« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月の記事

2012.03.31

鎖帷子(くさりかたびら)あわせ

書きだされた身上書の記述をひととおり暗記すると、平蔵(へいぞう 41歳)は下城後、組の与力10人・同心30人を、10組にわけ、交替で三ッ目通りの自邸へこさせた。

与力1騎に同心3人ずつが1組。
与力は、寄騎が転じたいい方である。
したがって、与力には馬の口取りがつくのがふつうであった。

以前に作らせ、用具小屋へしまっておいた鎖帷子(くさりかたびら)の寸法あわせのための呼びこみであった。

参照】2011年1月25日[武具屋〔大和屋〕仁兵衛

「いざ、出動となったとき、口取りはだれにするかを決めておき、似たような体つきの同心が選んだ鎖帷子は大・中・小をどれであったかを、こころえておくように」

口取りを伴わせなかったのは、試着をすませてからの菊川橋たもとの酒亭〔ひさご〕 での酒食の座にいっしょに着かせては、身分違いのせいでかえって萎縮するとおもったからであった。

〔ひさご〕では座持ちはもっぱら与力にまかせ、平蔵はもろもろの話題をにこにこと聴いているだけであったが、ときどき、
「そうか、吉川晋助(しんすけ 29歳)の父(ててご)ごが5年前に亡じられた元は、風邪であったか。風邪をおろそかにあつかってはならぬの」
とか、
木村斉伍(せいご 23歳)の祖は甲州の中道ぞいの右左口(うばぐち)村とな。武田どのの里伏(さとぶ)せ武士ででもあったか?」
間(あい)の手に氏名を入れるので、同心などはたちまち親しみを覚えてしまった。

同心のような下の者にすれば、組頭に自分の顔と名前を覚えてもらえただけでも嬉しいのだ。

木村斉伍などは、嬉しさのあまり、
「組頭はわが右左口村までおはびになったことがおありで---?」
こころやすだてに訊き、次席与力の(たち) 朔蔵(さくぞう 42歳)がたしなめると、
「かまわぬ。右左口村の手前に中畑(なかばたけ)という里があろう?」
「はい」

参照】2008年11月1日[『甲陽軍鑑』] () () (

「その村で育ったとかいうおなごから『甲陽軍鑑』の講釈を受けたことがある。10年以上もむかしのことじゃが---」
「『甲陽軍鑑』を口演しておるとすれば、当然、美形---?」

「これ、木村!」
次席の叱正をさえぎり、
「よい、よい。余興じゃ。すこぶるつきの色白であった」

「それで---?」
「西のほうの大きな湖で死んだ。それだけのことじゃ」
「まさか---」
「われは斉伍と違ごうて、おなごのこわさをしっておっての。は、ははは。斉伍よ、非番の日には『甲陽軍鑑』の講釈でも聴きにいくがよい」
平蔵のそれだけの打ちあけ話で、木村斉伍はお頭の一の子分になったっもりであった。

先手組の同心の江戸城内側の5門警備は4,5日に1日(昼夜)の出勤と、非番の日のほうがが多いので、内職にはげむ者がほんどであった。


| | コメント (0)

2012.03.30

ちゅうすけのひとり言(91)

これまでの[ちゅうすけのひとり言]
()内のオレンジの数字をクリックでリンクします。


91)ちゅうすけのひとり言・これまで 2012.03.30

90)平蔵発令時の先手組頭たちの系列 2012.03.29
89)平蔵発令時の先手組頭たちの初見の年齢 2012.03.28
88)先手組組屋敷の分布 2012.03.27
87)側用次・小笠原信喜と紀州衆・小笠原胤次の関係 2012.03.11
86)松平定信と水野為永の隠密好き 2012.02.22

85)平蔵の異妹・与詩の半生 2011.12.17
84)播州別所の英賀城と三木氏2011.11.29
83)守山藩邸の春占園2011.11.28
82)大塚吹上の守山藩邸2011.11.27
81)ちゅうすけのひとり言・これまで 2011,.11.

80) 下(しも)の禁裏附・水原摂津守保明と平蔵の妹・多可 2011.11.21
79) 禁裏附の職務 2011.11.20
78) 後藤晃一さん『徳川家治の政治に学べ』感想(2011.)  2011.10.31
77) 足高(たしだか)の実禄 2011.09.20
76) 長谷川久三郎家の知行地の移転 2011.09.09

75) 長谷川平蔵宣以の第三女謎 2011.09.08
74) 『群馬県史』の記録にみる長谷川2家・続 2011.07.20
73) 『群馬県史』の記録にみる長谷川2家 2011.07.19
72) これまでのお気に入りコンテンツ 2011.07.08 
71) ちゅうすけのひとり言・これまで 2011.086.28

70)若女将・お三津の企みごと……2011.06.28
69)「大岡政談」の[火盗改メ] 2011.0329
68)「今大岡」と呼ばれたが…… 2011.03.28
67)次男・銕五郎の養子が決まったのは……2011.03.27
(66)一橋家の豊千代のお;礼先……2011.02.14

65)将軍・家治(45歳)の世嗣を選んだ面々 2011.02.13
64)豊千代、将軍養子として登城日の儀 2011.02.12
63)目黒・行人坂大火時の火盗改メ役宅の火難 2011.02.07
62)安倍平吉の火盗改メ・増加役考 2010.09.19
61)「ちゅうすけのひとり言」これまで 2010.07.11

60) 長篇[炎の色]の年代 2010.07.07
59) 家治の日光参詣に要した金額など 2010.O6.05
58) 松平賢(まさ)丸(定信)の養家入りの年月日 2010.06.04
57) 日光参詣に参列・不参列の先手組頭リスト 2010.05,26.
56) 世嗣・家基の放鷹で射鳥して賞された士 2010.05.09

55) 平蔵以前に先手・弓の2組々頭11人のリスト 2010.05.08
54) 世嗣・家基の放鷹へ出た記録 2010.05.07
53) 渡来人の女性の肌の白さ 2010.03.31
52) 三方ヶ原の精鎮塚 2010.03.04
51) 禁裏役人の汚職の文献など 2010.01.23
50) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.04
49) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.03
48) 安永2年10月7日の跡目相続者 2010.01.02
47) 安永2年8月5日の跡目相続者 2010.01.01
46) 安永2年7月5日の跡目相続者 2009.12.31
45) 安永2年6月6日の跡目相続者 2009.12.30
44) 安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.29
43)安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.20
42) 安永2年2月11日の跡目相続者 2009.12.19
41)平蔵が跡目相続を許された安永2年(1773)の跡目相続人数 2009.12.18

40) 禁裏役人の汚職捜査の経緯
39) 3人の禁裏付
38) 禁裏付・水原家と長谷川家
37) 備中守宣雄の後任・山村信濃守良晧(たかあきら 
36) 備中守宣雄への密命はあったか?
35) 川端道喜
34) 銕三郎・初目見の人数の疑問
33) 『犯科帳』の読み返し回数
32) 宮城谷昌光『風は山河より』の三方ヶ原合戦記
31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13

) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

| | コメント (0)

2012.03.29

ちゅうすけのひとり言(90)

先手組頭ついでに、平蔵が仲間に加わったときの組頭たちの家系のかつての所属を調べたものを公開しよう。

大久保弥三郎忠厚(ただあつ)  66歳 1550石  譜代
村上内記正儀(まさのり)     70歳  1550石  譜代
長田甚左衛門繁走堯(しげたけ) 64歳 1300石  譜代
倉橋三左衛門久雄(ひさお)   78歳  1000石  譜代
万年市左衛門頼意(よりもと)   68歳 1000石  譜代
杉浦長門守勝興(かつおき)   67歳  620石  譜代
柴田三右衛門勝彭(かつよし)  63歳  500石  譜代
安藤又兵衛正長(まさなが)   41歳   330俵  譜代

長谷川平蔵宣以(のぶため)   41歳  400石  今川
清水権之助義永(よしなが)    66歳 1000石  今川・武田

市岡左大夫正峯(まさみね)    82歳 1000石  武田
大井大和守持長(もちなが)    72歳 1000石  武田
安部平吉信富(のぶとみ)     57歳 1000石  武田
酒依清左衛門信道(のぶみち)  69歳  900石  武田
新見豊前守正則(まさのり)    59歳  700石  武田
河野勝左衛門通哲(みちやす)  63歳  600石   武田
篠山吉之助光官(みつのり)    72歳  500石   武田

土方宇源太勝芳(かつよし)    43歳  1560石  織田 
堀 帯刀秀隆(ひでたか)      5 1歳 1500石  織田
松波平右衛門正英(まさひで)  65歳   700石  織田
中山伊勢守直彰(なおあきら)  71歳   500石  織田

山中平吉鐘俊(かねとし)     66歳 1000石   佐々木
浅井小右衛門元武(もとたけ)   77歳  540石   佐々木

田屋仙右衛門道堅(みちかた)  72歳 300俵   紀伊
浦上近江守景邦(かげくに)    58歳   300俵   紀伊

遠藤源五郎常住(つねずみ)   70歳 1000石   足利
一色源次郎直次(なおつぐ)    67歳 1000石   足利

清水与膳豊春(とよはる)     78歳  380石   山名

柘植五郎右衛門守清(もりきよ) 68歳  330石   伊賀

三上与九郎季良(すえかた)   73歳  600石   豊臣
清水与膳豊春(とよはる)     78歳  380石    増田

黒川友右衛門正香(まさか)   50歳 1800石   上杉

押田信濃守岑勝(みねかつ)   66歳 1000石   北条


こうしてリストを眺めてみると、先手組頭という平時はほとんど用のない番方系のポストも、各名門系家臣団から不満がでないように、いかにも公平らしく登用しているように思える。

その実、損耗率の高い先手組には、譜代は少なめに配置しているのだ。

それはさておき、今川・徳川系は長谷川平蔵ただひとり。
派閥を好むわけではなく、分をわきまえながら親しい仲間と助けあうことを亡父・宣雄(のぶお)からきつくいわれている平蔵とすると、むしろ、組頭の席に永く居座る覚悟をきめている年配の好人物とこころを割って話し合いたいとおもっていたのではなかろうか。

| | コメント (0)

2012.03.28

ちゅうすけのひとり言(89)

退院し自宅ケア体制にはいって2週間が経った。
自宅にもどったといっても、以前の書斎と書庫のあるフロアーのほうではなく、ベッドと医療器、パソコンと少しばかりの史料をもちこんで新しく整えた部屋である。

痛みどめ薬の影響で、躰がけだるい。

書斎から持ちおろしたこれまでにつくっておいた史料をめくっていて、「これは……」と感じたものをちびちびと[ちゅうすけのひとり言]のコーナーに揚げておくことをおもいついた。
いまやっておかないと、陽の目をみることもなく捨てられそうにおもえたからである。
後進の鬼平ファンがムダな労力をつかわなくてもすむようにネットに記録しておこう。

トップバッターは……と力むほどのことはないが、平蔵が先手組・弓の2番手の組頭を拝命した天明6年(1786)7月26日現在に席にいた先任組頭たちの初目見えと家督は幾つのときであったかというリストである。

これは、平蔵(へいぞう 41歳)の初見が23歳であり、これに対してある人が聖典『鬼平犯科帳』の継子いじめからきた放蕩が幕府に聴こえたので遅れたのであろうと推察されていた。

23歳の初見が遅いいかどうかは、その前後のいくつかの例をひかないと結論がでないはず。
で、ひとつは、平蔵と同日に初見した若者の氏名を記した『徳川実紀』をひいて検討した。

参照】2008年12月1日~[銕三郎、初お目見(みえ) ] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

ただし、このときの初見者を確認のために『寛政重修l諸家譜』をあたったところ、『実紀』に記録されている30名なんかではなく150名を超えていることがわかった。

参照】2009年5月11日~[銕三郎、初見仲間の数] () () () () (


先任組頭たちの場合は、時代に30年ばかり幅もあるので、年代的な変化の寸見もできようか。


長谷川平蔵が発令されたときに在任していた先手組頭の初見年齢と家督年齢(降順)

