『鬼平犯科帳』文庫巻5に所載の[兇賊]で脇役をつとめるユーモラスにひとりばたらきの盗人。
ふだんは、神田・豊島町1丁目の柳原土手で居酒屋〔芋酒・加賀や〕の亭主。
年齢・容姿:60歳。老爺とあるだけ。いっとき、坊主頭の旅僧を装った。
生国:加賀国河北郡(かほくごおり)深谷村(のち、田近(たじか)郷(現・石川県金沢市深谷町)
明治20年ごろの金沢市(左下)と、深谷村=のちの田近郷
探索の発端:40年ぶりに加賀の郷里・田近谷を訪れての帰路、〔鷺原〕の九平は、倶利伽羅峠で盗人らいし男たちの声を耳にした。
九平は、金沢城下の北の田近谷から津幡宿を経て倶利伽羅峠、石動へと---(地図は明治20年制作)
その声をふたたび聞いたのは、自分の店の前で斬りあいがあったときであった。
斬りあいの一方の主は、直前まで店の客だった浪人だったが、なんと「火盗改メ」のお頭だったのである。
店を閉めて、青山・久保町の同郷の飯屋でほとぼりが冷めるのを待っていたいたとき、倶利伽羅峠で見かけた盗人の片割れを見かけ、鬼平が向島の料亭〔大村〕へ呼び出されたのを知り、ひょんないきさつで火盗改メにそのことを告げることができた。
結末:だまされて料亭〔大村〕へ呼び出された鬼平を待っていたのは、兇賊〔網切〕の甚五郎であったが、〔鷺原〕の九平の忠告によって駆けつけた佐嶋忠介以下の手で鬼平は九死に一生を得た。
(参照: 〔網切〕の甚五郎の項)
〔鷺原〕の九平がもらした情報で、鬼平と沢田小平次、竹内同心らは倶利伽羅峠に待ち伏せ、うまく逃げおうせたつもりの〔網切〕の甚五郎とその残党を斬って捨てた。
(参照:〔網切〕一味で、先に逮捕された 〔佐倉(さくら)〕の吉兵衛 の項)
つぶやき:芋酒といい、芋膾といい、九平のつくるものには、どことなくユーモラスな味がある。
人柄によるのであろう。
ともに〔鬼平〕を学んでいる学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスの新兵衛さんは、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)から引く。「河北郡、今田近村と云ふ。大字深谷に塩類性の冷泉湧出す、隣接して花園村の岸川にも同性の冷泉有り、近年浴場開きたり。神祇史料云、式内加賀郡波自加弥神社は二日市の田近山に在り」。
さらに『角川地名大辞典』から「田近村(金沢市・津幡町)明治 22-40年の河北郡の自治体名。梨ノ木平山の西麓に位置する。滝下、松根、中尾、上平、琴、琴坂、北千石、南千石、今泉、朝日牧、朝日、榎尾、向山俵原、千杉、鞁筒、四坊高坂、四坊、浅野深谷、浅谷の20ヵ村が合併して成立。旧村名を継承した20大字を編成。村役場を四坊高坂に設置。村名は村内を通る田近往来と当地域を田近18ヵ村と俗称したことによる」
九平の「通り名(呼び名)」の〔鷺原〕についても、金沢市の地図の南端に、「鴛原(おしはら)」という地名がある。また金沢市の南側には鶴来町があることから、鴛鴦や鶴などが飛来していたと想像され、「鷺」も飛来していたと考えても無理はなく、読みの響きから[鷺原]という地名にしたか? あるいは単なる字の見まちがい、思いこみによるのであろうと想像、と。
〔鴛原〕を『角川地名大辞典』で引くと、「昔当地に鴛の生息する池があったところから鴛ケ原と称したが、延宝3年ごろに鴛原と改めたという」と。
前田cさんの波自加彌神社リポート(2003.09.28)
由緒というのか、歴史の重みを感じてきました。
かなり階段を上って神社があって、後ろのうっそうとした森にも厳かさを感じました。
父母(母は病院から一時外出をして)と一緒に行きました。(ちゃんと車でも神社まで登れるようになってます)
香辛料・医薬・産業の神様ということで、兄が薬剤師(今は病院ではなく厚生??省にいるのですが)なのと、リウマチは投薬治療しかないことで、近くにいてもこれまで全く知らなかったのだから、両親ともに、これもなにかの御縁だと、大変喜んでいました。
場所がわからなかったので、従兄弟が神社近くに住まいの知人に場所を聞いてくれ、そこを訪ねたところが一軒家。どうやら田近宮司さんのお住まいとのことで、慌てて通りがかった方に聞きなおして神社へ行きました。
さすがに直接宮司さんを訪ねることはできませんでした。という、ちょっと楽しい寄り道もしてきました。
波自加彌神社の鳥居
同、拝殿
最近のコメント