口合人捜(さが)しの旅
「小柳(こやなぎ)。この役はおぬしでなければつとまらぬ。新婚そうそうで申しわけないが、明日、清書して掛川と吉田(のちの豊橋)のご城代へとどけ、了解をとりつけてくれ」
「承知つかまりました」
「ここに30両(48万円)つつんである。これは公費とは別の、われからのこころづもりじゃ。使ってくれると嬉しい」
「おこころ遣い、無用と存じます。公費だけで十分にまかなえます」
「小柳。勘違いするでない。30両は新婦のお園(その 32歳)の宿賃と旅支度料じゃ。これはお園の関所手形……行きも帰りもいそがずとよい。ゆっくり見物してゆけ」
「か、かたじけのう、ございます」
「内緒だぞ」
小柳安五郎とお園は、翌々日の七ッ半(5時)すぎに目白台の組屋敷の門から出立したが、なんと、まだ暗い時刻にもかかわらず平蔵(へいぞう 50歳)は愛馬・(2代目)月魄(つきしろ)にまたがり、芝田町四丁目の札の辻まで見送った。
2月の東海道は参勤の上下はない。
尾張藩と紀伊家の交替は3月の下旬であった。
つまり、ち2月中なら、本陣に宿泊しているのは幕臣の公用者ということであった。
南品川の駅停の茶店で海を眺めながら朝餉(あさげ)をとった。
(品川駅 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
「この近くに寄木明神社というのがあってな.。そのむかし、日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの近くで娶った弟橘媛(おとたちばなひめ)と同船し、千葉へわたろうとされたとき、嵐を鎮めるためにおん身を海に沈められた。
(弟橘媛入水 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)
「そのときの船木がながれ着いた地に寄木明神社が建立されたという」
「わたくしも、安五郎さまのおためなら、いつでも命をささげます」
「それは、おれがいうことだ。れは命をかけてお園を守る」
「幸せ。でも、食事のしたくや家事から離れて、2人きりの旅というの、いいものですね」
「長谷川さまのおこころづくしだ」
「わたくし、長谷川さまが実の兄上のような気がしてなりませぬ」
「それはそれとして、旅費を30両もくだされたが、同心の家禄の1年分にも相当するのだから、あまりいい気にならないように----」
「こころえております」
「保土ヶ谷まで6里半(26km)だ。馬にするか?」
「家政にひびきます」
「旅のあいだは、家政は忘れよう」
「あい。しかし、わたくしにできる内職といったら、酒の肴をつくるぐらいで――」
「長谷川さま、舘(たち) 筆頭さまへ買ってもらうか。はっははは」
「ほ、ほほほ」
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