氏名         天明6 家禄    初見年齢   家督年齢       

市岡左大夫正峯  82歳 1000石    23歳     39歳
倉橋三左衛門久  78歳 1000石    21歳     11歳(祖父の死)   
浅井小右衛門元武 77歳  540石    11歳     11歳(祖父の死)
柘植五郎右衛門守清74歳  330石     22歳     32歳
三上与九郎季良  73歳  600石    32歳     32歳

田屋仙右衛門道堅 72歳  300俵    19歳      21歳
大井大和守持長   72歳 1000石    34歳      34歳
中山伊勢守直彰   71歳  500石    18歳      18歳
篠山吉之助光官   71歳  500石    25歳     25歳
遠藤源五郎常住   70歳 1000石    20歳     20歳

村上内記正儀     70歳 1550石    14歳     14歳
酒依清左衛門信道 69歳  900石     22歳     22歳
万年市左衛門頼意 68歳 1000石    19歳     19歳
一色源次郎直次   67歳 1000石    16歳     22歳
杉浦長門守勝興   67歳  620石    15歳     40歳  

大久保弥三郎忠厚  66歳 1550石   17歳      27歳
長田仁左衛門繁尭  66歳 1300石   36歳      36歳
山中平吉鐘俊     66歳 1000石   17歳     16歳
松波平右衛門正英  65歳  700石   16歳      25歳
長田甚左衛門繁   64歳 1300石   36歳      35歳

新見豊前守正則   59歳  700石    15歳      17歳 
浦上近江守景邦   58歳  300俵     9歳      ?歳
小野次郎右衛門忠喜54歳  800石    18歳      17歳
堀 帯刀秀隆      51歳 1500石    23歳      23歳
黒川友右衛門正香 50歳 1800石    23歳      34歳

長谷川平蔵宣以  51歳  500石    23歳     29歳  

平蔵と初見の歳月・年齢が不詳の8人を除いた25名の初見合計年齢521歳を25で徐すると20歳9ヶ月。
平蔵はちょっと遅かったなという程度。

| | コメント (0)

2012.03.27

ちゅうすけのひとり言(88)

「お頭(かしら)が火盗改メを拝命してみろ。われわれは三ッ目通り菊川町まで、毎日、3里(12km)の道を往還することになるんだぞ」
「桑原、くわばら」

長谷川平蔵(へいぞう 41歳)を先手・弓の2の組の頭に迎えた同心衆が、陰で愚痴とも軽口ともつかない悲鳴を洩らしていることを、平蔵はしらぬわけではない。

しかし、火盗改メの臨時役は自分から望んだわけではない。
盗賊や放火犯をとらえてもともと、実績をあげなければ無能と評価をくだされる割には、役得があるという席ではない。
そもそも、盗賊が手ごころを期待して賄賂をよこすわけはない。

平蔵のいい分とすると、34組ある先手のどの組に――ということは、とりもなおさず役宅と組屋敷との遠近の配慮を、上の方々が優先して人選するはずなどないに決まっておる。
先手組の組子として俸禄をえているなら、それくらいのことは覚悟しているべきであろう。

先手組といえば、いざ戦闘となれば最前線で戦うのが職務である。
通勤道のりの遠近をいたてるなどの平和ボケは、いい加減にしておけ。

平蔵のほうが正論である。
が、正論、かならずしも世論とならないのも世の常。
だから平蔵は反駁しない。
耳を貸さないでいるだけである。

彼らを追従させる秘策は別にある。

ところで幕府は、別の意図にしたがって34組の与力・同心の組屋敷を配置していた。
それを考察する前に、組屋敷の配置の具合を見てみよう。
(史料は寛政3年の『武鑑』による)

鉄砲の2番手 牛込中里

鉄砲の11番手 牛込榎町

鉄砲の12番手 牛込榎町

鉄砲の18番手 牛込榎町

鉄砲の18番手 牛込榎町

西丸の1番手 牛込榎町

西丸の2番手 牛込榎町

A_360_2

(白切絵図 牛込北辺の先手組屋敷)


弓の1番手  牛込山伏町

弓の7番手  牛込山伏町

A_360_3

(白切絵図 牛込山伏町の先手組屋敷。 下は与力の現・20騎町
 上部は上の切絵図と重なる)


弓の2番手  目白台

弓の4番手  目白台

弓の6番手  目白台

A_360_4

(白切絵図 目白坂上の台地。関口台ともいう)


弓の5番手  四谷本村

弓の8番手  四谷本村

弓の8番手  四谷本村

鉄砲の4番手 四谷伊賀町

鉄砲の6番手 四谷舟板町

鉄砲の10番手 四谷本村鍋弦

鉄砲の10番手 四谷左門横町

鉄砲の17番手 四谷本村

西丸の4番手 四谷本村

A_360_5

(白切絵図 四谷 先手組屋敷 甲州街道への備えからか最多)


鉄砲の1番手 麻布谷町

鉄砲の7番手 龕前坊谷(がぜんぼうだに)

鉄砲の8番手 龕前坊谷(がぜんぼうだに)

A_360

(白切絵図 麻布・赤坂 先手組屋敷)


鉄砲の5番手 本郷森川宿

鉄砲の14番手 駒込片町

鉄砲の15番手 駒込片町

A_360_6

(白切絵図 本郷・駒込 先手組屋敷 上=北)


弓の3番手   本所四ッ目

弓の7番手   竜土町

弓の9番手   駿河台さいかち坂

鉄砲の3番手  湯島苗木山

鉄砲の9番手  伝通院前 

鉄砲の16番手 小日向 

鉄砲の19番手 市谷五段坂   

鉄砲の20番手 大塚御箪笥町

西丸の4番手 青山権田原

設営時には、いざとなればできるかぎりすばやく幹線街道へ達することが可能な位置に置かれたように推測しているのだが。

| | コメント (0)

2012.03.26

平蔵、先手組頭に栄進(10)

30人いる同心の中で、心配症の年配の同心……矢田重三郎(しげさぶろう 54歳)とか志村徳兵衛(とくべい 50歳)がこの35年間のことをおぼえており、
「お頭(かしら)が火盗改メをお振られになった日には、通いがえらいことになるぞ」
取り越し苦労を若い者(の)にささやいていた。

たしかに、そのとおりといえた。
火盗改メは、組頭の屋敷が役宅になる。
目白坂上の組屋敷から本所・三ッ目通り菊川町の長谷川邸までは、片道だけで2万歩ちょっと、約3里(12m)あった。
朝夕、往還6里(24km)の通勤は若い同心衆だって毎日となると大ごとだ、

ちゅうすけ注】聖典『鬼平犯科帳』で役宅が清水門外となっているのは、池波さんが便宜上そこになさったのであって、史実の役宅は組頭の屋敷と決まっていた。

A360

(池波さんが小説のために清水門外のご用屋敷(緑○)を火盗改メの役宅に見立てた。東隣(左手)は将軍家の野馬仕込み馬場)

もちろん、読み手としては役宅が清水門外であろうと、組頭の屋敷が兼ねていようが痛くも痒(かゆ)くもない。
そういうものだとおもいきわめて読みすすむだけのことである。

「1年前の横田お頭のときのことをおもいだしてみよ」
火盗改メをやった横田源太郎松房(よしふさ)の居宅は築地の西本願寺脇にあり、片道1里16丁(6km)であった。

往還3里(16km)。
しかし、机相手の仕事と異なり、火盗改メは見回りと役所間の連絡がもっぱらだから、さらに歩きが、2里(8km)や3里(12km)はすぐ加わる。

ついでだから、先手・弓の2番手の古参同心たちがおぼえている、火盗改メに任じられた数人の組頭の屋敷までの距離を書きだしてみよう。

朝倉仁左衛門景増かげます 300石)
○宝暦5年(1755)8月15日火盗改メ(53歳)
 役宅 四谷内藤新宿 26丁(3km) 

小笠原兵庫信用(のぶもち 2600石)
○宝暦6年11月17日火盗改メ(47歳)
 役宅 浅草新堀末 2里丁18丁(10km)

A_360
(浅草寺裏手の新堀末の小笠原邸(緑○) 上=西)


赤井越前守忠晶(ただあきら 1400石)
○安永2年(1773)7月9日火盗改メ(47歳)
 役宅 表六番町 1里(4km)

菅沼藤十郎定享さだゆき 2020石)
○安永3年(1774)3月20日火盗改メ(47歳)
 役宅 大塚吹上 20丁(2.5km)

贄 壱岐守正寿まさとし 300石)
○安永同8年(1779)1月15日火盗改メ(39歳)
 役宅 九段下飯田町32丁(3.5km)

組内のこうしたささややきを小耳にはさんだ平蔵は、にやりと不敵な笑みを洩らしただけで、そしらぬふりでいた。
脳裏に、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)のために計測した17年前のことをおもいだしたのであろう。

参照】2009年2月20日[隣家・松田彦兵衛貞居] (

| | コメント (0)

2012.03.25

平蔵、先手組頭に栄進(9)

火盗改メは先手の組頭の中から指名されるが、34名いる組頭のうちから四季を通しての本(定)役が一人、火事の多い晩秋から初春へかけての助役(すけやく)が一人が常態であった。

平蔵(へいぞう 41歳)が火盗改メの助役を命じられたのは、翌天明7年(1787)9月19日であった。
それまでの1年有余のあいだは、並みの先手・組頭として躑躅(つつじ)の間へ出仕したし、隊士たちは江戸城の内側にある蓮池 、平河口、梅林坂、紅葉山下、坂下の5門を交替で警備にあたった。

通勤も、目白坂上の関口台町に接した組屋敷から江戸城への往復ですんだ。
片道小1里(4km足らず)。

34組で5門だからそれほど忙しくはないし、隊士の数も多いから平常はのんびりした勤務というほうがあたっていた。
「番方の爺ィの捨て所」とはよくぞいいあてたものだ。

ところが平蔵はこれまでの組頭と違っていた。
着任早々、筆頭与力・脇屋清助(きよよし 59歳)にいいつけ、組下の与力・同心全員の家庭身上書を提出させた。

職を継いだ年月日、家族と使用人の頭数と年齢、病人の有無、蔵前の札差として契約している店名と借金があればその金額、内職をやっていればその種類と納入先などを提出させてくれと命じた。

平蔵が西城の徒の4番手の組頭になったときにやったのと同じ項目であったが、変わっていたのは、同心には書き留め用の半紙10枚と細字用の小筆が1本ずつ渡されたこと。
徒士は扶持が70俵5人扶持でも困窮している者が少なくなかったが、先手組の同心はその半分に近い30俵2人扶持だから、さらに困窮していようとの配慮からであった。

参照】2011年9月29日~[西丸・徒(かち)3の組] () () () () (

筆頭与力の脇屋清助には笑顔で、
「長たる者は、配下のほくろの数までしっていなければならないのだ」
ごまかした。

脇屋筆頭は、平蔵とのふれあいが永いから飲みこんでいたが、ほかの与力たちは、亡父・宣雄(のぶお)ゆずりの「五分(ごぶ)目紙」を配ったときに目を見張り、えらい組頭がきよったとの嘆息が洩れた。

参照】2007年12月18日[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () (

身上書が出揃うと、平蔵は躑躅の間へも携行し、一人のそれを何十回となく眺めては、同心筆頭・逗子啓太郎(けいたろう 40歳)から聴きとって書きくわえた人定、
「身丈5尺6寸(168cm)、色白、丸顔で眉太く、目瞼はれぼったい。鼻の左下にほくろ。怒り肩---」
ぶつぶつとつぶやいて暗記につとめるのであった。

| | コメント (1)

