長谷川正以の養父
長谷川平蔵宣以(のぶため)の次男で、4000余石の寄合肝入格の長谷川栄三郎正満(まさみつ)の養子となった銕五郎正以(まさため)のことには、すでに触れた。
【参照】2007年8月8日[銕三郎、脱皮] (4)
で、養父・正満を紹介しながら、長谷川家の祖先について述べたい。
池波さんは、『鬼平犯科帳』文庫巻3の[あとがきに代えて]で、
平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)
のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎
左衛門政宣(まさのぶ)の代になって、大和の国・長谷川に
住し、これより長谷川姓を名のつた。
と、太田亮『姓氏家系辞書』から引いている。
のち、藤九郎正長(まさなが)の代になってから、駿河の国
・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元
(よしもと)につかえた。
『寛政重修諸家譜』からの類推である。
なぜ、類推というかというと、今川義元につかえていたのは、正長の数代前から小川(こがわ)城主(現・焼津市)としてで、義元が桶狭間で織田信長に討たれたとき、田中城主(現・藤枝市)も戦死したので、正長が小川城から田中城へ移ったのが、史実だからである。
小川における長谷川家について、司馬遼太郎さんが北条早雲の後半生を描いた『箱根の坂 中』(講談社文庫)から、引く。
小川(こがわ)村は、こがわ(ヽヽヽ)という名の一筋の川
が駿河湾の西の一角に流れこむ河口にある。そこに湊
(みなと)がある。(略)
小川村はいまは焼津(やいづ)市に属してしまっているが、
早雲たちの当時は、焼津はただの田舎にすぎず、小川村
のほうこそ、
「小川湊(あるいは小河の津)」
などと呼ばれて大いに栄えていた。(略)
この浜では、塩がつくられる。
(塩は、小川村の法栄(ほうえい)の富の基礎(もと)だ)
と、早雲は考えていた。(p51 新装版p60)
法栄(死後は法永)---この長者こそ、平蔵を含めた長谷川家一門の祖であることは、静岡県では周知といっていい(鬼平に興味のない人は、もちろん、論外である)。
京から今川義忠に嫁いで竜王丸を産んだ千萱(ちがや)---北川殿---は、早雲の妹格で、義忠の戦死後の家督あらそいに、竜王丸を擁した早雲と法栄長者が、反対派と争う。
それはともかく、法栄長者は、曹門の寺院を開基した。林叟禅寺(現・焼津市坂本)である。
坂本の山裾にある林叟禅寺の鐘楼とその奥の本堂
したがって、法栄長者夫妻は、当寺へ葬られた。
天明年間(正満40~47歳)、正以を養子に迎えて後継のことを安堵(あんど)した長谷川栄三郎正満は、祖先の故里である小川村を訪れ、林叟禅寺に墓参、衰えていた法永長者夫妻の墓を、墓域の中心---ホルトの大樹の下に新しく2基建てた。現存しいるのがそれである。
向って右が法永の、左は夫人の墓石
正満はさらに、長谷川家先祖代々の位牌と、法永の位牌を奉納し、永代供養の費を寄進した。位牌はいまなお位牌殿の最高席に安置されている。
長谷川家先祖の位牌(中央)と法栄長者夫妻の位牌(左)。
長者の法号・林叟院殿扇伴菴法永大居士
夫人の法号・長谷寺殿松室貞椿大姉
この3月の参詣が4度目であった。初回は2年前に畏友・中林正隆氏に案内された。
長谷川家の歴史探求の一端である。
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コメント
鬼平犯科帳から、此処まで探求している研究者って他にもいらっしゃるのでしょうか。
凄いブログに出あえて幸せです。
長谷川家の先祖が明らかになってきましたが、長谷川家は今でも続いているのでしょうか。
投稿: みやこのお豊 | 2006.05.23 17:46
さあ、ほかにもいらっしゃるとは思いますが、林叟院の墓地へ参詣する人は、畏友・中林さんのほかには知りません。
正満・長谷川家が、明治以後どうなったかの調査もすすんでいません。
投稿: ちゅうすけ | 2006.05.24 07:31
立派なお寺、墓石、さすがのお位牌ですね。
投稿: おっぺこと那の津のお加代 | 2006.05.25 12:51
なにせ、開基者ですからね。
投稿: ちゅうすけ | 2006.05.25 14:29