ちゅうすけのひとり言(67)
天明元年(1981)10月に生まれた次男は、銕五郎(てつごろう)と名づけられた。
さすがに、嫡子・辰蔵(たつぞう 13歳)に気をつかい、平蔵(へいぞう)宣以(のぶため)の幼名の銕三郎(てつさぶろう)とはつけなかった。
次男であるから、長男の辰蔵が順当に育てば、養子に出なければ、一生、辰蔵の厄介者としてくらさなければならない。
養子がきまったのは、父の平蔵(へいぞう)が歿する前年---寛政6年(1794)あたりと推察している。
銕五郎(てつごろう)が14歳、養父の長谷川栄三郎正満(まさみつ 4070石)が50歳で、後妻が産んだ男子が10歳で早世したときであった。
(長谷川一族の系図)
正満の長谷川家は、一族の3家の中では飛びぬけて高禄であった。
長谷川3家とは、すでに記した本家---火盗改メで後年は先手・弓の2の組頭であった太郎兵衛正直(まさなお 1450石)の祖・彦九郎正成(まさなり)、平蔵が遺跡相続をしたときに小普請組の支配であった久三郎正脩(まさむろ)と紹介したが、この家の祖・久三郎正吉(まさよし)は、11歳で出仕し、家光に寵愛されたか、4070石と納戸町に2500坪を上まわる屋敷と千駄ヶ谷に2万坪もの下屋敷地を拝領していた。
3家の祖は、徳川勢として三方ヶ原で戦死した紀伊(きの)守正長(まさなが 享年37歳)の遺児であった。
父・正長が戦死したしき、長男の正成は8歳、次男・宣次(まさつぐ 平蔵の長谷川家の祖)は7歳、正吉は5歳であった。
長男の正成は13歳(天正4年 1576)で家康に呼びだされたが、次男・宣次はなぜか17歳(天正10 1582)と遅れた。
3児とも母親が異なっていたようにも推察しているのだが---。
すでに記したことの復習になるが、長谷川家は大和の初瀬(はつせ)から駿河の小川(こがわ)湊(現・静岡県焼津市のうち)に定着し、今川の重臣として栄え、法栄長者とよばれた富豪もあらわれた。
【参照】2006年5月23日~[長谷川正以の養父]
家禄4070石といえば、大身である。
一族関係者のだれもが、その養子を狙っていたろう。
正以(まさため)がそこの養子になれたのには、平蔵の実力が大いにものをいったとおもう。
とともに、正満のむすめ婿として年齢的に合致していたこともあったろう
正満は、なぜか一生、役に就かなかったが、後妻にはあの大岡越前守忠相(ただすけ 享年76歳 1万石)の孫むすめを娶っていた。
正以が妻としたのは、その孫むすめが生んだ子であった。
前途が約束されていたのは明らかであった。
(長谷川宣以・正以親子の個人譜)
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