2012.03.24

平蔵、先手組頭に栄進(8)

幾多の候補者の中から、先手・弓の2番手の組頭に抜擢された平蔵(へいぞう 41歳)は、先任の組頭たちを招いての初挨拶の宴とともに、若年寄一統と奥祐筆の頭(かしら)株へのお礼参りも、つつがなくすませた。

本丸の若年寄へのお礼の手土産が一風変わっていたので、ご用の間でしばらく話題になった。
それは、脇差の柄(つか)であった。

お察しのいいユーザーの方なら、
「あれだな---」
ご推察のとおり。

参照】2011年10月8日[柄(つか)巻き師・飯野吾平

平蔵が先手・弓の組頭になる前に任に就いていた西丸・徒の組頭時代、徒士だった飯野六平太(ろくへいた 32歳)が蔵元の高利の返済に困っていたのを解決してやったことに感涙した六平太の父・吾平(ごへい 57歳=当時)が内職にしていた大刀の柄巻を、お礼といって持参したことがあった。

濡れ手拭を巻いても型くずれしないのがよい柄巻きと教えてくれた。

そのときから、平蔵は武家への進物用として糸色と巻き柄(がら)を違えた脇差の柄巻きを10ヶ、頼んで作らせておいた。
10ヶの巻き柄は、片捻り、笹巻、鯨巻など、吾平にまかせた。

それを、若年寄の
酒井石見守忠休(ただよし 73歳 出羽・松山藩主 2万5000石)
酒井飛騨守忠香(ただか 72歳 越前・敦賀藩主 1万石)
加納遠江守久堅(ひさかた 66歳 伊勢・八田藩主 1万石)
太田備中守資愛(すけよし 48歳 遠江・掛川藩主 5万石)
安藤対馬守信明(のぶあき  陸奥・磐城藩主 5万石)
へ贈った。

脇差にしたのは、城中では大刀を帯びることが許されていなかったからであった。

平蔵の狙いどおり、さっそくに若手の太田資愛が変わった鯨巻きを帯びていたのをほかの若年寄が目にとめ、
「見事な柄巻きですな」
「到来もので---」
「新任の先手の組頭からの---?」
「いかにも---せっかくの芳志なので、同じ鯨巻きの大刀の柄も頼み申した」
「市中で購(あがな)う半値と聴き、われも依頼したところで---は、ははは」

平蔵を強く推してくれた西丸の若年寄・井伊兵部大輔直朗(なおあきら 40歳 越後・与板藩主 2万石)には大刀の篠巻きを届けたが、こちらものちに揃いの脇差用の柄巻きのを発注し、お歴々に帯びていただけると飯野吾作を喜ばせた。

もっとも、人のこころの機微をついた平蔵のこういうやり方は、武士にふさわしくないという噂に化けてあちこちでささやかれはした。、

| | コメント (4)

2012.03.23

平蔵、先手組頭に栄進(7)

先手・弓の組頭は、1000石格の目付、徒頭、小十人頭、新番頭、それに書院番や小姓組の与(くみ)頭、使番などが次のステッブとして渇望している役席である。

一つの席に候補者は100人近くいる。
わけても、さらに上への通過席とみられていた弓の2番手の組頭というので、この場合はとりわけで、裏工作もはげしかったろう。

にもかかわらず、若手の平蔵(へいぞう 41歳)が最有力候補に見られたのは先にも記しておいたように、西丸・若年寄で毛並みもいい井伊兵部大輔直朗(なおあきら 40歳 越後・与板藩主 2万石)の強力な根回しがあったのと、実力老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 68歳 遠州・相良藩主 5万7000石)の暗黙の重石がきいたとおもわれる。

先手・弓の組頭の欠員を補うには、長老・次老・三老が合議で提案した数人にしぽった候補者に対しての現組頭たちによる入れ札にもよったらしい。

もっとも入れ札の記名には、3人の古老たちの意中が忖度(そんたく)されることがほとんどであったから、票は平蔵に集中したが、競合候補者の氏名は残されていない。


発令された平蔵は、しきたりにしたがい、
長老・市岡左大夫正峯(まさみね 82歳 1000石 弓組で11年目) 
次郎・倉橋三左衛門久雄(ひさお 78歳 1000石 鉄砲組で10年目)
三老・万年市左衛門頼意(よりもと 78歳 1000石 西丸で3年目) 
のそれぞれの組を代表する最高齢とともに、弓組の組頭8名全員を東両国駒留橋ぎわの料亭〔青柳〕に招いた。

ここは亡父・宣雄が小十人組の組頭になったときの祝いの宴に、同職の組頭たちを招待した府内でも最上格の店であった。

Photo
(東両国駒留橋ぎわの料亭〔青柳〕)

参照】2007年5月29日[宣雄、小十人組頭を招待

〔黒舟〕からの迎えの屋根船を出勤組のためには道三河岸、非番組には神田川へまわしたことも気がきいているとほめられたが、もっと喜ばれたのは、座敷での料理は汁物と熱物にし、多くを土産にまわして折りにつめて配慮であった。

客は年配者がほとんどだから料理も持ち帰りを優先して吟味するようにと、〔青柳〕にあらかじめ頼んでおいた。

手みやげにはさらに、本町の有名菓子舗〔鈴木越後〕をもたせた。

参照】2007年5月28日[宣雄、先任小十人頭へ ご挨拶

帰りも神田川をさかのぼる屋根船を用意した。

水道橋の船着きで、
次老・倉橋三左衛門久雄(ひさお 78歳 雉子橋通り)
三老・万年市左衛門頼意(よりもと 78歳 1000石 裏猿楽町) 
堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石 裏猿楽町)
新見豊前守正則則(まさのり 59歳 700石 59歳 小川町一橋通り)
山中平吉鐘俊(かねとし 66歳 1000石 駿河台・さいかち坂)
中山伊勢守直彰(なおあきら 71歳 本郷弓町)
を降ろし、さらに市谷門下で、
長老・市岡左大夫正峯(まさみね 82歳 1000石 裏五番町) 
押田信濃守岑勝(みねかつ 66歳 1000石 裏六番町)
笹山吉之助光官(みつのり 72歳 500石 裏四番町)
長田甚左衛門繁堯に走(しげたけ 64歳 1300石 番町御厩谷)
を送った。

あとで、船頭・達五郎(たつごろう 56歳)の報告によると、いずれも平蔵の気くばりのたしかさを口にしていたという。

もう一艙の猪牙舟には菊川橋下まで
一色源次郎直次(なおつぐ 67歳 1000石 本所・菊川)
平蔵が乗った。

| | コメント (0)

2012.03.22

平蔵、先手組頭に栄進(6)

平蔵(へいぞう 41歳)という若さで先手・弓の2番手組の組頭に栄進したことを賞賛気味に書いている。
もしかすると、そこは通過ポストなんかではなく、ここのところ偶然に若手の速足組がつづいただけのことかもしれない。

しかし、似たようなことが30年間もつづけば、いくら悠長な江戸人だって定式と気をまわすであろう。
東大法が3代つづけば秀才一家といわれる、世間の目というのはそういうものなのである。

ところで、組頭は期待組がつづいたとして、与力・同心の組の構成員たちはどうであろう。
先にあげた東大法の3代つづきは、与力のほうがあたっているかもしれない。
組頭は3代つづいた例はなさそうだが、与力・同心は一代かぎりが建前でも、慣習としてはほとんど相続に近い。

昨日掲出した史実の与力のリストは、平蔵のときよりも30年ほどあとの資料に拠っていると断わらなかったのは、聖典『鬼平犯科帳』には実在だった与力が一人も登場していないことをたしかめるためにつくったものだからであった。

ついでだから、史実のほうを再掲出してくらべていただこう。

館 伊蔵
脇屋清吉
岡田勇蔵
高瀬円蔵
服部儀一郎
菊田儀一朗
小島与太夫
萩原藤一郎
吉岡左市
   不明1名

鬼平犯科帳』の長谷川組は、
与力10名、同心約40名。[6-1  礼金二百両]
与力8騎、同心45名。[11-4 泣き味噌屋]
平蔵の着任以来、与力 2名、同心 7名が殉職[8-2 あきれた奴]

佐嶋忠介(52歳 [浅草・御厩河岸])など132 話/164話
村松忠之進 [1-2 本所・桜屋敷]
天野甚造 [1-3 血頭の丹兵衛]など14話
三浦助右衛門 [8-4 流星]
天野源助 [11-4 泣き味噌屋]など4 話
天野源右衛門 [12-6 白蝮]
小林金弥(30歳)[15-4 流れ星]など14話
秋元惣右衛門[9-7 狐雨]p276 など 2話
左右田万右衛門[11-4 泣き味噌屋]
遠山猪三郎 [12-6 白蝮] など3話
石川金助  [12-6 白蝮]
今井友右衛門 [15-1 赤い空]
古川伝八郎 [15-1 赤い空] 2話
馬場綱太郎 [16-3 白根の万左衛門]
田村市五郎 [16-5 見張りの糸]
佐々木徳五郎[17-4 闇討ち]など 2話
堀口忠兵衛 [17-7 汚れ道]
原為之助  [18-4 一寸の虫]
金子勝四郎 [19-5 雪の果て] など3話
岡島新三郎 [21-3 麻布一本松]

34組の史実を記すと、与力が10騎の組は半分もない。

弓組1の組(堀 帯刀秀隆が組頭のときがあった)
与力 10人
同心 30人

2の組(贄 壱岐守正寿長谷川平蔵宣以が組頭)
与力 10人
同心 30人

3の組
与力  6人
同心 30人

4の組
与力 10人
同心 30人

5組
与力  5人
同心 30人

6の組
与力 10人
同心 30人

7の組(平蔵の本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直が組頭)
与力 10人
同心 30人

第8の組(平蔵の亡父・宣雄が組頭)
与力  5人
同心 30人

第9組
与力 10人
同心 30人

第10の組
与力 10人
同心 30人

鉄砲(つつ)組

第1の組
与力 10人
同心 50人

第2の組
与力  6人
同心 30人

第3の組
与力 10人
同心 50人

第4の組
与力  5人
同心 30人

第5の組
与力 10人
同心 30人


第6の組
与力  7人
同心 30人

第7の組
与力 10人
同心 30人

第8の組
与力  5人
同心 30人

第9の組
与力  7人
同心 30人

第10の組
与力  7人
同心 30人

第11の組
与力  6人
同心 30人

第12の組
与力  6人
同心 30人


第13の組
与力  6人
同心 30人

第14の組
与力  6人
同心 30人

第15の組
与力  6人
同心 30人

第16の組(本多采女紀品堀 帯刀佐野豊前守政親
与力 10人
同心 50人

第17の組(小野次郎右衛門忠吉が組頭)
与力  5人
同心 30人

第18の組
与力  5人
同心 30人

第19の組
与力  5人
同心 30人

第20の組
与力  5人
同心 30人


西丸
第1の組(森山源五郎孝盛が組頭であった)
与力  6人
同心 30人

第2の組
与力  7人
同心 50人

第3の組
与力 10人
同心 30人

第4の組
与力  5人
同心 30人

| | コメント (0)

2012.03.21

平蔵、先手組頭に栄進(5)

聖典『鬼平犯科帳』では、先手・弓の2番手、長谷川組の組屋敷は四谷・坂町となっている。
市ヶ谷の自衛隊の出入り口の向いあたり、坂町の区画の真ん中へんの坂を南へ上りきった突きあたり一円、江戸期の切り絵図に「御先手組」と記されているところがそれである。

けれども、そこは池波さんがその付近の切り絵図に10ヶ所ほど「御先手組」と書かれた組屋敷の中から適当に選びとった一つで、史実の長谷川組の組屋敷とは異なる。

_360
(四谷北部の白切絵図。尾張殿=自衛隊 淡黄色=先手組屋敷
赤○=池波さんが設定した長谷組の組屋敷)


