職務である。
通勤道のりの遠近をいたてるなどの平和ボケは、いい加減にしておけ。

平蔵のほうが正論である。
が、正論、かならずしも世論とならないのも世の常。
だから平蔵は反駁しない。
耳を貸さないでいるだけである。

彼らを追従させる秘策は別にある。

ところで幕府は、別の意図にしたがって34組の与力・同心の組屋敷を配置していた。
それを考察する前に、組屋敷の配置の具合を見てみよう。
(史料は寛政3年の『武鑑』による)

鉄砲の2番手 牛込中里

鉄砲の11番手 牛込榎町

鉄砲の12番手 牛込榎町

鉄砲の18番手 牛込榎町

鉄砲の18番手 牛込榎町

西丸の1番手 牛込榎町

西丸の2番手 牛込榎町

A_360_2

(白切絵図 牛込北辺の先手組屋敷)


弓の1番手  牛込山伏町

弓の7番手  牛込山伏町

A_360_3

(白切絵図 牛込山伏町の先手組屋敷。 下は与力の現・20騎町
 上部は上の切絵図と重なる)


弓の2番手  目白台

弓の4番手  目白台

弓の6番手  目白台

A_360_4

(白切絵図 目白坂上の台地。関口台ともいう)


弓の5番手  四谷本村

弓の8番手  四谷本村

弓の8番手  四谷本村

鉄砲の4番手 四谷伊賀町

鉄砲の6番手 四谷舟板町

鉄砲の10番手 四谷本村鍋弦

鉄砲の10番手 四谷左門横町

鉄砲の17番手 四谷本村

西丸の4番手 四谷本村

A_360_5

(白切絵図 四谷 先手組屋敷 甲州街道への備えからか最多)


鉄砲の1番手 麻布谷町

鉄砲の7番手 龕前坊谷(がぜんぼうだに)

鉄砲の8番手 龕前坊谷(がぜんぼうだに)

A_360

(白切絵図 麻布・赤坂 先手組屋敷)


鉄砲の5番手 本郷森川宿

鉄砲の14番手 駒込片町

鉄砲の15番手 駒込片町

A_360_6

(白切絵図 本郷・駒込 先手組屋敷 上=北)


弓の3番手   本所四ッ目

弓の7番手   竜土町

弓の9番手   駿河台さいかち坂

鉄砲の3番手  湯島苗木山

鉄砲の9番手  伝通院前 

鉄砲の16番手 小日向 

鉄砲の19番手 市谷五段坂   

鉄砲の20番手 大塚御箪笥町

西丸の4番手 青山権田原

設営時には、いざとなればできるかぎりすばやく幹線街道へ達することが可能な位置に置かれたように推測しているのだが。

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2012.03.11

ちゅうすけのひとり言(87)

有明のがん研病院の個室病棟での夜明けの4時ちょっと前からこの[ちゅうすけのひとり言]をしたためている。
じつをいうと、[小笠原若狭守信喜])としてもよかったのだが本題からそれそうなので、[ひとり言]のくくりにした。

昨日家人に、本郷の書斎から[紀州藩からのご家人(けにん 新しく幕臣になった武家) 300石以上]と表題をふったファイルを持参してもらっていた。
([300石以上]をつくっているからには[299石以下]のファイルもつくってあることはいうまでもないが、きようの話題には[以下]の家はかかわりがない)

ファイルの本体は、『寛政重修書家譜』を各家ごとにA4版の用紙に規格をそろえて貼りなおして一覧性を高めたものの集積で、50音順に綴ってある。。

なぜ、いつごろ、こんな大部なものをつくったかは、

参照】2008年2月14日~[ちゅうすけのひとり言] () (

つくるのに3ヶ月ほどかかったが、この2年ほどは手にしていなかった。

ファイルの冒頭には、静岡のSBS学園の[鬼平クラス]でともに学んだ安池さんからいただいた『南紀徳川史』のコピーが目次がわりに綴じてある。
コピーは、吉宗にしたがって江戸城入りした115名の藩士の名簿である。

今回の探索の主旨は、小笠原若狭守信喜(のぶよし 7000石 享年74歳)と小笠原主膳胤次(たねつぐ 4500石 享年62歳=享保3年 1718)の関連をたしかめるためであった。

名簿には、小笠原家が3家あがっている。
その筆頭が、

小笠原 主膳(紀州藩で若年寄 2500石) 江戸城では御側

寛政譜』の冒頭に---


家伝に、信濃守長高は小笠原修理大夫貞朝が長男なり。
長高5歳の時母死せしにより、父貞朝ふたたび海野弥太郎幸高が女を娶りて信濃守長棟を生り、継母長棟をして家を継しめむと欲し、長高を父に讒するにより父子不和となり、長高つゐに信濃国を去て尾張国にいたるといふ。
按ずるに貞朝長棟は旧家清和源氏義光流小笠原右近将監忠苗が家代々正統の祖なり。
しかるに彼系図に所見なきにより忠苗が家にたづぬるのところ古系図に長朝が男長高なるものたえてみるところなしとこたふ。
これによれば家殿うたがはしといへども、しばらく其よしをここにしるす。

