小柳安五郎と『沓掛時次郎』
池波さんが、同心・小柳(こやなぎ)安五郎にはっきりした性格を与えたのは、[8-2 あきれた奴]であるから、ずいぶん遅い。
小柳安五郎の初登場は[1-3 血頭の丹兵衛]で、島田へ潜んでいるとみられる首領・〔血頭(ちがしら)〕丹兵衛の探索へ出向いた。
その後、[5-7 鈍牛(のろうし)]では、酒井、竹内、山田同心と並べて「腕きき」と評価されているが、どのように「腕きき」なのかは明かされていない。
[あきれた奴]で、小柳家の菩提寺が浅草・阿部川町の竜福寺と、ぼくたちに知らされる。
そこには、小柳安五郎の妻子が眠っている。亡妻の名は、みつ。初産が難産で、母子ともに助からなかった。
その死に、安五郎は立ちあえなかった。一昨年---寛政3年(1791)の寒い雪の朝であった。
小柳安五郎は、その七日ほど前から盗賊・日影(ひかげ)の長右衛門一味を捕らえるため、非番も当番もなく他の同僚と共に清水門外の役宅へつめきっており、妻子の死に目にあえなかった。
日影一味の捕物がすんで、長官(おかしら)の長谷川平蔵は、竜源寺の墓へ詣ってくれ、
「小柳。ゆるせよ」
と唯一言、うめくがごとくにいったものだ。
その後、犯人にも人情を配慮するようになった小柳安五郎を、精神的に立ち直ったと断じ、
(小柳安五郎も三十を越した。男をみがく年齢だ)
と、鬼平は期待をかける。
話題が変わる。
長谷川伸師の代表戯曲の一つである『沓掛時次郎』は、1928年(昭和3)『騒人』誌7月号に発表された。
『騒人』は、小説家村松梢風の個人雑誌だったが、販売不振にあえいでおり、すでに人気時代小説作家となっていた長谷川伸師は、友情から、原稿料なしで幾篇かの戯曲を同誌に寄せていたのである。
『沓掛時次郎』はそれらの中の1篇だが、事情が事情だけに、上演の予定はまったくなかった。
名作に数えられている『沓掛時次郎』のあらすじをいまさら紹介するのも気がひけるが、若い読み手のためにやってみる。
英泉 木曾街道・沓掛ノ駅 平塚原雨中之景
信州・沓掛(くつかけ)生まれの渡世人・時次郎は、下総(しもうさ)のさる親分のところで一宿一飯の恩義をうけたために、中川一家を一人でつづけている〔三ッ田〕の三蔵を斬ってしまう。
時次郎は賭博から足を洗い、長脇差(どす)も捨て、三蔵の妻子・おきぬと太郎吉を守って中山道・熊谷宿へ流れてきた。
英泉 岐阻(きそ)街道 深谷之駅
おきぬが産気づく。生まれるのは三蔵の子である。
出産の費用をかせぐべく、時次郎は出入りの臨時助っ人にやとわれ、金を手に戻ってきてみると、おきぬは難産で帰らぬ人となっていた。
頼りにしている人の留守中に難産で逝ってしまうところが共通している。
もっとも、小柳の妻みちは初産、おきぬは二度目のお産だが。
池波さんが[あきれた奴]を構想したとき、[沓掛時次郎]がふっと頭をよぎったといっては、池波さんを冒涜したことになるだろうか。
いや、そんなことはない、と信じたい。
【つぶやき】 小柳家の菩提寺---阿部川町の竜源寺だが、町名は台東区元浅草3丁目と改まり、竜福寺と了源寺が隣りあっている。
池波さんが少年時代をすごした永住町はすぐそこである。
2寺の寺号から一字ずつとって小柳家の香華寺としても、なんの不思議もない。
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