先手・弓の2番手の史実の組屋敷は目白台である。
もっとも、ほとんどの切り絵図は、その場所はほかの地区のそれのように「御先手組」と表記されていず、戸割りに武家名が書きこまれているので組屋敷と断じられてこなかった。

武鑑』は弓の2番手組とあと2タ組が目白台にあったと明記している。

ところが、『よしの冊子』に長谷川組の与力の名前が記されいている項があり、それにしたがって目白台の戸割りの武家屋敷を探したら、もっとも目白坂上に近い武家屋敷の一群の中にその与力の家があったので、そこが長谷川組の組屋敷と断定できた。

A_360
(目白坂上の白地図。上=護国寺 薄黄=先手弓3組の組屋敷
赤○=2番手組の長谷川組の組屋敷)


参照】2007年9月26日『よしの冊子(ぞうし)』(25
2006年4月21日[史実の長谷川平蔵と小説の鬼平"]
2007年夜9月12日『よしの冊子』 (11
2008年1月17日[ちゅうすけのひとり言] (

そこに記されている与力とおぼしき氏名は、

館 伊織
脇屋清吉
岡田勇蔵
高瀬円蔵
服部儀一郎
菊田儀一朗
小島与太夫
萩原藤一郎
吉岡左市
   不明1名

で、聖典『鬼平犯科帳』に登場する与力たち、佐嶋忠介村松忠之進らの名前はとうぜんのことだが、一人も出てこない。

| | コメント (0)

2012.03.20

平蔵、先手組頭に栄進(4)

平蔵(へいぞう 41歳)が天明6年(1786)7月23日付けで発令された先手・弓の2番手というのは、34組の中でも火盗改メの経験が過去50年間でもっとも長い組だと書いた。

それでは過去40年遡ってリストをあげて実証してみよう。

松平帯刀忠陸(ただみち 750石)
 延享5年(1748)2月15日 徒頭ヨリ(46歳)
○寛延2年12月21日火盗改メ(47歳)
 同3年11月15日佐渡奉行(48歳)

柘植三四郎正晃(まさてる 1500石)
 寛延4年3月(1751)11日使番ヨリ(41歳)
○直チニ火盗改メ
 宝暦4年(1754)卒(44歳)

松平新八郎正継(まさつぐ 1650石)
 宝暦元年(1751)3月11日使番ヨリ(52歳)
○同年10月8日火盗改メ
 同2年3月17日免
 同4年5月18日卒(56歳)

朝倉仁左衛門景増(かげます 300石)
 宝暦4年(1754)5月28日使番ヨリ(52歳)
○同5年(1755)8月15日火盗改メ(53歳)
 同6年(1756)11月3日駿府奉行(54歳)

小笠原兵庫信用(のぶもち 2600石)
 宝暦6年(1756)11月15日ヨリ(47歳)
○同年11月17日火盗改メ
祇 同7年(1757)月23日免(52歳)
 同8年(1760)12月7日堺奉行(53歳)

平塚伊賀守為政(ためまさ 300石)
 宝暦8年(1758)12月7日小納戸頭取ヨリ(52歳)
 同13年3月11日辞(57歳)

奥田山城守忠祇ただまさ 300俵)
 宝暦13年(1763)3月13日小納戸頭取ヨリ(60歳)
 安永2年(1773) 1月11日持筒頭(70歳)

赤井越前守忠晶ただあきら 1400石)
 安永2年(1773) 1月11日小十人頭ヨリ(47歳)
○同年7月9日火盗改メ
 同3年(1774)3月20日京都町奉行(48歳) 

菅沼藤十郎定享さだゆき 2020石)
 安永3年(1774)3月20日西丸目付ヨリ(47歳)
○同日火盗改メ
 同5年(1776)12月12日奈良奉行(49歳)

土屋帯刀守直もりなお 1000石)
 安永5年(1776)12月12日ヨリ(44歳)
○同年同月14日火盗改メ
 同年同月同日長谷川太郎兵衛と組替

長谷川太郎兵衛正直(まさなお 1450石)
 安永5年(1776)12月14日土屋帯刀守直と組替(67歳)
 同7年2月2日持弓頭(69歳)

贄 壱岐守正寿まさとし 300石)
 安永7年(1778)2月28日小姓組番士ヨリ(38歳)
○同8年(1779)1月15日火盗改メ(39歳)
 天明4年(1784)7月27日堺奉行(44歳)

横田源太郎松房としふさ 1000石)
 天明4年(1784)7月27日西城目付ヨリ(41歳)
j○直チニ火盗改メ
 天明5年(1785)作事奉行(42歳)

前田半右衛門玄昌(はるまさ 1900石)
 天明4年(1784)10月14日横田松房と組替(56歳)
 同6年7月8日卒(58歳)

長谷川平蔵宣以(のぶため 400石)
 天明6年7月26日徒頭ヨリ(41歳)

ご覧のとおり、60歳代で発令された仁は、奥田忠祇を例外として一人もいない。
多くが40代で着任し、はやばやと次の職場へ栄転している。
こういう椅子をエリートの通過ポストとか飛び石チェアとかいうのではなかったか。

この椅子に座った平蔵だけが通算8年も塩漬けになったのだから、松平定信側のいじめにあったとしかいいようがないではないか。
 
(奥田山城守忠祇の例外の経緯はあらためて考察してみたい)

| | コメント (0)

2012.03.19

平蔵、先手組頭に栄進(3)

先手組頭は、幕臣の番方(武官系)としては、ほとんど双六(すごろく)でいうとあがりに近い。
先手組頭より上へいこうとすると、平蔵の父・宣雄が先手組頭から京都西町奉行へ転じたように、役方(文官系、行政官)の能力が求められる。

だから先手組頭のことを、「番方の爺ィの捨てどころ」などとひどいことをいうものもあった。

平蔵(へいぞう 41歳)が先手組頭を拝命したときの、先任の顔ぶれの年齢は下記のとおりであった。
41歳で登用された平蔵は、もちろん、捨てられたわけではない。
若返り策の一つとして抜擢であった。


先手・弓頭(2の組を除き9組)

市岡左大夫正峯(まさみね 82歳 1000石 11年目) 
長田甚左衛門繁(しげたけ 64歳 1300石 12年目)
一色源次郎直次(なおつぐ 67歳 1000石 6年目)
押田信濃守岑勝(みねかつ 66歳 1000石 11年目)
新見豊前守正則(まさのり 59歳 700石 59歳 2年目)
堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石 6年目)
中山伊勢守直彰(なおあきら 71歳 500石 22年目) 
山中平吉鐘俊(かねとし 66歳 1000石 12年目)
篠山吉之助光官(みつのり 72歳 500石 12年目)

平蔵を除いた弓組9名の合計年齢は588歳で、平均は64.44歳
^平蔵を加えた10名の平均は63.9歳とほんのわずか下降する。

9名の家禄をみると1500石が1名、あとはそれ以下である。
先手頭は1500石格だから、あとの8名には1500石から家禄を差し引いた足(あし)高が補われる。
もちろん平蔵もそう。
平蔵は1000石格の徒頭から1500石格となり、足高は600石から1100石格へと5割近くの昇格であった。
1石1両(=16万円換算)として500石増しだと、年額で8000万円ほどの増収であった。

この足高が先手組頭の人事停滞による高年齢化をもたらしていた。


先手・鉄砲(つつ)組(20組)

酒依清左衛門信道(のぶみち 69歳 900石 9年目)
武藤庄兵衛安徴(やすあきら 44歳 510石 2年目)
 12年目)
杉浦長門守勝興(かつおき)
 67歳  620石 11年目)
大久保弥三郎忠厚(ただあつ 66歳 1550石 16年目)
倉橋三左衛門久雄(ひさお 78歳 1000石 10年目)
 6年目)
柴田三右衛門勝澎(かつよし 72歳 500石 5年目) 
安部平吉信富(のぶとみ 57歳 1000石 11年目) 
三上与九郎季良(すえかた 73歳 600石 7年目)
遠藤源五郎常住(つねずみ 70歳 1000石 21年目)
土方宇源太勝芳(かつよし 43歳 1560石 9年目)
浅井小右衛門元武(もとたけ 77歳 540石22年目) 
清水権之助義永(よしなが 66歳 1000石 2年目)
松波平右衛門正英(まさひで 65歳 700石 7年目)
村上内記正儀(まさのり 70歳 1550石 12年目)
浦上近江守景邦(かげくに 58歳 600石 4年目)
河野勝左衛門通哲(みちやす 63歳 600石 2年目)
小野治郎右衛門忠喜(ただよし)  54歳 800石 4年目)
清水与膳豊春(とよはる 78歳 380石 11年目)
安藤又兵衛正長(まさなが 60歳 330俵 5年目)
田屋仙右衛門道堅(みちかた 72歳 300俵 10年目)

家禄が1500石以上の場合は持ち高勤めで、足高はつかない。


西丸・鉄砲(つつ)組(4組)

大井大和守持長(もちなが 72歳 1000石 10年目)
万年市左衛門頼意(よりもと 78歳 1000石 3年目) 
柘植五郎右衛門守清(もりきよ 68歳 330石 3年目)
黒川友右衛門正香(まさか 50歳 1800石 3年目)

33名中、70歳以上が9名……27パーセント以上!
65歳で線引きすると、20名で過半数を超している。
先手組といえば戦争のときには先陣をつとめることになっているのに、その指揮官が老将で機動力は万全といえようか。

| | コメント (0)

2012.03.18

平蔵、先手組頭に栄進(2)

西丸・徒頭(かちのかしら)をまだ1年半しか勤めていない長谷川平蔵(へいぞう 41歳)が、前田半右衛門玄昌(はるまさ 1900石)の病死(享年58歳)で欠員となった先手・弓2の組の組頭に抜擢されたのには、その資格に2つばかりの理由かあったとおもわれる。

その1は、この組は34ある組の中で、天明6年(1786)以前の過去50年間に累計もっとも長く火盗改メを経験している組であったこと……しかも近年では一族の長谷川太郎兵衛正直(まさなお)とか(にえ) 壱岐守正寿(まさとし) といったやり手に鍛えられていた。

ただちには無理としても、いつか平蔵を火盗改メに任じるとすると、この2の組で腕をふるわせてみたいという思惑が幕府上層部にあったとしてもおかしくはない。
治世の根本が、生活の安定と治安の安全であることは、古今東西、変わりはない。


先手組   平蔵以前50年間の火盗改メ経験順位(上位10組)

組      在任組頭    火盗改メ    通算月数   
          (人)       (人)      (月)
弓 2       16         8      144
筒11        7         4      104
弓 5        9         5       92
弓 8        9         4       64
筒13       10         4       60
弓 7        9         4       54
筒12        8         2       30
筒 2       10         2       28 
筒 4        7         2       28
弓 6       11         2       27
筒10        6         3       27

この集計は、ちゅうすけが10年ほどまえにつくったものでだから、徳川時代の人はここまで正確には意識していなかったろう。
ただ漠然と、先手・弓の2番手は火盗改メ慣れしている――くらいの意識であったとおもう。

だから、弓の2番手の組頭に据える番方(武官系)は、そのこころえのある者との資格審査みたいなものはしたかもしれない。


この常識は、田沼意次(おきつぐ)時代には平蔵(天明6年7月まで)にとってプラスに働いたが、次の松平定信(さだのぶ)時代(天明7年7月以降)にはマイナスに作用した。

というのは、平蔵の天明7年以降の火盗改メづとめは、定信政権による一種の懲罰的なおもむきがあったからである。

なんの懲罰……?

