鎖帷子(くさりかたびら)あわせ
書きだされた身上書の記述をひととおり暗記すると、平蔵(へいぞう 41歳)は下城後、組の与力10人・同心30人を、10組にわけ、交替で三ッ目通りの自邸へこさせた。
与力1騎に同心3人ずつが1組。
与力は、寄騎が転じたいい方である。
したがって、与力には馬の口取りがつくのがふつうであった。
以前に作らせ、用具小屋へしまっておいた鎖帷子(くさりかたびら)の寸法あわせのための呼びこみであった。
【参照】2011年1月25日[武具屋〔大和屋〕仁兵衛]
「いざ、出動となったとき、口取りはだれにするかを決めておき、似たような体つきの同心が選んだ鎖帷子は大・中・小をどれであったかを、こころえておくように」
口取りを伴わせなかったのは、試着をすませてからの菊川橋たもとの酒亭〔ひさご〕 での酒食の座にいっしょに着かせては、身分違いのせいでかえって萎縮するとおもったからであった。
〔ひさご〕では座持ちはもっぱら与力にまかせ、平蔵はもろもろの話題をにこにこと聴いているだけであったが、ときどき、
「そうか、吉川晋助(しんすけ 29歳)の父(ててご)ごが5年前に亡じられた元は、風邪であったか。風邪をおろそかにあつかってはならぬの」
とか、
「木村斉伍(せいご 23歳)の祖は甲州の中道ぞいの右左口(うばぐち)村とな。武田どのの里伏(さとぶ)せ武士ででもあったか?」
間(あい)の手に氏名を入れるので、同心などはたちまち親しみを覚えてしまった。
同心のような下の者にすれば、組頭に自分の顔と名前を覚えてもらえただけでも嬉しいのだ。
木村斉伍などは、嬉しさのあまり、
「組頭はわが右左口村までおはびになったことがおありで---?」
こころやすだてに訊き、次席与力の館(たち) 朔蔵(さくぞう 42歳)がたしなめると、
「かまわぬ。右左口村の手前に中畑(なかばたけ)という里があろう?」
「はい」
【参照】2008年11月1日[『甲陽軍鑑』] (1) (2) (3)
「その村で育ったとかいうおなごから『甲陽軍鑑』の講釈を受けたことがある。10年以上もむかしのことじゃが---」
「『甲陽軍鑑』を口演しておるとすれば、当然、美形---?」
「これ、木村!」
館 次席の叱正をさえぎり、
「よい、よい。余興じゃ。すこぶるつきの色白であった」
「それで---?」
「西のほうの大きな湖で死んだ。それだけのことじゃ」
「まさか---」
「われは斉伍と違ごうて、おなごのこわさをしっておっての。は、ははは。斉伍よ、非番の日には『甲陽軍鑑』の講釈でも聴きにいくがよい」
平蔵のそれだけの打ちあけ話で、木村斉伍はお頭の一の子分になったっもりであった。
先手組の同心の江戸城内側の5門警備は4,5日に1日(昼夜)の出勤と、非番の日のほうがが多いので、内職にはげむ者がほんどであった。
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