ちゅうすけのひとり言(15)
鬼平こと、長谷川銕三郎(てつさぶろう 遺跡相続前の名)宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)の跡目継承のあれこれにことよせて、徳川幕府の制度に寄り道をしている。
ついでにいうと、鬼平の家---長谷川の分家の当主の呼び名は、五代目の宣安(のぶやす)まで伊兵衛(いへえ)であった。
六代目の権十郎宣尹(のぶただ)は、寛保16年(1731)の宣安の死とともに17歳で家督したが、なぜか、伊兵衛を名乗っていない。
家督から6年間、病いがちで、出仕がかなわなかった。
元文2年(1736)、西丸の書院番士として番入りしたが、病欠しがちで、けっきょく5年で病気辞職となった。
小康を得た2年後の延享4年(1747)の5月に、西丸の小姓組に復帰したものの、半年でまたも病欠つづき。
上役や親類に迷惑のかけっぱなしで、この翌年正月の10日に他界した。
『寛政譜』の宣尹逝去の日付は、寛延元年(1748)1月10日と記載されている。
菩提寺の「霊位簿」も1月10日と、同簿を検証した釣 洋一さんが記している。
ただ、辰蔵(呈上時は平蔵宣義 のぶのり)が幕府へ呈上した[先祖書]には、延享5年(1748)1月10日とも2月10日とも読みとれる記載をしている。
([先祖書] 六代目・宣尹の項)
上掲の末尾の四行を活字化したものを写す。
延享五年二(または一)月十日卒 齢不知葬
同所 号 円耳院郎是日順
宣尹妻 無御座候
宣尹養子 譜末ニ有之
延享5年は、7月12日に寛延と改元されたから、それ以前に書かれた記録は、延享としているはずで、しかも記したのは宣雄だろうから、10日は間違いない。
1月10日ととれば、すべてが合致する。
2月10日と読んだ場合は、[先祖書]に意図的なものが匂う。
すなわち、宣尹の死は、西丸・小姓組番士として現役中の死であるから、辞職届、実妹・波津(小説での名)の養女願い、波津と従弟・平蔵宣雄との婚姻届、さらには宣雄の跡目相続願いなどを無事に終えなければ、家が絶えてしまう。
その間の手続きを、与頭(くみがしら 組頭とも表記する)をとおして番頭(ばんかしら)へ、さらには若年寄へとすすめる。
その猶余期間が、余裕をみての1ヶ月。
34歳にもなって妻帯できなかったのは、病気が伝染しやすい種類---つまりは肺病(肺結核)だったのではないか。
それからの類推で、養女にした実妹・波津(はつ 小説での名)も同じ病疾で30歳前後まで嫁にもいけなかったばかりか、寝たきりだったとみる。
彼女の婿養子となることを宣雄が承諾したのは、もちろん、家禄を維持するためもあるが、同居していた銕三郎(てつさぶろう 3歳)の実母・妙(たえ 23歳 このブログでの名)も、嫉妬に狂乱することもなく納得したからであろう。
幼い銕三郎を、波津の病室へ近づけないことのほうに気をつかっていたと想像しているのだが。
当時、肺病は、不治の病気と恐れられていた。
【つぶやき】辰蔵が幕府へ上呈した[先祖書]のコピーは、長谷川本家の末裔・長谷川雅敏さんが国立公文書館から写したものをいただいた。
それを、研究家の釣 洋一さんが古文書の専門家に活字化を依頼されたものをいただいた。
両方を読みくらべて、引用させていただいている。ご両所に感謝。
なお、雅敏さんとのお付き合いは、平蔵の末裔を訊ねられたことから始まった。
九州の日銀小倉支店勤務だったこともあるらしいとまでは耳にしたのだが。
| 固定リンク
「200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事
- ちゅうすけのひとり言(95)(2012.06.17)
- ちゅうすけのひとり言(94)(2012.05.08)
- ちゅうすけのひとり言(88)(2012.03.27)
- ちゅうすけのひとり言(90)(2012.03.29)
- ちゅうすけのひとり言(91) (2012.03.30)
コメント
学友の石井さんから、以下のメールをいただいたので、転載させていただく。
鬼平 Who’s Who の今日の分興味深く拝見。問題の「先祖書」の年紀部分ですが、これはどう見ても「延享五戊辰年二月拾日」と見えます。もし年の字と一の字を続けて書いたのなら、年の字の最後が撥ねた形になるのはおかしいし、前の項目では年の字ですべて一旦切って書いているので、ここも続け書きではなくて単に詰めて書いているだけだと思います。元のテクストを見ずに断定はできませんが、ディスプレイ画面でもプリントアウト紙面でも、同じように見えます。余計なことながら、ご参考までに。
投稿: ちゅうすけ | 2008.06.29 15:51