田沼派とみられたための懲らしめ――というか、いまでいう、いじめに近い。
先手・弓の2組は火盗改メの業務に精通しているのだから、そこの指揮官である組頭は最強の火盗改メであるという通念を利用した塩漬け。

いってみれば、平蔵は死ぬまで通算8年間も塩漬けにされたのである。
これは、火盗改メの在任期間としては新記録で、ほかに例がない。

(50年間でくぎっての同じ集計で、弓の2の組が在任者数が多いのは、短期で栄転していった者が多かった、いわゆる通過ポストとみなされていたのと、在任中の病死が前田玄昌を含めて数名いたせい)


_360
2_360
(前田半右衛門玄昌の個人譜)

| | コメント (0)

2012.03.17

平蔵、先手組頭に栄進

天明6年(1786)1月から7月に飛ぶのは本意ではない。

(へいぞう 41歳)にかかわりがある人事だけでも、『徳川実紀』は正月23日の項に、

このほど火災はげしければ先手頭前田半右衛門玄昌に昼夜府内を巡れ見て、放火の賊を捕ふぺしと命ぜらる。

この記述が平蔵とどうかかわるかというと、前田半右衛門玄昌(はるまさ 61歳=天明6年没 1900石)はこの半年後に病死し、後任(先手・弓の2番手の組頭)に平蔵が補されたのである。
そのことは、ずっと前に書いた記録ですましてしまいたい。

参照】2007年9月26日[『よしの冊子』] (25
2010年5月7日[ちゅうすけのひとり言] (54

前田玄昌の後任者選びの条件はおのずから決まってくる。
先手・弓の2番手は、それまでの50年間で火盗改メとしての経験が先手34組の中でもっとも豊富な組であった。
火盗改メに任ずるにふさわしい組頭ということになる。

そのことで平蔵を推したのは、西丸・若年寄の井伊兵部大輔直朗(なおあきら 40歳 越後・与板藩主 2万石)であったろうことはたやすく推察がつく。

参照】2011年3月4日~[与板への旅] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19


与板での〔馬越(まごし)〕の仁兵衛(にへえ 30すぎ)追い払い事件のほかにも、近いところでは信州・松代藩の一揆がらみの奇妙な盗難事件にも口をきいている。

参照】2012年1月20日~[松代への旅] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) 

もちろん、西丸の若年寄が本丸の先手組頭の選抜にじかには口出しはかなわない。
しかし、西丸の徒頭が本丸の先手頭へ栄転するようにとの根回しはできる。

天明6年の本丸の若年寄はつぎのお歴々であった。
(先任順 年齢はいずれも天明6年現在)

酒井石見守忠休(ただよし 73歳 出羽・松山藩主 2万5000石)
 宝11年(1761)から25年在任中

酒井飛騨守忠香(ただか 72歳 越前・敦賀藩主 1万石) 
 明和2年(1765)から21年在任中

加納遠江守久堅(ひさかた 66歳 伊勢・八田藩主 1万石)
 明和4年(1767)から19年在任中

太田備中守資愛(すけよし 48歳 遠江・掛川藩主 5万石)
 天明元年(1781)から6年在任中

安藤対馬守信明(のぶあき  陸奥・磐城藩主 5万石)
 天明4年(1784)から3年在任中

井伊直朗とは、年齢が離れすぎていた。
しいて話しやすいといえばいっとき西丸の若年寄を勤めたこともある二老の酒井忠香であった。

田沼意次の名は伏せ、明和9年(1772)の目黒・行人坂の大火の放火犯を挙げた宣雄(のぶお 享年55歳)の嫡男であるとだけ耳へ入れた。
あの火事で藩邸を焼かれていた老藩主たちは、たちまち了解した。

さらに宣雄は、鞠山藩主の一族で京都の祇園社の執行にでた水谷家ゆかりのおなごから生まれているとつけ加えた。

参照】2008年12月4日[水谷(みずのや)家] (

実紀』は、7月26日の項に、

西城徒頭長谷川平蔵宣以先手頭となる。

あっさりと書きとめているだけである。


本稿の冒頭に、

1月から7月に飛ぶのは本意ではない---

と告白した。
じっさい、昨年末までは、もっとじっくり進めるつもりでいた。
ところが、1月に事態が急変したのである。
体調が不良なので診察をうけてみたら、末期といえる重態と告げられた。

パソコンが打てなくなるのにあと1ヶ月もかからないらしい。
それでは、平蔵をいそいで火盗改メに就けなければと決心せざるをえなかった。

終えるまでにページ・ビューを1,000,000にはもっていきたい。
鬼平関連のブログ、ホームページでは世界初の記録となる。
お陰さまで、あと20日もあれば達成できそうだ。


_360
_360_2
(越前・鞠山藩主・酒井飛騨守忠香の個人譜)

  

| | コメント (3)

2012.03.16

愛馬・月魄(つきしろ)の妄想(3)

「良医といえば、手前のところの裏店で貧しい者には診立(みた)て代の請求をおくらせてやっている拓庵という先生がいます。診療と薬代はほとんど医書の支払いにあてているらしいく、着物も食事も粗末なもので、近所の者は拓庵じゃなく、漬物のほうの沢庵先生とおもっています」
音羽(おとわ)の重右衛門(じゅうえもん 59歳)が洩らした。

多岐(たき)元簡・もとやす 32歳)の顔がほころび、
「その沢庵先生、越後なまりがありませんか?」
「ありますどころか、すっかり越後弁です」
「それじゃあ、笹野さんだ」

元簡によると、拓庵は新発田(しばた)藩(10j万石)の藩医の三男で、医学館の元の塾名・躋寿館(せいじゅかん)時代に遊学にきていたが、そのころから粗衣貧食で医書の虫であったという。
藩主の手がついた侍女が産んだ双子の一方が藩医にもらわれたとのうわさもあったらしい。

紋次(もんじ 43歳)どんに、かわら板のタネになるかどうか、あたってもらいましょう」
〔箱根屋〕の権七(ごんしち 54歳)がうまくおさめ、元簡が、
「父に、拓庵先生の蔵書の一部を買いあげるように申しておきます」

沢庵先生の蔵書の中に稀書でもあれば話はできあがりですな」
^平蔵がしめた。


奈々(なな 19歳)が剛(つよ)すぎ――といったのが月魄(つきしろ)のことだとわかったときには、奈保(なほ 23歳)どのも先生もほっとしていたぞ」
腰丈の閨衣(ねやい)で、いつものように右膝を立てて冷や酒の盃を傾けている奈々は、自分の発言が座を立たせたことなどけろりと忘れてい、
「そやかて、奈保はんのとこ、いっしょになって5年も過ぎてはるのに、先生いうたら、昼間の診察のときでも、おさまjらんいうて、居間にかけこんできはるんやって---」

「それはさんにかぎるまい。われは昼間はお城につめておるからそうはいかぬが、奈々をとつぜん抱きたくなることがときどきあるぞ」
「うれしい」
奈々が膝をたたんだ。
閨へ移りたいというしぐさであった。

_100

このごろの月魄は、奈々に裸で乗ってもらいたがった。
裸でとは、奈々のことではない。
鞍をつけない月魄の背に---である。

もちろん、奈々は野袴なしなので、またいだ奈々の内股と無毛に近い秘所がじかに月魄の背に接する。
奈々も月魄のなめらかな毛並みを感じるが、月魄のほうはそれ以上にしっとりした女躰の肌の感触に酔うらしい。
「局部がのびてくる」
馬丁・幸吉(こうきち 20歳)の観察であった。

「月魄も5歳だ」
「人間なら---?」
平蔵の指がわれ目をまさぐる。

「20歳の男(お)の子といえる。雌馬を経験させてやらねばな」
「雌馬を知ったら、うちのこと、忘れてしまうんとちがう?」
「それと奈々のとは、別ごとであろう」

| | コメント (0)

2012.03.15

愛馬・月魄(つきしろ)の妄想(2)

問いかけた当人でもないのに思いあたるふしでもあったか、奈保(なほ 23歳)の面にみるみる朱がさした。
それをみとめた夫の多岐(たき)安長元簡 (もとやす  32歳)が狼狽ぎみに、
「うーむ」

奈々。そのことは、宴が果ててから先生にじっくりお教えをうけるとよい」
平蔵(へいぞう 41歳)がたしなめると、奈々(なな 19歳)はあっさり、
「そやね」
首をすくめ、空(から)になった銚子をもつと帳場へ去った。

雰囲気を察した音羽(おとわ)一帯の香具師(やし)の元締・重右衛門(じゅうえもん 59歳)が、話題を元へ戻す。
「佐久間町の先生。先刻お口になさりかけた、『(ごう)、もっと剛(つよ)』の刷り増しに代わるもののおこころあたりでございますが、いかような---?」

「廻り貸本の衆としても本の損料だけでは動きますまい。やはり、あとを引く売り薬の利が目当てでしょう。それには、病人を多くつくることです」
「病人をつくる---?」

「人というものは財ができると陽よりも陰(いん)の兆(きざ)しというか、不幸のタネをさがす生き物です。達者そうにみえても躰にこんな不具合がありそう---そう、たとえば、膝が痛むことはないか、寝つきはいいか、心の臓がときたま早く打つことはないか、肌の色が冴えないといわれたことはないか、便は毎日あるかと訊かれると、二つや三つはたちまちおもいあたるものです。そういう不具合を教えてそれにそなえる薬を教える本があれば、一家に1冊そなえ、無理にゆとりをつくって薬を求めましょう」

「しかし、薬を卸す先生のほうは、いつ売れるかも知れない薬を大量に用意しておくことになりかねないが---」
平蔵が心配した。

「いえ、医学館で用意する薬はいくつかだけで、これは塾生の小遣いかせぎにつくらせます。ほとんどの薬は貸し本屋と地元の薬舗との話しあいにすればよろしい。本が医学館の編集ということだと薬舗仲間からは文句はでないはずです」

「おお、そのための躋寿館(せいじゅかん)あらため医学館でもありましたか」
権七(ごんしち 54歳)の感心した口ぶりにおっかぶせて平蔵が、
先生。躋寿館(せいじゅかん)が幕府の医学館と改まったこと、なにかの美談にことよせて紋次(もんじ 43歳)どんのところの[かわら板]にお披露目させないとな」

「さすがさん。いいところへ気がおつきになった。父(元悳(もとのり))法眼は、塾名改称の祝賀の宴を考えております。その席で名医か良医を褒賞することを提案してみましょう」

| | コメント (0)

2012.03.14

愛馬・月魄(つきしろ)の妄想

天明6年(1786)年が明け、長谷川家はつつがなく一つずつ加齢した。

平蔵(へいぞう 41歳)
久栄(ひさえ  34歳)
辰蔵(たつぞう 17歳)
(ゆき    19歳……じつは25歳
 津紀(つき)   3歳)
(はつ     15歳)
(きよ      12歳)
銕五郎(てつごろう 4歳)
(たえ     61歳)
与詩       29歳) 

奈々(なな    19歳)  

  
正月10日の夕刻、多岐(たき)安長元簡 医師夫妻(もとやす 32歳とお奈保(なほ 23歳)が茶寮〔季四〕に顔をみせていた。
平蔵がお祝いに招いたのである。

お祝いというのは、火災で焼失した躋寿館(せいじゅかん)を多岐家が自費で再建した医師養成所が、昨日、名を医学館とあらため、幕府の正式機関と公認されたからであった。

当時34歳だった平蔵躋寿館とかかわりができたのは、火盗改メの組頭・(にえ)安芸守正寿(まさとし 39歳=当時 300石)を介しての奇遇であった。

参照】2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] () () () () () (

こうして平蔵は、多岐安長元簡と知りあった。

参照】2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (

里貴(りき 35歳=当時)も、元簡奈保を引きあわせた。

(ごう)、もっと剛(つよ)』の板行で、平蔵元簡の仲がもっと深まっただけでなく、町駕篭〔箱根屋〕の権七(ごんしち 54歳)や香具師(やし)の大元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 59歳)たちともつながった。

参照】2011年12月23日~[別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』] (1) ( () () () () (