尾張の武衛家に属した長高から系図をはじめている。
遠江・浅羽庄で馬伏(まぶし)城に住していた縁で徳川に仕え、後裔・清政(きよまさ)が頼宣(よりのぶ)にしたがって紀州へくだった。


名簿の13人目が信喜の養家の祖にあたる、


小笠原三右衛門正信(紀州藩で具足奉行 30石) 江戸城では小納戸800石

寛政譜』の頭書に---


家伝に、その先は藤原氏藤原氏にして遠江権守為憲の末葉左近将監清信、遠江国堀江に住せしにより地名をもって堀江を称す、その男四郎右衛門信峯今川家に属し、のち小笠原信濃守長高一族に準じてその屋号を授与せしより、氏を清和源氏にあらため小笠原を称す。信倫は其男なりといふ。

この信倫(のぶとも)は今川家につかえ、永禄11年一族とともに人質をたてて家康の陣営に加わり、三方ヶ原の合戦で武田方の2人を討ちとり戦死。


む---、
今川方から徳川方につき、三方ヶ原で戦死というと、長谷川平蔵宣以(のぶため 40歳)の祖・紀伊守正長(まさなが 戦死33歳)と弟・藤九郎(戦死19歳)とおなじ陣営に配置されていたのかもしれない。

これは、見逃せないぞ。

参照】2008年6月13日[ちゅうすけのひとり言] (14

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2012.02.22

ちゅうすけのひとり言(86)

田沼意次(68歳)の重商派政権を、策謀をもって倒した旧守農本派グループは、白川藩主・松平定信(30歳)を老中首座にすえ、組閣した。
そのとき、幼な学友・水野為長が徒目付、小人目付などに所属している下級隠密を、柳営内はもとより江戸および近郊のあちこちに放って噂ばなしをあつめた報告書が『よしの冊子(ぞうし)』である。

松平家に永く秘匿されていたらしいが、同家が白川藩から伊勢・桑名藩へ転封(文政6年 1823)になったとき、田内親輔(月堂)が発見・抄録し、各項が、「---なんとかのよし」でむすばれていたことから「よしの冊子」と名づけられたという。

報告書の内容は、最終の読み手である定信におもねる気配が濃厚で、田沼派と目されている人物には故意に点が辛く書かれている。

その扱いうけた一人が長谷川平蔵であることはいうまでもない。

参照】1909念8月16日~[現代語訳『よしの冊子』まとめ] () () () () () (6

報告書が呈上されはじめた天明7年(1787)6月19日から3年目の寛政元年あたりまではその匂いが濃く、定信平蔵観はそのあいだに深く刷りこまれた観がある。

ファースト・インプレッションといってもよかろうか、定信の長谷川平蔵嫌いは、この『よしの冊子』報告書に拠っていると推察しているのだが。

もちろん、『よしの冊子』の価値を全否定するつもりは毛頭ない。
長谷川平蔵と同時代の人間が聴いて書いた文書として貴重ある。
こころして読めば、貴重に手がかりがえられる。

定信としては、当初は下情に通じたいとの帝王を真似た心情もあり、やや熱心に目を通したようだが、そのうち、あまりにも隠密たちの目線が低いことに気づき、ほとんど目を通さなくなったらしい。

長谷川平蔵に関しての隠密たちの評価ががらりと変わり、火盗改メの長官として意をつくしており、江戸町人たちからも大岡越前守忠相の再来ともてはやされるようになっていることが書かれているころにはもう、定信の目にとどかなくなっていた。

長谷川平蔵にとって、そのことが幸いであったか不幸であったかは、一概にはきめられない。

じつは、きょうの「ひとり言」は、そのことを述べるつもりで書きはじめたのではない。

幼な学友の隠密好きは、公の老中着座を機に始まったものとは思えない。
天明3年(1783)10月16日に白河藩主として封を継ぐ以前、養父・定邦(さだくに)が中風で倒れたあたりから、水野為長に命じて江戸藩邸、白河領内に隠密を放ち、情報を収集していたのではないかとの疑念が生じてきた。

この疑念が、定信についての諸書に語られたことがないのは、『よしの冊子』が松平家において永いあいだ門外不出の扱いをうけ、秘匿されていたことから考え、同家には白河藩内版「よしの冊子」がいまだに秘されつづけているのではないか、との疑念が解けないでいる。

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