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2011.03.28

ちゅうすけのひとり言(68)

時代が前後するが、平蔵(へいぞう)の次男・銕五郎(てつごろう)が一族の長谷川栄三郎正満(まさみつ 4070石)の養子となり、正満と後室とにあいだに生まれたむすめを室としたことは、(67)に記した。

正満の後室は、大岡越前守忠相(ただすけ 享年75歳 1万石)の孫むすめであることも明かした。
もっとも、銕五郎あらため久三郎正以(まさため)が華燭の典をあげたときはおろか、孫むすめが正満の後室となったときにも、越前守忠相はすでに没していた。

没してはいたが、名奉行としての高名は、語りつがれていた。

名声は、平蔵が火盗改メとして業績をあげるにつれ、江戸庶民あいだで「今大岡」という呼び名が冠されたことが庶誌に記されている。


_100参照】2006年07月27日[「今大岡」とはやされたが]

上のコンテンツを書いた5年前、買って読んだはずの大石慎三郎さん『大岡越前守忠相』(岩波新書 1974.4.22)が書庫でみつからなかったので、同じ大石さんの好著『江戸転換期の群像』(東京新聞出版局 1982.04.23)を紹介した。

大石さんの大岡観は、紀州藩主から将軍となり幕政改革に手をつけた吉宗に、普請奉行としての実績で町奉行に41歳で抜擢され、その職に19年の長期にわたって在職し、享保の改革の推進者の一人として活躍、その後も寺社奉行の職にあった能吏としての人物像である。


1_100辻 達也さんが編みかつ詳細な考究を付した『大岡政談 1・2』(東洋文庫 1984.07.10 & 12.10)に、明察や頓知、人情や条理の大岡裁きとして流布しているものの多くは、支那の裁判もの---『棠陰比事(とういんひじ)』の換骨奪胎と、大岡越前守以外の町奉行たちの裁決が借りられたものであると明かされている。

さらには、語りの中身を『平家物語』などから裁きものへ移していっていた講談師たちが、語りを書本(かきほん)として貸本屋へわたしたことで、庶民の興味の一つが公事(くじ 裁判)へ向いたであろうと推察されている。

もちろん、庶民が裁判の公平と情状酌量を求めるのは、洋の東西、時の古今を問わない基底の心情であるから、名裁判官として大岡越前守の虚像が、庶民のあいだに形成されていったのも不思議ではない。

大石さん主導のシンポジウムを記録した『江戸時代と近代化』(筑摩書房 1986.11.10)の「柔軟だった江戸の行政と人材登用」の章で大石さんは「一事両様から一事一様に」との項目で゛、

現在の政治は、法律の体系があり、その法に基づいて積んだ:経験、つまり判例がある。法と判例が政治の運営上の大きな柱になっているのですが、江戸初期の段階までは法律と判例は、本来の政治にとってしむしろ有害であるという考え方を幕府ししていました。

儒教に反するとの考えに基づいていた。
しかし、商業の発展により、一物一価の考え方がひろまった。
法律の解釈にもそれが及んだというのである。
儒教的な政治はもう無理だと感じていた吉宗は、

よるぺき法規範がなければいけないと考えた---そのためにはまず今までの残っている法令の編纂をする必要がかるというので、法律の編纂事業に力をいれます。現在の残っている『御触書集成』というのは吉宗のそういう考えに基づいて編纂された幕府の基本法です。

ちゅうすけの弁解】『御触書集成』(岩波書店 1934~)は全冊そろえて所有し、適宜、参照していたのに、3月11日の東日本地震で書斎の書棚が倒壊し、蔵書が散乱、いまだに整理がすすんでいないていたらく。申しわけないが、この書籍についての紹介は、歳月をあらためてということにさせてください。

「一事一様」は、法の適用面からいえば合理的であるが、庶民感覚では「一事両様」のほうが人情が入る余地がある。
大岡裁きがつくりものとしても、庶民が買っているのは大岡越前守の人情味のある裁きであったろう。

長谷川平蔵が「今大岡」と当時の江戸市民から讃えられたのも、人情味のある裁き---一事両様の使い方の巧みさによっていたようにおもうのだが。

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