今宵はお祝いということで、権七重右衛門も招かれている---というより、2人が元簡に相談をもちかけたいということで、平蔵が気をきかせた。

:献酬がひとわたりすんだところで権七が、平蔵に問いかけるふりでく口火をきった。
長谷川さま。あちこちの元締衆が廻り資本屋たちからの強い要望としてあげてきとるのは、『(ごう)、もっと剛(つよ)』の刷り増しです。
もちろん、当初に一刷りで刷り増しは一切なしと釘をさされておりますが、お客の声は天の声でして---」

平蔵はちらりと元簡に視線を走らせ、
「安さんの躋寿館(せいじゅかん)が念願かなって公けの医学館に格上げになったお祝いの席で、刷り増しの件を持ちだすとは権らしくもない---」

「申しわけありません」
ぼんのくぼをかいて引きさがった形の権七を、
「いや、人の慾に、まだ---はあっても、もう---はないのが、昔からのいいつたえです。刷りましの代わりになるものをなにか考えてみましょう」
元簡がとりなした。

「ところで多岐先生。男はんの精を剛(つよ)める八味地黄丸がよしとして、精を弱める漢方はおまへんの?」
訊いた女将・奈々を、怪訝な---といわんばかりに奈保が瞶(みつめ) た。

| | コメント (0)

2012.03.13

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(9)

退院・自宅緩和ケアになったら真っ先にやりたいのは、都中央図書館へ出かけ、深井雅海さん[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)を読むことと決めていた。

当ブログでも明かした。
(もっとも記したときには右肺にも病巣がある身で、東京メトロ・広尾駅の地上への階段、図書館への長い坂道を無事にこなせるかなと危惧はしていたが……)

この計画は喉につまったなにかのつかえのように、病棟のぼくを責めたてていた。

明かしてよかった。
静岡の〔鬼平クラス〕でともに学んだ安池欣一さんがコピーを送ってくださったのである。
病室で読んだ。

引用・解説されていたのは、天明6年(1786)7月下旬から水腫で静養中であった10代将軍・家治(いえはる 51歳)が、


田沼意次が推輓した奥医師若林敬順の調合した薬を服用してから、病状は急激に悪化し、八月二五日の暁に没した。これを契機に意次への非難が高まり、意は家治の死の翌二六日に辞職願いを提出し、二七日に老中を罷免されて失脚した。


……という諸書に書かれている経緯があり、田沼派追い落としの政治劇がはじまるのだが、家治の病気の現代的推測、蘭方医・若林が処方した薬の内容といった陰謀の疑いのもてる事項には触れられていない。

ご三家と一橋治済、表の政治的権力機構---大老・老中、中奥のお側ご用取次、大奥の年寄たちといった政治状況の中にいた人名と解説があり、将軍実父・一橋治済からお側ご用取次・小笠原信喜にあてた天明6年(1786)閏10月21日から同7年(1787)6月15日にいたるあいだの10通の書簡が公開され、要点に解説がつけられている。
(書簡はいずれも徳川林政史研究所が保管している徳川宗家の史料)

一読しての性急な印象は、一橋治済と小笠原信喜が密約を結んだあとのやりとりで、信喜が田沼意次を裏切った真意や、定信新政権ができてからの信喜の処遇については明かされていなかった。

もちろん、深井さんの考察は、当ブログがいまとどまっている時期の1,2年先をいっていたから、ちゅうすけの疑問の直接の解答にはならなかったが、うるところは少なくなかった。

教示で大きかったのは、
1.三家の政権への介入がこの時期、強くなっていたこと。
1.将軍・家斉の実父である一橋治済の政治的黒幕としての野心。
1.お側ご用取次衆の隠然たる政治力。

鬼平犯科帳』は、深井雅海さんが摘出してくださった[天明末年における将軍実父・一橋治済の政治的役割]から数年後が舞台である。

しかし、人間生活に明滅する信頼と裏切り劇――仲間と密偵という明と暗の人間関係をかいま見せてくれた点では、平蔵(へいぞう 40歳)が通過しなければならない主題でもあった。


| | コメント (0)

2012.03.12

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(8)

,しかし、なんとも納得がいかない。

小笠原若狭守信喜(のぶよし 67歳=天明5年 5000石)が内通に与(くみ)したきっかけが、である。

家斉(いえなり 13歳)が西丸の主(あるじ)となっていた天明5年(1785)には、年初の加増2000石をあわせて家禄は5000石となり、諸事を執啓していた。

交友もひろがっていたろうが、信喜の筋をとおす性格からいって、実家と養家のかかわりの濃い紀州藩からきた幕臣とのつなかりが多かったろう---と書き、あっ、とひらめいた。

加納備中守久周(ひさのり 33歳 伊勢・八田(やつた)藩・養子 1万石)とのあいだがらである。

加納家の祖は累代、三河国加茂郡(かもこおり)加納村に住していたと『寛政譜』にある。

参照】2007年8月16日[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入
2007年8月18日[徳川将軍政治権力の研究] (
2008年2月15日[ちゅうすけのひとり言] (

高澤憲治さんも信喜の係累に気がついたらしく、既掲出[松平定信の幕政進出工作](『国史学』第176号(平成14年4月 2012)に以下の一節を記しおられる。


加納久周は松平定信の求めに応じて同邸への訪問を心掛けており、至誠が天地を動かすので目的実現を目指して学問に励んでいるという。(中略)

加納久周の実父・大岡忠光はかつて田沼意次の上司であり、養祖父・久通は田沼の父と同じく紀州藩出身であり若年寄まで進み、養父・久堅(ひさかた)は現職の若年寄であった。

しかし、久周は大岡・加納両家が家禄と役職の両面で田沼家に凌駕され、しかも久堅より遅れて就任した水野忠友が老中に進んだことに対して不満を抱いて定信に近づいたのであろう。(中略)

久周は実父と養祖父がともに将軍職側近を勤めたばかりか、娘は御側御取次稲葉正明の嫡子である正武の室、実妹は御側御用取次小笠原信喜の養女であった。


終わりの一句には驚かされた。

小笠原信喜と松平定信との確実な接点を探して苦労していたのに、なんといういう見落としをしていたものか。

参照】2012年3月6日[小笠原若狭守信喜(のぶよし)] (

上掲個人譜の終段の末から3人目の[女子]にこうあるではないか。

女子 実は大岡兵庫頭忠喜が女。信賢が配にさだむといへども信賢死するにより、信喜にやしなはれて小笠原安房守政恒が妻となる。

珠は嚢中にあった。


_360
_360_2
_360_3
(加納備中守久周の個人譜)


_360
_360_2
_360_3
_360_4
_360_5
_360_6
(大岡久周と妹の個人譜)

| | コメント (0)

2012.03.11

ちゅうすけのひとり言(87)

有明のがん研病院の個室病棟での夜明けの4時ちょっと前からこの[ちゅうすけのひとり言]をしたためている。
じつをいうと、[小笠原若狭守信喜])としてもよかったのだが本題からそれそうなので、[ひとり言]のくくりにした。

昨日家人に、本郷の書斎から[紀州藩からのご家人(けにん 新しく幕臣になった武家) 300石以上]と表題をふったファイルを持参してもらっていた。
([300石以上]をつくっているからには[299石以下]のファイルもつくってあることはいうまでもないが、きようの話題には[以下]の家はかかわりがない)

ファイルの本体は、『寛政重修書家譜』を各家ごとにA4版の用紙に規格をそろえて貼りなおして一覧性を高めたものの集積で、50音順に綴ってある。。

なぜ、いつごろ、こんな大部なものをつくったかは、

参照】2008年2月14日~[ちゅうすけのひとり言] () (

つくるのに3ヶ月ほどかかったが、この2年ほどは手にしていなかった。

ファイルの冒頭には、静岡のSBS学園の[鬼平クラス]でともに学んだ安池さんからいただいた『南紀徳川史』のコピーが目次がわりに綴じてある。
コピーは、吉宗にしたがって江戸城入りした115名の藩士の名簿である。

今回の探索の主旨は、小笠原若狭守信喜(のぶよし 7000石 享年74歳)と小笠原主膳胤次(たねつぐ 4500石 享年62歳=享保3年 1718)の関連をたしかめるためであった。

名簿には、小笠原家が3家あがっている。
その筆頭が、

小笠原 主膳(紀州藩で若年寄 2500石) 江戸城では御側

寛政譜』の冒頭に---


家伝に、信濃守長高は小笠原修理大夫貞朝が長男なり。
長高5歳の時母死せしにより、父貞朝ふたたび海野弥太郎幸高が女を娶りて信濃守長棟を生り、継母長棟をして家を継しめむと欲し、長高を父に讒するにより父子不和となり、長高つゐに信濃国を去て尾張国にいたるといふ。
按ずるに貞朝長棟は旧家清和源氏義光流小笠原右近将監忠苗が家代々正統の祖なり。
しかるに彼系図に所見なきにより忠苗が家にたづぬるのところ古系図に長朝が男長高なるものたえてみるところなしとこたふ。
これによれば家殿うたがはしといへども、しばらく其よしをここにしるす。

尾張の武衛家に属した長高から系図をはじめている。
遠江・浅羽庄で馬伏(まぶし)城に住していた縁で徳川に仕え、後裔・清政(きよまさ)が頼宣(よりのぶ)にしたがって紀州へくだった。


名簿の13人目が信喜の養家の祖にあたる、


小笠原三右衛門正信(紀州藩で具足奉行 30石) 江戸城では小納戸800石

寛政譜』の頭書に---


家伝に、その先は藤原氏藤原氏にして遠江権守為憲の末葉左近将監清信、遠江国堀江に住せしにより地名をもって堀江を称す、その男四郎右衛門信峯今川家に属し、のち小笠原信濃守長高一族に準じてその屋号を授与せしより、氏を清和源氏にあらため小笠原を称す。信倫は其男なりといふ。

この信倫(のぶとも)は今川家につかえ、永禄11年一族とともに人質をたてて家康の陣営に加わり、三方ヶ原の合戦で武田方の2人を討ちとり戦死。


む---、
今川方から徳川方につき、三方ヶ原で戦死というと、長谷川平蔵宣以(のぶため 40歳)の祖・紀伊守正長(まさなが 戦死33歳)と弟・藤九郎(戦死19歳)とおなじ陣営に配置されていたのかもしれない。

これは、見逃せないぞ。

参照】2008年6月13日[ちゅうすけのひとり言] (14

| | コメント (2)

2012.03.10

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(7)

宝暦元年(1751)に並んで家重(いえしげ)のお側にすすんだ小笠原若狭守信喜(のぶよし 33歳 2000石)と田沼主殿頭意次(おつぐ 33歳 2000石)の2人であったが、家重が将軍職を家治(いえはる)にゆずって二の丸に引退した10年間に、大きな差がついてしまった。

信喜は病気がちになり、現役をしりぞいた。
意次のほうは5000石と3000石の2度の加増で1万石の小大名にのしあがっていた。
それだけ、人望がましたというべきかもれない。

[仁]の字を彫った珊瑚珠をつねに嚢中に携行した意次は、相手の言葉をたがわずにとらえ、依頼ごとがいささかでもかなうように諸事をはからった。

信喜は[智]にこだわりすぎるところがあり、正しいことは正しいとしながらあちこちに角がたちすぎた。
家重はおのれが[智]に遠いため、信喜の肩を借りたがったが、:けっきょくは使いこなせず、嫡子・家基(いえもと 享年18歳)につけた。

家基が不慮の死で心に隙ができたかして、[智]同士の松平定信(さだのぶ)の誘いにのったとみる。

もちろん、意次の政治手法への批判もあったろう。

以上は、ちゅうすけのひとり言ともいえる推測である。

なにごとも退院して、(深井雅海さん[天明末年における将軍実一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所 『研究紀要』 1981)を読むまでの時間かせぎみたいな妄想といっておこう。

| | コメント (2)

