平蔵の次男・正以の養子先
長谷川平蔵の家禄は400石だった。
家康のころ、浜松郊外・三方ヶ原(みかたがはら)で、数倍する武田勢と戦って戦死した先祖の、遺児・次男がうけた禄高が、そのままつづいたのである。いってみれば200年間昇給なし。
遺児・長男がついだ本家は1750石。そこからのちに断絶した分家へ300石をわけた。本家の次男には別途に500石が給された。
特筆すべきは遺児・三男。つまり平蔵家の祖の弟。11歳で秀忠の小姓に召され、しばしば加増をうけてしめて4070石! 1800坪を超える牛込・御納戸町の屋敷はともかく、渋谷にも8万5,000坪の別荘地をもらっている。異例だ。寵童だったとの推察もできなくはない。
養子先の牛込の1800坪を超える屋敷(近江屋板)
長谷川一門でもっとも富裕な家柄なので、つねに一門の養子先として狙われていた。
平蔵の時代…寛政元年(1789)ごろ、ここの九代目をつぐべき嫡子が夭折(ようせつ)した。
残ったのは女子2人。上は病みがちでとても嫁げそうもない。下は7歳。当主の栄三郎正満(まさみつ)は平蔵よりも1歳年上の45歳だがいちども役職につけないほどの病身だった。
名奉行・大岡越前守忠相(1万石)直系の孫娘だった後妻は出産年齢をとうにすぎていた。
まわりを見わしたところ長谷川一門には、平蔵の次男で9歳の銕(てつ)五郎のライヴァルはほとんどいなかったものの、係累の多い大岡家のほうには数人いた。
平蔵はさっそくに根まわしをはじめた。一門の長老で火盗改メをつとめたときに若かった平蔵がその助手のようなことをした、本家の当主・太郎兵衛正直(79歳)を説いた。
「かの家へこれまで一門外から養子に入った者はありません」
言外に、4000余石をほかからの血にむざむざむしられることはないと匂わせた。
このときの平蔵の論理はいささか滑稽でもある。4000余石は家についているのであって、それが守られれば血は関係ないというのが当時の考え方だった。
したたかな太郎兵衛は、曽孫2人の顔を思いうかべたが、なにぶんにも幼なすぎた。しょうことなく銕五郎の養子入りに賛意をあらわした。
徳川幕臣の次男、三男は養子にいけなければ一生を実家で厄介者として送るのがふつうだった。だから平蔵とすれば、次男・銕五郎の養子口が決まらないかぎり死んでも死にきれなかった。もっとも、そのころの平蔵はピンピンしていて火盗改メの仕事に腕をふるっていたが。
平蔵が次男の養子先として4000余石の裕福な一族へ白羽の矢を立てたのは、火盗改メの役目を長くつとめればつとめるほど、わが家の資産が激減していくことを予想していたためだ。
いや、持ちだしになってもこの役目は立派につとめあげよう、つとめなければならない時代に生きている……との使命感に燃えていたともいえる。
平蔵が8年間も火盗改メをつとめたため、平蔵家の家計は逼迫の極におちた。
つぶやき:
知行の1石は1両と換算するのがふつうである(1両は現代なら10万円見当。『鬼平犯科帳』末期、池波さんの換算率は20万円と高かった)。
扶持(ふち)の1俵(3.5斗)も1両。
というのは、知行のばあい4公6民で、400石の長谷川家なら手取りが160石前後だからである。
つまり、長谷川家の年収は400両。それで家宰や用人、家僕・女中などすべての給料もまかなう。
先手組頭は1500石格なので、平蔵の場合、家禄との差の1100石の足(たし)高がもらえる。
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コメント
長谷川家の家系図眺めてみました
平蔵の根回しが効いて次男正以は見事養子に入ってますね
いつの時代も根回しって必要なんですね。
知行の場合4公6民だそうですが、
ご説明で4公の方は良く理解できました。
6民はどのようなものがはいるのでしょうか。
投稿: みやこのお豊 | 2006.05.22 13:23
6民は、その米をつくった百姓のものです。
投稿: ちゅうすけ | 2006.05.22 13:40