2012.03.09

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(6)

信喜(のぶよし)が小笠原家へ養子に入ったのは、養父にあたる当主・三右衛門信盛(のぶもり 800石)が近侍していた吉宗にしたがって江戸城入りして19年目に、小納戸から留守居番に転じた享保19年の10月であった。

このとき、養父・三右衛門はすでに病死(享年53歳)していたから、いわゆる末期養子の形といえる。
三次郎信喜は16歳であった。

末期養子の形となったのは、信喜の前に養子が入っていたからである。
紀伊藩士・野田半右衛門正守(まさもり)の息・伴蔵なにがしであったが養父・信盛よりもさきに病没したので、内々、次なる養子としては信盛の次弟・政周(まさちか)が養子としておさまっていた紀州家藩士・大井家からその子・三次郎信喜が候補筆頭にのぼっていた。

血筋でいえば「行って、来い」だし、とりわけ三次郎は聡明で、理非を見きわめる冷静さをそなえており、眉目も端麗であった。

元文2年(1737)12月25日、西丸の小納戸として出仕。この日に布衣をゆるされた(19歳)。
(たちまち、言語不明瞭な家重(26歳)の意思を解し、気にいられたのであろう)

1年後には小姓組番士(20歳)。
ここで信喜は同い齢だが、同職は3年先任で従五位下主殿頭に叙任していた田沼意次(おきつぐ)に出あった。

とうぜん、畏敬とともに、競争心というより敵愾心をおぼえたろう。
はっきりしない家重の言語をくみとるのも、意次のほうがたくみであった。
面もちの秀麗さでも相手がまさっていた。

意次はそつがなかった。
三次郎どのよ。同齢ということは、われら二ッ児(ふたつご)のようなものとこころえ、ともに奉公にはげもうぞ」
意次が示したのは、2ヶの珊瑚珠であった。
それぞれに[智]と[仁]の字が彫られていた。
「おことはいずれを採る?」
信喜は[智]をえらんだ。

「よかろう。おことは[智]をもってお上に仕えよ。われは[仁]のこころで奉公する」
ことあるごとにお互いの珠を示してはげましあった。

元文4年(1739)、信喜(21歳)も若狭守に叙勲し、格は意次とならんだ。

しかし、この年、信喜意次に「負けた」とおもいしらされた。
湯島天神の矢場の矢取りおんなを張りいあい、意次にとられたのであった。
とられたというより、九美(くみ 17歳)が意次に身をまかせた。
三次さんより竜助さんのほうが剛(つよ)そうって、おんなにはわかるの」
九美のこの評価で喪失した信喜の男としての自信は、永らく回復しなかった。

隠居した吉宗に替わり、家重(いえしげ 34歳)が本丸の主となった延享2年(1745)、2人(27歳)そろって本丸の小姓組へ移ったが、ここでは1年半後に信喜のほうが半年ばかり早く番頭の格と新恩1200石をえ、自信がよみがえらせた。

もっともそのからくりは数年後に、信喜のことに気をくばった意次が、その昇格ばなしをゆずったのだとわかり信喜をしょげさせた。

若いころはおんなの競りあいと肩書きの重軽が気になるのは、古今の例であろう。

寛延元年(1748)閏10月朔日、意次(30歳)は小姓組の番頭となり、1400石加増とともに奥のことも兼ねるようにいわれているので、鼻の差だけ出たといえようか。

宝暦元年(1751)7月18日、2人(33歳)はとも並んでに家重のお側に任じられた。


_360_4
_360_2
_360_3
(小笠原若狭守信喜の個人譜)

| | コメント (0)

2012.03.08

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(5)

(深井雅海さん[天明末年における将軍実一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所研究紀要 昭和五六年度)を未見のまま、小笠原信喜の項をこのままつづけていいのかな?」

この数日間の逡巡である。

内通は考え方によっては、もっとも卑劣な行為である。

それを、信喜側の事情も調べないですすめようとしている。
ぼくがわの理由はあるにしても、都の中央図書館か国会図書館にはあるはずの資料も確認しないですすめることは是か否か?

懊悩していてもはじまらない。
できるところから手をつけるべきであろう。

さいわい、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』は自家にある。
家人にいいつけ、病院内のコンビニのコピー機で小笠原信喜個人譜をつくった。
(入院前の数ヶ月間はオフィスのデザイン用の透視台にマス目の下シートをおいて位置ぎめをしていたから、あまり曲がらないできれいにつくれたが、病院内には透視台のような便利な機器はないから、正確にはなかなかいかないがお許しいただこう)

信喜が紀州藩士・大井武右衛門政周(まさのり)の子であることは家譜に記されている。
大井家が紀州藩においてどの程度の家格であったかまではまだ調べていない。
ただ、大井姓の藩士は、吉宗の江戸城入りにはしたがっていないことだけははっきりしている。

一方の小笠原家については、こんなことをこれまでに調べている。

参照】2007年2月15日[ちゅうすけのひとり言] (

信喜が養子に入った小笠原家と、吉宗の重臣として江戸城入りした紀州藩年寄・小笠原主膳胤次(たねつぐ 60歳)との関連は、手元においている紀州藩士のリストでは分明しない。
つくっておいた戸城入りした紀州藩士200家のデータからは関係が読みとれないというだけのことで、いずれ紀州藩士名簿ででも確認したい。

もっとも、信喜はよほどに有能であったか、上層部に気に入れられたのであろう、800石であった養家の幕臣としての家禄を一代で10倍近い7000石にまでふくらませている。

これ以上の例は、田沼意次のほかには、加納家、有馬家ぐらいといっていい。
(閨閥となった岩本家などは別として---)

扶持の点にかぎっていえば、反田沼派となる要因はみあたらない。

いよいよ、[天明末年における将軍実一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――]の閲覧が待ちとおしい。


| | コメント (0)

2012.03.07

小笠原若狭守信喜(のぶよし)(4)

高澤憲治さんが『国史学』(第176号 平成14年4月 2012)に発表した労作[松平定信の幕政進出工作]に、こんな一節がある。

(田沼意次は天明)元年(1781)一二月一五日には嫡子意知を奏者番に任じ、三年一一月朔日には若年寄に昇進させて世間の反発を招いた。だが、四年三月に意知が暗殺されて将来の政権移譲のもくろみが潰え、庶民のほか幕臣層にも徐々に田沼批判勢力が形成されていったがも閨閥関係による幕閣支配を続ける一方で、名門譜代層を奏者番に多数起用して親田沼勢力の拡大を計っている。

指摘によって『柳営補任』の奏者番の項をあらためてみた。

天明3年(1783)3月朔日(年齢は天明5年現在)
松平右京太夫輝和てるやす 36歳 上野・高崎藩主 8万2000石)
 (同4年4月26日寺社奉行兼)


板倉肥前守勝暁(かつとし 59歳  上野・安中藩主 3万石 )


松平能登守乗保(のりやす 41歳 美濃・岩村藩主 3万石 )

つづいて、
天明4年(1784)5月15日
板倉左近将監勝政(かつまさ  29歳 備中・松山藩主  5万石)
 (同8年寺社奉行兼)


西尾隠岐守忠移(ただゆき 40歳 遠江・横須賀藩主 3.5万石)
参照】2007年1月20日[[西尾隠岐守忠移の内室] 


植村右衛門佐家利(いえとし 27歳 大和・高取藩主 2.5万石)

さらに、
天明4年12月24日
松平伊豆守信明(のぶあきら 26歳 三河吉田藩主 7万石)


前にも報じたが奏者番は、若手譜代大名の嫡男たちのうちから、いささかでもまともな人物であれば選抜される。定員というか、構成員数は30名前後。
上記のとおり、天明3年から4年へかけ、田沼意次が奏者番として意識的に新規に選抜したのは上記の7名である。

任期がつづいている22名の奏者番の色分けのリスト化は、

参照】201215[「朝会」の謎] (

---上記のとおりだが、新任の7名の中の板倉左近将監勝政、植村右衛門佐家利、松平紀伊守信明は、高澤憲治さんが定信派と[松平定信の入閣をめぐる一橋治済と御三家の提携]であげていた若手大名たちである。

あぶりだしのために登用したのであろうか?
裏読み的な興味をそそられる。


_360
_360_2
(板倉肥前守勝政の個人譜)

| | コメント (0)

2012.03.06

小笠原信濃守信喜(のぶよし)(3)

きのう引用した『林陸朗先生還暦記念編 近世国家の支配構造』(雄山閣出版 1986)に収録されていた高澤憲治さんの論文[松平定信の入閣をめぐる一橋治済と御三家の提携]は、こんな書き出しで始まっている。

寛政改革は、松平定信を前面に立てた徳川一門・譜代勢力が、反田沼的風潮のはげしい人民蜂起を背景にして田沼派に圧力をかけ、その最後の牙城である将軍側近役人の排除に成功することにより開始された。
そして、徳川一門・譜代勢力の中核的役割を果たしたのは将軍実父である一橋治済であった。
彼にとって御三家は、いわば新興勢力である田沼派の幕閣に圧力を加えるための譜代派の表看板であり、治済はその裏で、別に将軍側近役人である御側御用取次の一人小笠原信喜を掌握して幕閣内部の動きを把握し、また田沼政治の匡正、定信の老中実現に努めていたのである。

この論文の典拠を高澤さんは、深井雅海さん[天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割――御側御用取次小笠原信喜宛書簡の分析を中心に――](徳川林政史研究所研究紀要 昭和五六年度)に拠ったと注記している。

じつは、深井雅海さんの論文が掲載されている『徳川林政史研究所研究紀要』を都中央図書館へ読みに行こうとおもっていた矢先の入院・手術・療養だったので、まだ手配していない。

しかし、徳川林政史研究所の所長が大石慎三郎さんであったこと、深井さんが国史学会のメンバーであることなどから、おおよその内容は推察できるが、『紀要』が昭和五六年度(1981)という時期のものであることに一種の畏敬をおぼえていた。

つまり、大石さんを先鋒とする、日本の学界では数少ない田沼意次の偉業見直し派の視点による天明・寛政史が正確に描かれていると楽しみにしていたのである。

しかしいま、身は病室にあるので、自宅療養の日までおあずけである。

さて、深井雅海さんも会員である国史学会の季刊『国史学』誌の3つの号に高澤さんが発表した3つの論文を主題の時系列にしたがって列記すると、

松平定信の幕政進出工作     第176号(平成14年4月 2002)
田沼意次の追罰と松平定信政権 第171号(平成12年4月 2000)
松平定信政権崩壊への道程    第164号(平成10年2月 1998)


初段の定信の[幕政進出工作]に、謀議のために参会した月日と出席者の主だった顔ぶれと話題が表にして掲出されている。

天明5年(1785)9月28日を一例として借用すると、参会場所は牧野備前守忠精(ただきよ 26歳 越後・長岡藩主 75000石)の外桜田の上屋敷。

主だった参会大名は忠精は当然として、松平伊豆守信明(のぶあきら 26歳 ・三河・吉田藩主 7万石)、加納遠江守久周(ひさのり 33歳 伊勢・八田藩 1万石)など。

話題。
・乱舞の効用。
・大名の心得。
・君への忠誠心。
・家臣への対応。
・主人も政令を守るへし。
・後代を考慮、文庫金ほ存続。
・家臣の勤務を不時に視察。
・信明。牧野、加納という多様な性質が組み合わされば将軍の為になる---

といった政党の青年部会の懇談程度のものであったが、秘密に集まり自由に吐露したというだけで興奮していたのだから、他愛もない。

記述に奇異な感じをいだいたのは、権力奪取の謀略戦は、野戦や城攻防戦とは異なり、その手口や経緯があからさまになるような痕跡をのこしていいのかとおもうからである。

城攻めだって調略が併用される。
調略が城兵方につつぬけになっては、裏切りの主は生かしておかれまい。

| | コメント (0)

2012.03.05

小笠原信濃守信喜(のぶよし)(2)

今日から1両日ほど、メモ形式になることをお許しいだきたい。
というのも11日前から、有明のがん研病院の末期病棟にとじこめられており、あと1週間はこのままと宣告されている。

個室だが、なにぶんにも手狭で資料類が手元になく、書斎から運びこむにも人手が足りないし、手術後のチューブ類をつなかれている躰も動きがおもうにまかせない。
口からの摂取はこの先ずっと不能で、体力もおぼつかない。

せっかくだから中断は避けたいということで、細々とつづけている状態。


碩学・竹内 誠さん『徳川幕閣のすべて』(新人物往来社 1987)からノートに写している、

松平 定信の盟友      田沼 意次側の主要抜擢者   

本多 忠籌          巨勢 利啓   
松平 信明          小笠原信喜          
戸田 氏教          巨勢  至忠
牧野 忠精          中島 常房
加納 久周          大屋 明薫
松平 信道          松下 明永
本多 忠可          本多 行貞
堀田 正穀          山本 茂詔
(色変わり=クリック。個人譜)      


疑念は、『徳川幕閣のすべて』の田沼側にあげられている小笠原若狭守信喜(のぶよし 67歳=天明5年 7000石)にまつわるうわさである。

林陸朗先生還暦記念編 近世国家の支配構造』(雄山閣出版 1986)に収録されていた高澤憲治さんの論文[松平定信の入閣をめぐる一橋治済と御三家の提携]に、治済(はるさだ)が、田沼陣営の情報をとるために、家治(いえはる 46歳)の用取次をしていた小笠原信喜を一つのルートとしていたと明かされていたことであった。

そんなことがどうしておこりえたかを季刊『国史学』(国史学会)に掲載されている高澤さんの関連論文からさぐってみたい。

| | コメント (0)

2012.03.04

小笠原信濃守信喜(のぶよし)

長谷川さま---権七です」
月の光であらためるまでもなく、声も顔も旧友の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)であった。

さん、こんなところで、どうした?」
「この寒さの中で立ち話をしていて風邪でもくらいこんでは引きあいません。さいわい、そこに屋台の飲み屋がございます」

耳にいれたいことがあり、三ッ目ノ橋南通りの屋敷へうかがったら、客と連れだって〔五鉄〕だといわれ、そのあと黒舟の注文があったので、入れ込みで待ってい、お連れのお客さんには聞かせたくない報らせだったので、舟が消えるのを待ってあとを追ったのだと。

長谷川さま。大納言(家斉 いえなり)さまのお側ご用取次の小笠原若狭守という旗本さんをご存じでございますか?」
「しっているもしにないもない。小笠原若狭守信喜(のぶよし 68歳 7000石)どのといえば、有徳院殿吉宗 よしむね)さまというより、惇信院殿家重 いえしげ)さまのお気に入りで、いまは家斉(いえなり)さま---つまりはわれの主(あるじ)のお側衆のお一人である」

油紙を貼った腰板障子をめぐらせて北風を避けている屋台に落ちつくと、
「ご亭主。われは冷や酒、こちらは熱燗でな」
注文をとおし、相手がととのえている隙に、ひそめ声で、
「で、若狭老がどうしたって---?」
「うちの加平(かへえ 35歳)を覚えておいでですか?」
「もちろん。御宿(みしゃく)稲荷の先の〔駕篭徳〕につめてくれた若い者(の)だろう?」
「もう、若くはありやせんが---ね」

参照】2010330~[茶寮〔貴志〕のお里貴] () () () () (

知りあった茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳=当時)のほんとうの姿をたしかめたくて、〔箱根屋〕の権七のところの舁き手・加平時次(ときじ 22歳=当時)を近くの駕篭屋へ預けたこともあった。
それが機縁で2人は探索しごとに通じもした。

その加平が、先夜、越中橋から外桜田まで、大身らしい老幕臣を乗せた。
供も駕篭も先に返したらしく、まったくの独りというのが異様であり、降りるときに紙入れを所持していないことに気づき、門前でしばらく待たされたという。

「それで翌日、ついでもあり身元をたしかめに行ったら、なんとお側衆のお一人の若狭守さまだったというのです。前夜、出てきた屋敷が白河藩の上屋敷だったので、あっしに話してくれた次第で---」

平蔵も首をかしげた。

小笠原家は紀州藩士として吉宗の江戸城入りに随行し、幕臣となった家であった。
若狭守信喜の時に800石だった家禄を5000石にまでふくらませた。

田沼意次と比肩すると世間が噂するほど家重の信頼が篤かったし、意次も同世代の話相手として重用していた。


 


| | コメント (4)

2012.03.03

天明5年(1785)12月の平蔵(8)

「今宵も、ご馳走になりっぱなしで---」
〔五鉄〕特製のしゃもの肝の甘醤油煮の折詰めを片手に、挨拶をした庭の者・支配役の倉地政之助満済(まずみ 46歳)を二ッ目ノ橋下の舟着きに待たせておいた黒舟まで見送り、
倉地さん。相良(さがら)侯にお会いになったら、非力ゆえなにもできませぬが、ご忠告、ありがとうございましたとお伝えおきください」
平蔵(へいぞう 40歳)の実感であった。

戦場での斬りあいなら、いささかの自信はあるが、いま老中・田沼意次(おきつぐ 67歳 相良藩主 5万7000石)が仕掛けられている柳営での権力闘争には、平蔵の一刀流はさして役にたたない。

倉地が乗った小舟の灯が大川のほうの闇へ消えるのを見送った平蔵は、くさめを一つして襟元をあわせ、提灯の蝋燭を消し、月あかりをたよりに竪川ぞいに東へ歩きはじめた。

先刻、「われら庭の者が役目で出向いたとき、最初にやりますことは、探索先の中に不満をもっている者を見つけて手なづけることです。お上のお傍らの衆の中にそのような者がいれば、反対側もそこに目をつけていましょう」
倉地がつぶやいた台詞に似たことを読んだ記憶がよみがえった。

遠いむかしの『孫子』であった。

23歳の銕三郎(てつさぶろう)が、父・宣雄(のぶお 50歳=当時)から渡された『武芸七書』のうちの『孫子』[用閒篇]---

閒者には、5つの用い方があり、その中の2つが---
以前からその地に住んでいる者を諜報者として取りこんだ間者を[因閒(いんかん)]という。
買収されたり、色じかけで転んだ相手国の官吏が[内閒(ないかん)]である。

参照】2008101[『孫子 用間篇』]

倉地は、庭の者の外様大名領の探索にことよせてつぶやいたが警告したのは、反政権側の動きとすると、2つのうちの後者だな---)

---と。

先ほどから尾行(つ)けてくるかすかな足音に気がついていた。

これにも記憶があった。

殿さま栄五郎という遣い手の盗賊との一戦であった。
場所もこのあたりだったような---。

参照】2010年7月1日][〔殿(との)さま〕栄五郎 (

相手が呼びかけた。
長谷川さま---」

| | コメント (0)

2012.03.02

天明5年(1785)12月の平蔵(7)

新橋・双葉町の田中藩の中屋敷から三ッ目通りの屋敷で戻ってみると、意外な人物が待っていた。
庭の者支配の倉地政之助満済(まずみ 46歳)であった。 

梅雨が明けた赤夏のころ、茶寮〔季四〕でもてなした---といっても、酒をやらない満のこと、あれしきの料理でもてなされたとは感じてはいまいが。

参照】2012年1月11日~[倉地政之助満済の憂慮] (1) (2) (3) (4) () (

倉地うじ。すこしおやつれのようだが---?」
「お目ざわりでございましょう」
濃い髯の剃りあとの青々しさはいつものとおりだが、頬の肉がすこし落ちていた。 

「お役目で長旅に出ておりましたゆえ---」
「よほどに貧しい土地への旅であったとみえる」
「その地の主(ぬし)がある席を贖(あがな)うために土地の者に重い費(つい)えを課しまして---」
「面白そうな話、席をあらためてからじっくりと聴かせてくだされ」

平蔵(へいぞう 40歳)導いたのは、2ッ目ノ橋北詰のしゃもリ鍋の〔五鉄〕であった。
下の追い込みは満席に近かったが、平蔵が目で合図すると、ころえた三次郎(さんじろう 36歳)は、客のいない2階に鍋を用意した。

「町人の滋養の源泉だが、武家はめったにこない」
仕込み箸でたくみに具をまぜながら、
「武家の活力がうすくなったのは、食い物のせいかもしれぬな---煮えたようじゃ。味見なされ」

しゃも肉をほうばっている満済を面白げに眺めながら、平蔵は独酌をたのしんでいた。
肴は、しゃもの肝の甘煮を落とし生卵にひたしては口にふくんでいる。

倉地うじの肝の甘煮は、奥方用に包ませてあるが、味見をなさるか?」
仕込み箸で一片をつまみ、満済の口へ差しいれた。

味わう。、
「珍味でございます。柔らかなこの歯ごたえに、お(せん)もしびれましょう」

ひとわたり腹がくちくなったところで、倉地が、
相良(さがら)侯(田沼主殿頭意次 おきつぐ 67歳)からのご伝言でございます」
箸をおいた平蔵に、
「案ずることはない。お上があられるかぎり、われらの政事はうまくいく---と」

頭を下げて聞いていた平蔵であったが、
将軍家(いえはる 46歳)さまがいつまでもご壮健であればのことだが---)

平蔵が口にだしかねた懸念を、白飯に鍋ののこりをさらえてのっけていた満済がさりげなく、
「われら庭の者が役目で出向いたとき、最初にやりますことは、探索先の中に不満をもっている者を見つけて手なづけることです。お上のお傍らの衆の中にそのような者がいれば、反対側もそこに目をつけていましょう」
つぶやいた。

| | コメント (0)

2012.03.01

天明5年(1785)12月の平蔵(6)

極12月--恒例の慶事の一つが発令された。
授爵である。
ほとんど内定されていたとはいえ下賜者は形式的には天皇名だし、受けとるまで不安がないでもない。

西丸・若年寄の井伊兵部少輔直朗(なおあきら 39歳 越後・与板藩主 2万石)とすれば、本家である江州・彦根から養子に迎えたばかりの直幸(なおひで 57歳 34万石)の八男・直広(なおひろ 18歳)が和泉守に叙されたことがうれしかったろう。

直広の養子・縁組については老中で御側を兼ねた実力者であった田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳)が十分に意をくんだとおもえる。

誤解のないように急いで加筆しておく。
恒例の授爵は譜代衆の柱である井伊家のみにふるまわれたわけではない。
井伊家は受爵者をだした25家の中の1家であった。

嫉みは井伊直朗の内室が意次の四女であったことに集まった。
意次の四女が産んだ一男一女は幼時に歿しているから、縁はかなり薄れていたが、妬心はふくれる一方で小さくなることはない。

変に疑われないために平蔵は、室町の〔伊勢屋〕の背筋2本に腹筋1本の箱詰にした。
これなら、武家の贈答としてごくごくありふれている。

受けた向柳原の上屋敷の用人のほうも、ものなれた季節の挨拶ふうに淡々と受けただけであった。

(そうか。譜代一門で井伊より上はないのであるから、直広の叙勲ごときで仰々しくさわいでは恥さらしである、何げなくふるまえと、人一倍に外見をおととのええになる直朗侯らしい)

丸4年前に陣屋のある与板のなんでもないない盗賊事件を平蔵が出張って解決したときも、さしたる称揚はしてくれなかった。
(おことなら、解決して当然---)
といった風情であったが、そのあとはきっちり支えてくれたし、与詩(よし 28歳)゛の与板移住にも力を貸してくれた。

参照】2012年12月16日[長谷川家の養女・与詩の行く方]
2012年12月10日~[{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎] () () () () () () 

| | コメント (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »